この生きたくなさを見過ごすには

どうしたらいいか。

例えるなら低反発まくらの海に沈んでいく、ようなこの毎日。
もがくほど沈むわけでもなく、もがいても何にもならない。

ツイッターをやめてみたい。
もう最近の、ニュースとか、レイプとかミサイルとか、何もみたくない。
それでも、愛する人たちがどんどん拡散してくる。
なんだろ。
たかが500人程度の発信するつぶやきを、ぼくは世界だと思っていること、そのことの喜劇的さたるや。

人生なんて呆気ないね
とうたう浮雲のかっこよさ。
ずるいじゃん。
そこに連れていってほしいのに、イヤホン、というかむしろ、このスマホ?
最近見た芝居で、、、スマホはもはやあなた自身なのです、、、という啓示を受けた。
それならそれでいいや、とさえ思えるくらい、そもそも、私が私自身を失っている。
別に刺さらないし、そんなことば、と強がってしまうくらい、私は私自身に夢中だともいえる。

ここから、果てしなくエコーする、私の、内側における果てしない考察は。
それで何も手がつかないならそれはそれでいいのに、やれバイトやら、やれネットフリックスやらに手が出せちゃうから一層たちが悪い。

ああ、生きたくない。そんな実感だけがある。我思う、故に、我生きたくない。

キルケゴールが、今の時代は、空虚な膨れ上がった実りのない知識の中に迷い込んでいる、と言った。
え。
全くその通りだと思うんだけど、あなた1855年に死んだのよ。
タイムスリップしたのは、あなたか、ぼくか。

とにかく、もう、見過ごしたい。
こうして気付いてしまったあれこれを。

たとえば財布から4万円なくなっていた、どうやらバイト先でスられていたという事実とか。

母がどんどん宗教じみたコミュニティに飲まれていることとか

たとえば車内広告に映る、不死の生物クマムシのこととか。

セックスのことなんて誰からも教わらないのに、セックスのことについて、とりわけ他人のセックスのことについて私論を叫ぶ男とか女とか。

もはや男とか女とか。

人とか虫とか。

境界とか。

社会とか。

もう、見過ごしたいのです。

昨日犯したちっぽけな犯罪を見過ごしてほしいのでは決してなく、明日犯さんとする潔白な日常を見過ごしたい。

さて、明日が怖いということになってくる?
お金がないということ、
対人関係に不満があるということ、
自分の仕事に不備があるということ、
あなたのそのまなざし、やさしさ、
いまお腹が少しすいているということ、
そういったことは確かにすべて怖い。
でも、それよりも、なによりも怖いのは、自分という不明瞭なものが生きてしまっているという、明確なものだ。

お金を稼ごうと思った。
システムの中に時間と体を切り売りした。
思考を止められる。
楽だった。
先月のバイト代が振り込まれたのだが、ちょっとこれでは生きていけなさそうだった。
働きがい、とかいうことばを生み出したやつを恨む。
そんな概念、なければよかったのに。
働くことに甲斐なんかねーよ、そもそも。雇われるということは、そもそも。

対人関係をよくしてみようと思った。
それは不可能だということがわかった。
ぼくは結局、あらゆる組織や権威から尊敬されていない。
ひとっこひとり、ぼくの墓の前で泣くものはいない。
でも、おあいこだ。
ぼくもお前の墓の前では泣かない。

自分の仕事の不備をなくそうと思った。
それは不可能だということがわかった。
いや、、、がんばるけどさ?
そんなもんは、もう、ストレス社会にプログラミングされてるっていうか。
一切の不備をなくすことに向けて戦う、それこそ無限の絶望が待ってる。

あなたのそのまなざしや、やさしさをなくそうと思った。
それは不可能だということがわかった。
それはあなたにかかっているから。
あなたはぼくを忘れませんか、片一時も。
やさしいうそが、この世で一番きらい。

いますこしお腹が空いているということをなくそうと思った。
これならすこし叶えられるが、1日に3度飯食う設定になってるので絶え間ない。

でもやっぱり思うのは、お金が無限にあればいいのに、ということと、北欧あたりに住みたい、ということ。そうしたら全部解決する気がする。

そのために生きよう、と思えるだろうか?

ではその、無限のお金と北欧の永住権を手にしたとき、その1年後に、何を感じているだろう?

結局、それはそれで絶望だ。
夢を叶えてなんになる。
見たい景色を、見てなんになる。
欲しいものを、手にしてなんになる。
人生はなんになる。

25歳。現在。
75年後、100歳。
やだ。
75年ってなに?
そんな長い時間生きていたくない。
誰が喜ぶ、そんな苦労。

逆に考えてみよう!
と誰かが言う。
死んだらあの人とかあの人とか、悲しむでしょ。
うん、たしかに、バタフライエフェクト、とかを考えれば、誰かは悲しむさ。

、、、で?
である。

テレビもスマホも家族も親友も、もう見たくない。そこに何があるっていうのか。ただそのイデアだけに価値があるとすれば、尚更、実存としての私、我思うところの我はどうなる?

概念だけになってしまいたい。
パソコンのドット落ちみたいなものになりたい。

何かを見て、取り込んで、知って、学んで、学び尽くして、学べば学ぶほど、学びきれないものの尊さと激しさを、感じ、苦しむ。

この苦しみを何か形にしよう。
だれかと分かち合おう。

、、、で?
である。

あっちを向けばこっちを見ろ、
飛び出せば打たれ、
止まれば背を押され、

なにかを選ぶということは、ほかの一切を捨てるということで、捨てられたものばかりに目が向けられるご時世、

さあ、選ぶことすらばかばかしくなってきた。
自由でいることに、なんの意味があるだろうか。

(ところで、自由の反対は不自由ではない。服従や敗北では当然ない。自由の反対は自由自身だ。無限の反対は有限かもしれないが、自由の中には無限も有限も含まれるため、有限は自由の反対にはならない。むしろその有限こそが、自由の正体に他ならない。)

ああ、誰のためにこんなことを考えてるのか?
誰かのためになんてならなくていいよ、と誰かが言う。
そんなことは分かっている。
そもそも人は極論、だれかのために生まれるのではない。
自分のためだろうか?
だとしたら自分はいまちっとも喜んでないからやめたいぜんぶ。

いや、「ため」とかなくていいよ、と誰かが言う。
では、なんの意味が?

意味とかなくていいよ、と誰かが言う。誰かじゃなく、ぼくも言う。

そう、だから、まさしく、それゆえ、見過ごしたいのです。
無意味なら、感じたり考えたりしなくていい。

だからもう、ネットフリックスとか、千鳥とかゲーム実況見て、たまに、ふんっ、とか、ははっ、とか、笑ったり、おいっ、とか、つっこんでみたり、むなしくも、そうやって、布団なりソファなりお気に入りの場所で、そうやって生きていればいいじゃないか。

どうしたらいいか。

そうするためにどうしたらいいか。

できるならより多くの時間を、そうして過ごしていたいので。
より多くの、何かしらの代償を払うということになる。

もう、どうしたらいい。

このnoteにも、2〜3個、スキとか、つくんだろうな。
恥ずかしいったらありゃしない。

このエンターを押せばはじまる。

穀潰し生き恥晒し暇つぶしマッキントッシュ抱いて見る夢

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