紙一重

よくも悪くも遠い昔から「天才とバカは紙一重」とよく言われていると私はよく思うのだ。よくドラマでは落ちこぼれがいきなり自分の中の深くに眠っていた才能を開花させるというものが多い。しかし、それだとあまりにも現実味がないと私は思った。
 私がそのようなドラマと現実の違いは何かと考えた時に発見や気付きというものが才能を発掘させることが多いと私は考えた。私にとってみれば才能を開花させるのに必要なのは回りの人がその才能に気づかなければならないとしか思えないのだ。その点で考えればドラマというのは所詮フィクションなのであると考えられるのだ。
 例えばの話だが私の友達にも天才と言えるような人がいる。しかし、残念ながらその友達はバカという言葉で才能の発掘を阻害されているのだ。それは人間の心理学が働いておりナショナリズムと同じような考え方に近いと思えるのだ。それは多種多様性を尊重せず一つのもので人々をまとめることが近いと思えるのだ。我々人間をまとめるとしたら日本人でもいいのだ。外国人にしろ外国という国があるわけではなく、いろんな国をまとめて外国と言われる。それが天才の発見に壁を作っているのだ。
 いきなり脱線するが多種多様性を私はあまり推奨しない。理由は簡単で少数派がその考え方を支持しているからだ。トランスジェンダーやバイセクシャル、ゲイも多様性の中に入られるが生物学の観点からみればそれは精神面での問題であり性別は男女の2つしかないのだ。それと同じように多種多様性を尊重するにしろしないにしろデメリットとメリットが同時に発生するということは事実のほかにならない。厳密にいえばその問題が深刻なのは「ちょうどいい」という利害がないこと、簡単にいうと極端なのだ。多種多様性をちょうどいいで尊重するともちろん自分のことを認知されない人がでてくるはずだ。そのときに差別という言葉で反対されるのだ。だからと言って全面的に多様性を認めれば新たな問題が出てくるのだ。その観点から見てすべての出来事に完璧など存在しない、ただそれがちょうどいいから決まっているだけなのだ。
 私も自分のことを天才と思ったことがあるがそれは自分の認知が歪んでいた、もしくはそれを好まなかった人たちが直したと考えられる。いや、そうとしか考えられないのだ。人を直すのは簡単だが、それはメリットもデメリットもあるとこのことから考えれることができるのだ。

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