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2020.9.27 始まりの終わり

先日、KAMOME 1/3「家」が終演しました。
全21公演、ご来場と配信視聴のお客さま、
キャストとスタッフ、力を貸してくださった全ての皆さま、
本当にありがとうございました。

こんなにも生々しく、ともに生活しながら作っていった作品は後にも先にもないのではないでしょうか。
特に集中稽古・会場入り以後の濃密さは稀有でした。

連続企画の1つめ、旅の始まりが、まずは幕を閉じました。
次は来年の4月に「喪」の名を冠して再び幕を開きます。
それまでの約半年間、
旅が途切れることがないよう、まだまだ考えて、繋がって、
「家」とはなんだったのか、まとめる時間、
そして「喪」とは何なのか、膨らませる時間にしたい。

まずは「家」を振り返ってみようと思います。

○1 事前稽古

この旅は事前稽古から始まりました。
俳優を志して間も無く、舞台初経験の高田歩と、
少しでも多くの共通言語を獲得し、
表現の引き出しを増やしてあげるための稽古が10回おこなわれました。

メインの進行はメンバーの門田に託し、
僕は歩ちゃんと肩を並べて一緒に演技について考えることになりました。
そこで触れた戯曲「ゴドーを待ちながら」との出会いは、
実は小さな転換点だったことをひそかに感じています。

感染症の拡大に揺られながら、確固たる何かを信じることもできずに、
私たちは公演の準備を進めなければならなかった。
"来るかわからない神"を待つエストラゴンとウラジミールの姿は、
私たちの姿そのもののように思えました。

歩ちゃんは毎日、演劇の知識を体得していき、
目を輝かせながら「舞台」への道を歩んでいく。
彼女にとって、知識を得ていくことや僕たちと"何かを作る"ということが、
まるで「救済」であるかのようにまっすぐ立ち向かってきました。

今振り返ると、事前稽古で見えていた歩ちゃんの姿はほんの片鱗で、
本稽古や集中稽古が始まってからの急成長ぶりは誰にも予想できなかったほどのものでした。

歩ちゃんは、「中身」を充実させることに強い興味を持っていて、
かつ、その密度は尋常でなく、せりふのサブテキストに潜む小さな情動でさえ拾い、理解し、体得しようとする。
そして事実、体得前とその後とでは、演技の質が全く違う。
「何となくやって、こなす」ことができない彼女は、彼女にしか歩めない道のりでニーナとの距離を縮めていきました。
その道のりは険しくなることが予想されましたが、歩ちゃんの覚悟を受けて、僕も一緒に、全てのサブテキストやアクションに隠れるマーブルな情動その一つ一つと向き合って、大量の共通言語を作っていくことを決めました。

事前稽古での収穫として個人的に大きかったのは、
「俳優の稽古時の自意識」を体験できたこと。

いくらテキストに向き合っても、真の理解に及ぶことができないだろうという予想があり、自分の技術に不足を感じている私たち俳優は、
立ってせりふを吐くというだけで大きな恐怖や自己嫌悪と戦っている。

そんな彼らを優しく鼓舞しつづけることができたら、
きっと大きな相乗効果を生み出し、実りある共同制作につながるのではないだろうかと常々思っています。

問題なのは、人間がそれぞれ異なるコミュニケーション能力、言語感覚を持っていることで、こちら側がどんなにセンシティブに言葉を扱っても伝わらなければ武器にも無意味にもなる。

稽古とは、本番でスタッフや俳優が胸を張ってそれぞれの職能を発揮できるように、安心材料を作り上げていく作業なのではないかと思いました。

○2 稽古

稽古が始まって本当に大変さを実感したのは、感染症対策です。

稽古は毎日掃除から始まりました。
土足の稽古場の場合、床面全部を乾拭きして水拭きして消毒するし、
そうでなくても椅子や机、ドアの取っ手などあらゆる部分を消毒しました。まあ、僕は掃除嫌いじゃないんで全然いいんですけど。

それに、みなさんも入退室ごとに手指の消毒は徹底してくれたし、
掃除も手伝ってくれました。
ありがとうございます。

日々の検温や体調チェックも怠らずやりましたが負担は大きかったです。
極力密集時間を減らすべく集合時間ギリギリにみんなにきてもらうのですが、
検温してる間に5分10分と時が過ぎ、稽古開始時間がうやむやに後ろ倒しになることが多々ありました。

検温グッズをみんなが触れることもないようにするべく、検温には演出制作サイドの人間が一人駆り出されることになります。
団体が小規模なので、すなわち全体の進行が一時ストップすることにもつながるのです。

最も厄介だったのが稽古スケジュールの作成です。

ただでさえ、「このシーンの稽古に何分かかるか」の予測を立てるのが難しい上に、
「なるべく密を避ける」という追加条件があるため余計に難しかった。
何を基準に"どれくらいの人数・時間なら"稽古を行っていいのか?

誰も決めることのできないものを誰か(僕と演助)が決めなければならず、そこの心労は非常に大きかったです。
少しでも快適な稽古場になって欲しいと思うと、気づけば二人でエクセルを睨みながら数時間電話していたなんてことはザラでした。

でも、その苦労の甲斐もあって、稽古のクリエイション自体は大きな問題もなく進めることができたように思います。

トラブルが起こる度にみんなで考えて解消していくことができたし、何よりクリエイティブなアイデアが多く飛び交う、素敵な稽古場だったと記憶しています。

序盤、僕は自分自身の準備不足を痛感していたのですが、
練った演出プランを"捨てる"ことが楽しいほどに、その場で生み出されるものの魅力が大きかった。

特に門田や歩ちゃんとは、 原作の「かもめ」についての考察を深める場面もよく起こりました。
とりわけ四幕のニーナが帰ってくるシーンには、せりふの真意が書かれていない分、解釈も分かれ、それすなわち戯曲の根幹についての理解も少しずつ変わってくるということで。
このシーンは非常に慎重に稽古を行いました。

歩ちゃんが小さなピースを少しずつはめていき、門田はフォーカスをゆっくり絞っていく、僕は二人の邪魔にならないよう気をつけながら、僕なりの解釈を二人に説明していきました。

あのシーンはほとんど、二人が自分で考えて日々作り上げていったものです。僕はひたすら「なんでその言い方になる?」「なんでそうやって動いた?」と聞きまくっただけ...
あそこまで繊細で危なっかしいドラマを立ち上げた二人を僕は誇りに思います。お互いしんどかったと思いますが、良かったと思います。

実はいまだに、門田との間には脚本への理解のズレを感じたままのような気がしています。
でも、そのズレによって生まれた面白い解釈があったのも事実。
これから、「喪」はマーシャ視点で、「女」はニーナ視点で捉え直すため、
その時々で二人の解釈も少しずつ変わってくるのだろうなと思うと、それは大変でもあり面白いところでもあります。

僕は漠然と、"みんなで作る"という暖かさに憧れを抱いています。
性格上、自分の思い通りにならないと気が済まないタチなので、
本当はなんでもかんでも自分で決めたいし言う通りにして欲しい。
でも、それでは血の通った作品が出来上がらないことを知り、それ以降は"自分の思い通りにならないように仕掛ける"ことを意識しています。

そして何より、自分一人で考えつくことなんかより、みんなで考えた方が絶対にいいものが生まれる
でもかといって全て丸投げにすればいいというわけでもない。

この矛盾を意識的に解消しようとする作業の中で、
一体自分は根本的に何をしようとしていて、何に情熱を燃やすべきなのか見失うことがあります。
やはり毎日、有限と無限の極地をそれぞれ目指しながら右往左往し、これだ!と思える瞬間を探し続ける他ありません。

稽古をするにおいて、コミュニケーションが難しかったり、共通言語の獲得が出来なかったり、逃げられてしまったり、むしろ自分が逃げてしまう瞬間が少なからずあります。
そうした瞬間と、これからもっと向き合って行かなくてはならないし、そうでないと"旅"である意味がないなと反省しています。

○3 各セクションとの連携

今回の稽古が、全体的なストレスが少なく進んだ要員として、必要なスタッフワークが比較的少なかったからという面もあると思います。

劇場公演ではなくギャラリーでの公演なので、音響や照明をはじめとするオペレーションも少なく、電気の付け消しはアクティングの中で俳優にやってもらうことにしたり、小道具の転換も全部俳優に担ってもらいました。

みなさんが協力的に参加してくださり、道具を持ち寄ってくれたり管理までしてくれたおかげです。本当にありがとうございます。

あと、演助のちょんがとても良きスタビライザーになってくれました。何度も気持ちを救われたし、明るく色んな仕事を受けてくれたので、本当に助かりました。彼女がいなければこの公演の雰囲気はもっと違うものになっていたと思います。

今回の演出のテーマには「観客に家族になってもらう」という目標があったたのですが、その実現のためには、醸し出される"カンパニーの空気"がそれを促している必要がありました。その大部分のエッセンスを彼女が担ってくれたのだと思います。楽しく稽古が進み、本番を終えられたのはひとえにちょんのおかげです。
劇中劇で使用したロープアートも、ちょんのアイデアだし、実際に制作もやってくれました。

照明の松田も劇場入りや下見で手伝ってくれて、おかげで最小限で最大の効果を発揮する照明効果に到ることが出来たし、
音響のはじめさんも最小限のアイデアで、劇の奥行きを広げてくださりました。窓の外に仕込んだスピーカーは、雨天時の防水用にジョニーがカバーを付けてくれました。

劇場入り後は、ずっといてくれた塩澤さんに毎日調整をしてもらったため、
公演を重ねるごとに改良され続け、最終的にはrusuは原型を忘れ、完全に上演に適した空間に生まれ変わっていました。
(バラシの時に原型に戻ったのを見て「こんなんだったっけ!?」と衝撃を受けるほどに)

衣裳部との連携がうまくいかず、稽古最終日まで調整が続きました。まあそれは僕がわがまま言ったからなんですが...

僕はアーティストとの共同制作に一番の価値を置いているので極力気をつけているのですが、それでも、尊重されていないと思わせてしまうことがあります。
難しい問題ですが、"個人の感じ方の違い"で片付けるわけにもいかないのでこれからもっと向き合っていくべき課題だなと思いました。

共同制作とは果たしてどこまでが個人の領分なのでしょう。
自分と他者の境界は波打際のように曖昧で、
どこまでが私でどこからがあなたなのか、それは計り知れない。

僕は演出者として、全てのクリエイターの手仕事がお客様の目に、肌に、美しいものとして届くよう整えることに責任を持っている。かつ、全てのクリエイターが自信を持って楽しく公演を終えられるようバランスをもたらすことも、僕にしか出来ない領域の仕事だと思っています。

例え制作過程につまづきが起こったとしても、お客様に触れるその瞬間までは修正できるし、そのデッドラインさえ守れば、あらゆるつまづきも必要な行程だったのだと理解することができる。
そう思えばどこまでも僕は踏み込みたいし、納得できるまで話し合いたい。このスタンスは変えたくはないと思います。

○4 チケットの売れ行き

今回の一番の不安点はここでした。

本番一週間前で50%前後の売れ行きで、この時は相当赤字を想定しました。
本番2日目に、5つ空席があったのを見た時、すごくショックを受けました。

これ本当に大丈夫なのかな。
「喪」も「女」もこれくらいの客入りで続けることになるのかな。
何がいけなかったんだろう。
宣伝の仕方が悪かったのかな。
もっとこうすれば。。。

と様々に考えたのですが、公演中にチケットが売れ伸びて、最終的には完売回が増え、結果、多くのお客様にご来場・ご視聴いただくことが出来ました。

もともと十数名しか入れられないということで予算立てからして相当難しかったのですが、感染症の打撃で上限を10名に設定したことでただでさえダメージが大きかった。
全公演完売でやっとトントンというハードな予算繰りだったのでいくらか損失は出てしまったのですが、
出演者のみなさまも宣伝を手伝ってくださったおかげで、"増席"を検討するに至るまでにチケットが売れました。

今回のチケットの難点としてはまずやはり金額だったと思います。
本当はもっと上げた方が良かったのですが最小限にとどめたところが4000円でした。
また、上演形態が想像しづらかったことも、シンプルな購買につながらなかったのかなと。

そして何より、やはり感染症の影響。
ただでさえ小劇場演劇という、敷居の高いものに対し、"今は何を観るか慎重にチョイスしたい"という心理も加わり、売れにくさに拍車がかかったものと思います(岸田賞を取った「バッコスの信女」などはチケット即完だったらしいですからね...)。

かく言う私たち演劇制作者も、観る演劇は最低限にしている節がありますので、こればっかりはもう、どうすることも出来ないですね。
"自分のカンパニーにウイルスを持ち込まないこと"を最優先しますので。それはもう。。。仕方ない。。。
可能な限り多くの人にリーチする広告を出すこと、また"どんな作品なのか"がもっと伝わる広告を考えていく必要があると思いました。

クチコミの広がりにくさも感じました。
一回に10人しか観れないので、そもそも分母が少ないのでこれも仕方ないことですかね...
出演者のまりあが客出し時のアナウンスに「感想のツイートをお願いします」と一言添えてくれたおかげで、後半では感想が一気に増えたような気もします。

公式のSNSで、感想のツイートや投稿を拡散するのは「くどい」しタイムラインの邪魔になるなと思って控えたかったんですが、今回ばかりはそんなこと言ってられませんでしたね(笑)

あとは、個別でLINEで感想を送ってくださった方に許可をとって、感想を引用したツイートをさせていただいたりしました。

これらのクチコミも小さく影響して、後半の売れ伸びにつながったのかもしれません。

感染症対策で、紙類の配布物を自粛したため、アンケートもとることが出来ておりません。
前回の「ハウス」の時みたいにネットでアンケートとるのもアリかもなぁ。。。

○5 ビニール撤去と増席

主な観劇領域として和室と洋室の2箇所を用意したのですが、うち洋室の方は閉鎖感があり空気の循環がしにくい構造だったため、演者と観客の間にビニールの幕を吊っていたのですが、これは本番3日目の朝に、撤去しました。

それについては別の記事がありますのでこちらをお読みください。

撤去してから、洋室のシーンの観客の反応は明らかによくなったように感じました。表情がくっきり見えることって、大事なんだなと思います。(そこが、配信の難しさにも通じている、、)

決断が遅くなってしまい、2日間でご観劇いただいたみなさまには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。僕の至らなさでしかありません。出演者の皆さんにも、申し訳ないことをしたと思っています。

舞監の塩澤さんは「誰も未経験のことだから仕方ない」と慰めてくれました。優しいです。

ある回で、未予約のお客さまがご来場くださったことがありました。満員回で、もう未着のお客さまもいない状態。
不測の事態だったのですが、上限10名としていたところ11人目を入れるかどうか、考えることになりました。

そのお客さまは、他の日程だと来られる回がもうないとのこと。

一人でも多くの方に見てもらいたいし、せっかく来ていただいたのにお帰りいただくのも忍びない。

でも安全面はどうか。10名でご観劇いただくことを想定して作ってきたこの作品に、今から追加して作品の質は劣らないだろうか。

様々なことを熟慮した結果、制作と僕の判断で、急遽増席してお客さまをお迎えすることに。

その日の夜、以降の上演全てを1席増席できないかという提案が浮上しました。

僕は正直、「これ誰が判断するんだ?」と思ったのですが、他でもない、自分が判断するしかありませんでした。

完パケ後、残ったスタッフとキャストを集めて見切れ検証などを行い、これなら1席増やせるかも、という結論に至りかけていました。

でもなぜか納得できない自分がいました。

10名限定で上演してきた今までの公演や、その前提でチケットを購入したお客さま、そもそも10名でさえギュウギュウ詰めだねと頭を抱えた稽古場での時間、その全てを裏切る形になってしまうのではないかと考えました。
しかも、あれだけ狭い空間ですから、1席増やすということはその分空間が削れる訳で、何をどう考えたとしても失われるものが発生するのです。
当然見切れはセンチ単位で増えるし、お客様同士の距離も少しずつ縮まります。それで良いのか?

正直、わかりませんでした。
すぐには決められなかった。
でも、ただでさえ空席のあった公演に、増席のチャンスは明るい巡り合わせであることは間違いなかった。

悩んでいたころ、塩澤さん(また塩澤さん!!)が壁の板を一枚取ればいい!と天啓がごときアイデアを打ち出してくれました。

そこで僕は強く納得して、うなずき、胸をなで下ろしました。ありがたや。

同時に、こうした板挟みにあった時に、クリエイティブなアイデアを生み出せない自分の未熟さを悔いました。

やっぱり、どんな壁にぶつかった時でも、必要なのは耐えたり目をそらしたりすることではなく、頓知のきいたひらめきで乗り越えることだと学びました。

○6 作品の到達点

では「家」の公演は何を実践しようとし、できたのか、あるいはできなかったのか、具体的に振り返ります。

「家」は、喪・女と続く連続企画の第一章。チェーホフの「かもめ」を現代日本で理解し、その精神を実践するための検証とその上演の一部です。「家」はトレープレフ視点で、かつ「生活」の要素を切り出し、"質的・量的な人生のあれこれ"を描こうとしました。
それを旧民家であるrusuで上演することで、現実と地続きのリアルな生活の問題として「かもめ」を捉えようと試みました。
演出のテーマは「家族」。前述の通り、観客には家族になってもらって、この家を出て自分の家に帰ってもらいたい。

まず、「かもめ」は、"異化されたドラマからの脱却"を前提に書かれているのだと思います。そうした大きな挑戦の中に、様々な挑戦的な論議が網目上に張り巡らされている。
"主人公の喪失"もその一部で、観客は人物たちの感情を追ってドラマを体験することが許されない。一歩引いた視点での"観察"の態度を要求される。

それらは全て、"人間があまりにも主観的に人生を体験しているため見落とす喜劇性を再発見させる"ための壮大な仕掛けであるように思える。つまり現実の中にこそ喜劇が眠っているということ。

(前作「ノゾミ」でも同じような境地に至ったような気が...まあ、「書を捨てよ〜」も「かもめ」もメタな作品だからだと思うのですが)

その仕掛けに気付くためには、まずこの劇に入り込み、登場人物の内的なドラマを探り、そしてその先で彼らの物語を見失う必要がある。その体験を内面化して初めて、「これのどこが喜劇なんだよ?」という視点に立てる。つまり「メタな視点」を得るということ。

「かもめ」が四幕の"喜劇"とされていることに気付き、不思議に思う人がどれだけいるだろうか?

ただ、このメタな視点を得るには、一度の単純な観劇姿勢では足りないだろう。この劇の中にいったん入り、抜け出し、再度俯瞰して見つめ直してもらわなければならない。そのための「連続企画」であり、その一歩目としての「家」だった。

お帰りなさい、と観客を迎え入れ、いってらっしゃい、と送り出す。「いってらっしゃい」には「行って、帰ってらっしゃい」という言葉が込められている。つまりこの劇にまた帰ってきて欲しいという願いが乗せられている。

「家」を見て、登場人物たちに「また会いたいな」と思ってもらうこと、それがこの公演の目指す真のゴールだったのではないだろうか。

僕はあの公演を、21回見届けたわけですが、カドタ(トレープレフ)の死の場面で、「お前は悪くないよ」「これのどこが喜劇なんだ」と心から思った回が2度ありました。
この心境に至るには、それまでのシーンがいかに悲惨で滑稽で、それでいて可愛らしく、まるっとしょうもないものに見えているかが重要でした。
つまり僕的に"全てのピースがカッチリはまった"と思った回は2回でした。

次はもっと打率を上げられるように頑張ります。

観客の皆さんを、適切に「かもめ」の魅力溢れる世界に連れて行くことができたでしょうか。そして、奮闘する俳優たちの姿を美しく儚く感じることができたでしょうか。あの空間、rusuという空間を懐かしく思うことができたでしょうか。

それらが叶っていたならいいな、と思います。

○7 残った課題

今回感じた課題としてはざっくり以下の通りです。

・宣伝
・感染症対策で崩されたもの
・お客さまからのフィードバック

まず宣伝について。

今回、感染症対策の観点から、チラシの印刷・配布は行いませんでした。とはいえネットネイティブでない関係者の方向けに100枚程度は作成しました。
よって、広告として出したのはSNSで使う用の画像のみ。

他にも宣伝企画として、駅から劇場までの道のりを紹介する「さんぽ動画」を作りました。インスタグラムの目黒さんぽから全部見れます!

課題としては、「どんな作品なのか」が伝わる広告を打てなかったのかなという気がしています。

作品の宣伝用テキストには「演劇を展示」というワードが盛り込まれ、会場も劇場ではない「民家」。購入者のほとんどは、どんな公演なのか想像できないまま会場に足を運んでいたのではないでしょうか。

これからさらに、小劇場演劇への風当たりは強くなっていくような予感がしています。そんな中で、応援してくれる人が離れてしまわないよう、また、より多くの人に興味を持ってもらえるよう、作品の温度感が伝わるような広告を考えて行く必要がありそうです。

次に、感染症対策で崩れたものについて。

一つに、集合時間がルーズになりがちだったことが挙げられます。早めに来られた方は検温や身支度を済ませ、稽古開始時間に遅れることなく集まれていたのですが、時間ギリギリに来られた方が、バタバタと検温と身支度をして、かつそれをみんなで待つということが多々ありました。

かといって、集合時間より早く集まってもらうのも「密を極力回避」するためには避けたいので、早く来る人もギリギリに来る人も責めることができない、難しい状況でした。

では検温時間を設ければ良いか?とも考えたのですが、結局は同じことが起こるのがオチのような気がします。

このようなことは本番上演時にもお客さまの身に起こっていました。検温、説明、靴を脱いだり荷物を置いたりとすることも多く、ギリギリにいらっしゃる方を待つことで半数以上の公演で開演時間を遅れせてしまいました

こればかりは、目をつぶっていくしかないのでしょうか...

そして、お客さまからのフィードバックを得られにくかった点。

普段であれば公演パンフレットに出演者や配役、演出からのコメント、あらすじや次回作のお知らせなどが書かれており、さらにアンケートを同封するというのが小劇場演劇のセオリーなのですが、感染症対策のため配布物をなくしたことで、それらの情報伝達が一切できなかったし、アンケートをとることもできませんでした。

開場中にストーリーテラーがあらすじを話すということで前者はある程度解消したのですが(開演ギリギリにいらっしゃった方は聞けていません・・・)、アンケートはできればその場で直筆でもらいたかったのが正直なところです。

最近では、SNSに感想を投稿してもらうことや、Googleフォームなどでネットを介して回収するパターンも多いのですが、やはりその場で、お客様の温度が伝わってくる直筆のアンケートが一番大事だと僕は考えます。
なぜなら僕たちも「ナマ」であることが大事だと思って演劇を作りますから、当然、お客さまにだって「ナマの意見」を伝えられる用意がなされているべきだと思います。

あと単純に、ネット上のアンケートで「つまらなかった」とだけ書かれた"文字情報"のみを見てしまった日には、いたずらに自分たち自信を傷つけることに終わってしまいそうという恐怖もあります。
直筆で書かれたものなら、真摯に受け入れることもできそうな気がするのですが。。

感染症対策を取った上で、お客さまのナマの意見を頂戴できるシステムがあったらいいなと思いました。

僕の感覚ですが、初日と2日目はツイッターなどのSNSで感想を見る頻度が低かったのですが、3日目から一気に増えたような気がしました。
これは何かというと、多分、「ビニールを外したから」ではないかと思うのです。
やはり、ビニール越しではお客さまは「言語化できるほどの素直な感想を抱けなかった」のだと思います。惜しいことをしましたし、お客さま方や頑張ってくれたキャストには申し訳ない気持ちでいっぱいです。
あと、まりあが客出し時にSNSの投稿を促してくれたのも3日目からだったような気がします。これも効果が大きかったのでしょう。

お客さまからいただいた意見で、せっかく撮影OKなものが会場内にあるなら、「撮影OK」とわかる表示がされていればよかった、というものがありました。

「撮影OK」について稽古場で議論が起こったことがありました。

僕は「シェアする美術」という本の中で、撮影OKがどれほどの広告効果と鑑賞者の満足度を上げるかということを強く学びました。
以降、あらゆる作品はなるべくお客さまのスマホで撮影されるべきだし、そう促す仕掛けがなされているべきだと思うようになりました。

僕は初め、場内での上演中以外の写真撮影はオールOKとしようとしました。しかし、「出演者が写り込まないようにするべきだ」という意見があったためオールOKとするのは難しい状況になりました。

なぜ出演者が写り込んでしまってはいけないか。
それは、撮影された写真が、本人が意図しない構図やキャプションを用いて投稿されることで、出演者が何らかの損害を被る場合があるからです。
例えば、ほんの一瞬マスクを外してしまう瞬間があり、それがたまたま撮影され、「マスクせずに上演してます」と添えられた投稿が拡散されてしまった場合、弁解することのできない状況になってしまいかねません。

よって、最終的には「文字の書かれた文章のみ」撮影可能ということになり、また、大袈裟に撮影OKの表示を出さないことにもなりました。

なかなか難しいものですね...

例の本の中でも、森美術館ではかなり試行錯誤して撮影OKの波を作り上げたと書かれていました。それを、公演単位で異なる組織を形成する演劇の中で実現するのは、なかなか難しいのかもしれませんね...

○8 「喪」へ

さて、次は来年の4月、「喪」です。

いろんな人に次はどんなことやるの? と聞かれるのですが、
正直なところ本当にまだ何も決められていなくて、
やりたいことは決まっているのですが、いかんせん感染症云々で会場が抑えられなかったり予算が立てられなかったりしているのです...

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エリア51による2020〜2021年演劇企画「KAMOME」。企画・演出の神保による旅の日記(不定期)。チェーホフの名作「かもめ」にのせて…

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