2020.6.30 演劇ができない

仕事ができない。
さまざまな人が、それはもうさまざまな理由で。
人が集まれない、触れ合えない、
気持ちが追いつかない、怖い、
周りの目線。

なぜ仕事をするか。
養うため。
自分を、誰かを、心を、未来を、あるいはたった今を。
支えるため。
周りの目線、わたしの目線。

仕事しなくたっていい。
生きてさえいれば。
死んだっていい。
感情さえ無視すれば。
誰に頼まれるでもなく今日も。
おのずと今日も。
断る自由、すなわち消える自由、死ぬ自由。
壊す自由、すなわち消す自由、殺す自由。
この自由とはつまり変化への欲求であり、
革新精神からの手招きである。

なのに、殺すわけでも死ぬわけでもない。
保守精神がわたしの秩序を守っている。

保守と革新、その葛藤。
それをホメオスタシスとトランジスタシスというらしい。
(エヴァ15話より)

生きながら死を思える、という矛盾。

演劇ができない。
さまざまな人が、それはもうさまざまな理由で。
人が集まれない、触れ合えない、
気持ちが追いつかない、怖い、
周りの目線。

なぜ演劇をするか。
養うため。
自分を、誰かを、心を、未来を、あるいはたった今を。
支えるため。
周りの目線、わたしの目線。

演劇しなくたっていい。
生きてさえいれば。
死んだっていい。
感情さえ無視すれば。

でも演劇を選んでいる。
選択の自由。
自由という責任。
この「統治」された国において自由に生きるということ。
統治という不自由の中に生きる個々の生命の根本自由。
これまでの歴史や、今生きている誰かの血汗涙への感謝。
選べていることへの感謝。
しなくてもいいことをしている、ことへの責任。
すなわち、生きていることへの責任。
自分を満足させる責任をわたしは負っている。
誰かに転嫁することはありえない。
自己責任論。
自己責任論は思い詰めると死に行き着く、
空虚になって、無意味になるから。

この責任の中で、
わたしはさらに選ぶ。
保守か革新か。

この葛藤は呼吸に近い。
吸うことと吐くこと。
新たな酸素を取り入れることと古くなった二酸化炭素を捨てること。
それらは、生命維持のためのワンセット、
呼吸とはつまり総合的に見ると保守的といえる。
呼吸は保守行為だ。

では革新とは何か。
それはやはり吸うことであり、吐くことである。
であれば、保守とは息を止めることになるだろうか?
しかし息を止めると死んでしまうので変化が起こり結果的には革新行為になる。

これは矛盾している。
なぜか。
それは、見つめている時間のスパン、長さが異なるからである。

ひと呼吸は5秒程度だ。
人生は100年だ。
吸うことと吐くことは革新的行為だが、
呼吸し続けて100年生きることは保守行為だ。
つまり、短く区切ると革新行為が生まれ、
長く眺めると保守行為に変わる。

イノベーションという革新行為がある。
新発明、新概念の発見、シェアの拡大など。
だがそれらは、自己責任論の中ではすべて個人に還り、
個の保存のための保守行為ともいえる。

つまり、とある自分の行動を、保守的と捉えようが、
革新的と捉えようが、それらのすべては自己責任論においては、
「時間の経過」の末に保守行為だったことになってしまうのである。

保守だろうが革新だろうが、
すべての選択はすべて自分に返ってくる。
自分に返ってきたときに自分を満足させられるか、否か。
自分という個を保存できるか、否か。
自分という個を保存するための条件は人それぞれである。
人間は死んではならないというルールが定められていないのであるから、
(国によっては自殺罪などがあるが、死んだら関係のないことだ)、
いつどこで死んだっていい。
仮に殺人のような破壊行為だったとしても、
結局は自己責任論においては個の保存が優先されるのであって、
ひとそれぞれに好きにやればいい。
すなわち、保守のための革新行為の自由である。

時間を、年輪のようにとらえてみると。
年輪は切り株になったとき、すなわち伐採された時に現れ、
時の経過を可視化する。
確かに成長してきた樹が経てきた時間が形になる。
人も同じように、死んだ時に、
経った時間が形になると仮定すると。
瞬間、というものは過ぎていくものというよりは、
明らかに「層を成す一部」であるとわかる。
革新が瞬間ごとにしか存在せず、
かつ瞬間とは層の一部でしかないとすれば、
生命維持(保守)し成長した樹の断面、
すなわち積み重ね生きてきた「最後の瞬間」、のためにすべてがあるのであり、
その造形はやはり結局、保守的なのである。

であれば。

演劇をすること。
それは私というひとつの個を維持するための保守行為である。
その過程で抗わなければならない障害があり、
乗り越えるための革新行為をしたとしても、
その果てしない先で、自己の保守を想像している。

私にとって、
演劇は保守行為。
演劇する、におけるすべての付随した行為は保守行為。
これは誰になんと言われようと。
自己責任論において。
つまり演劇はできる。
誰になんと言われようと。
自由なのだから。
保守行為なのだから。

しかし。
自己責任論の世界から一歩足を踏み出すと、
演劇はできない。
これは確実な結論だ。

なぜできないのか。
ここから先はほぼ愚痴です。
具体的なことを書きます。

まず、稽古ができない。
人が集まれない、触れ合えない、のだから。
いよいよ7月半ばから始まろうとしている『家』の稽古について、
いまさまざま思案しているのだけれど、
どうしたって安全に適切な稽古などできないのだった。
マスクやフェイスシールドは必須だし、
なるべく時間を区切って最小人数で行う。
演出助手の必要性についても制作と確認をした。
演出助手は必要だ。
でも絶対に必要か、と問われれば確かに絶対ではなかった。
これはいわゆる「不要不急」という言葉にまつわるあれこれに近く、
考えれば考えるほど自己責任的にしか判断できない問題だった。
ひとりひとり、個の保存の要件は異なる。
これはだれにも確たる答えを出すことのできない問題だ。
とりあえず、
初期の読み合わせはオンラインで行うことになりそうだ。
そして、演出助手には基本的に稽古場にいてもらうが、
不要な日は休みをとってもらうことになった。

次に、小屋入りできない。
人が集まれない、触れ合えない、のだから。

そして大問題。
上演ができない。
人が集まれない、触れ合えない、のだから。
まず、なるべく収容客数を減らす必要がある。
そこで選択肢に上がるのは、
・チケット代を上げる
・公演数を増やす
・配信も行う
であるが、
結局、ぜんぶ選ぶことになった。
どれを選ぶにせよバランスがとれない。
チケット代は限界まで上げざるを得ない。
U25などの割引制度も設けられない。
作品への入り口はなるべく、誰にでも開かれていてほしい。
しかし、己の手でその扉を狭めなければならない。
公演数も、限界まで増やさざるを得ない。
ちょっと、かなり、体力的に、精神的に、
おお、これは・・・と思うようなスケジュールになってしまう。
カンパニーメンバーには申し訳ない選択だ。
配信も行うことになりそうだ。
『ハウス』での経験は大いに生きることになるが、
公演レポートにも書いたが配信は「代替案」にはならない、
あれは新たな形の別の演劇であり、
やはり配信なら配信で、それ単体で意味と価値のあるものにするしかない。
そして会場の環境の問題。
観客にも、フェイスガードやマスク、消毒の徹底を要求することになる。
また、換気は常時行うことになる。
そこで問題になったのが「気温」と「音」について。
『家』の上演は9月半ば。
季節は残暑。連日25度は越すだろう。
場所は目黒の民家を活用したギャラリー。
築年数は正確な数字こそ知らないがまあまあ古い。
冷房が1台あるが壊れており、使うにあたって修理代金をこちらが支払うことになった。
会場には部屋が二つあり、二つの部屋を使った演出を考えている。
この演出を変えない限り、両部屋に空調設備は必要だ。
よって、簡易冷房を付け足す必要がありそうだ。
しかも換気が必要なため窓を開け放つことになる。
冷房の馬力は、飾り程度では許されない。
死人がでてしまう。
気温については、先人の知恵を駆使するなど、もう少しアイデアを練る必要がありそうだ。
もう一つの問題、音について。
窓が開いているので周囲に音が漏れてしまう。
会場は住宅地なので騒音は避けなければならない。
では演技で声を抑えればいい。
確かにその通りだ。
でも、どうなんだろう。
ていうかそもそも、あの場所でやらなければいい。
確かにその通りだ。
でも、どうなんだろう。
それって、なんなんだろう。
悔しい。

確かに、上演はできる。稽古も小屋入りもできる。
感染者を出さなければいいし、
出しかねない空間にしなければいい。
そうなんだけど。
でもそれって、
そもそも、やらなければそんなこと考える必要すらもないわけで。
この、中途半端に条件があって、
本当に目指しているものからかけ離れていくこの瞬間瞬間で、
今自分は何に向かって情熱と対抗心を燃やしているんだろう。
ありとあらゆる代替案が世に横行し、
それらを選ばない自分を正当化するため本来必要でなかった理論的根拠を探す日々。
何をしているんだろう。
これはつまり、自己責任論の末に陥る、空虚と無意味というやつなのだけれど。

なのだけれど。
では自己責任論の世界の外で、私に一体何ができよう?
あらゆる責任を転嫁して、たとえば、こうなったのはウイルスのせいだ、同調圧力や強迫観念のせいだ、と投げ出し、ある何かを強行するとしよう。そこに付随する一切の責任は私にふりかからないとする。
自由のようだけれど、その破壊的な行動の末に、二次的にやってくる自分へのさらなる障害の可能性が否めない。だって自分の周りに、感染対策ひとつもせずに公演強行するような奴がいたら怖いしちょっと距離おくもん。(面白くない公演打ってる奴とも距離おくけど。)
つまり、これも結局、自己の保守のために避けるべき選択であり、「誰かが守ってくれない限り」やはり私は自分の選択に責任をもたなければならず、あらゆる同調圧力や強迫観念を受け入れつつも自己を保守するための選択を連続しなければならない。
面白い公演かどうか、それは個人個人の中でしか決められない。つまりその公演の価値は誰にも決められない。「誰か個人」には決められるが「個人個人の集合」による評価とはいわゆる「ファンクラブ」なのであって公演自体の価値とは差別化される。
私個人は、私個人にとって面白いもの、にしか絶対的な責任を取れない。
よって、この公演が「いかなる状況においても上演されるべきかどうか」については現段階では私個人にしか判断することはできず、よって、価値の有無では客観的に上演の是非を考察することは不可能である。

つまり、本当にもう、これは私個人の重大な問題なのであり、
より一層、自己責任の度を高めるものなのである。

「誰かが守ってくれない限り」だ。

さて、

ここまで繰り広げた言論について、
これらの自問自答は演劇のみならずあらゆるイデオロギーにそっくりそのまま置き換えることができるのではないだろうか?

私は自己の責任においてこの壮大な愚痴をつづり、
選択し、苦悩し、また選択を迫り、迫られ、選択を連続する。
その先に個の保守が待っているから。

では人類は(急な主語の拡大)、
個の保守を、すべて自己責任的に繰り広げる必要があるだろうか。
私は自己責任の世界の中で、
何かを破壊したり、誰かを殺害したりできる自由を持っている。
選択していないだけで。
でもそんなことで社会は保たれるだろうか?

本来、自己責任論とは個々の内部においてのみ果たされるものであって、
構造的に人間を捉えるときに発動するとそれらは破綻してしまうはずのものだ。

ではこの、
都内の感染者数が60人台に「乗せられ」た現在において、
我々は自己責任的にあらゆる行動を選択している(ことになっている)、
この状況とは一体なんなのだろう。

なんのためにあのビルは赤くライトアップされたのだろう。

まあそれは置いといて。

私は最近、居酒屋などで「自己責任において」友人や仲間と飲んだり食ったりしゃべったりしはじめたのだが、
まわりにも同じような選択をして来店した客がいるのだが、
これは構造的にとらえると極めて破壊的な行動だと思える。
常識に囚われない、革新的な行動だ。

個人から集団に規模がスライドした時に、同時にこうした「責任の形」も変形する。
私は集団心理に流されている。
みんなやってるんだし、いいんじゃん、と。
東京という曖昧な都市へ、今日も曖昧に電車で向かった。

東京都、という集団における理想的な保守行為とは何か。
すべての経済活動を停止させ、補填することである。
飲食物の配布、電気や住居の提供など、
個の保守のために必要なあらゆる要件(十人十色だ!)を満たしてあげることである。
その保守行為を仮に、わかりやすくたとえて、母的行為と呼ぼう。
すべての都民に対し、母が必要なのだ。
個を受け入れてくれる母。
個を育み養ってくれる母。
時に叱って包み込んでくれる母。

逆に、東京都、という集団における理想的な革新行為とは何か。
それは集団自決である。
それはあまりにも破壊的すぎるので、その一歩手前でとどめるとする。
するとリーダーの交代が考えられる。
革新を要するには現状への不満が必要であり、
現状への不満なぞいくらでもある、ある、ある。数えきれないほどだ。もちろん個人的に。
主に演劇が自由にできないことへの不満を挙げるとするならば、
文化芸術への厳しいスタンスや自己責任論を地盤とした批判的風潮ーーーそれらの形成と助長には環境的な要因が大きいことが考えられる。つまりは環境を形成する今までの事実の累積、すなわち「文化芸術を個の保守と関連づけない個の保守行動」に対する反動の非表明や同調行為の連続ーーーの容認をリーダー及びリーダーに準ずる人物や組織が行い影響力を持ち、また彼らが実行する制度が存続・支持されていることが問題だ。

保守と革新は、どちらも行きすぎてもならない。
吸って吐いて生命維持しなければならない。
個のひしめく都市において、
個を保守するために何を選ぼう。

端的に言えば、そう、
母が恋しいのであり、
かつ(及びもしくは)、リーダーの交代を欲しているのだ。

東京都においていえることはほとんど国においてもいえるに等しい。

個のひしめく国において、
個を保守するために何を選ぼう。

私は演劇をするにおいて、
私は母のような存在を欲しているし、
かつ、リーダーの交代を欲しているのだ。

彼のリーダー、及び周辺組織にいる個たちも、
同じように個の保守行動をとっている。
なぜ我々があくせく演劇公演の存続について神経をすり減らしている中で彼らのボーナスが1000円増えなければならないのか全くの謎だが、
それはつまり彼らの個の保守行為なのであり、
私は私の保守のために彼らの保守行為を排斥しなければならない。
すなわち破壊的選択だ。
革新行為だ。
現状のままではやられてしまう、ならば革新していくしかない。
もう充分吸った。あとは吐くだけだ。

不要な二酸化炭素を、
中枢都市に満ち満ちた毒たるガスを排出するべく。

保守や革新を、第三者が客観的に語るべきでない。
いまここには、右翼も左翼もない。
昨今加熱している人種や性別におけるもすべて、
アンチ・カテゴライズなのである。
くくるな、なにも。
それぞれの保守行動はそれぞれに衝突・均衡し、それぞれの人間関係として形成されていく。
ほっといてくれ。皆まで言うな。外野の言葉はシカトする。
それでも、誰かの発言は自己責任論の世界において保証される。だから衝突は免れない。

「誰かが守ってくれない限り」。

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