わたしの性

セックスについて考えざるを得ない今日。
性行為と性そのものについて。
わたしはわたしの性とどう向き合ったらよいか。
あなたの性をどう見つめたらよいか。

そもそも、

人には戦争と平和の2種類があるとおもう。
人の本質は考える葦に過ぎないけれど、
高度化し、メタレベルの上昇とともに失った"野生"が取り戻せない以上、真の意味で「考える葦の集合体」としての人間にはもう戻れないだろう。

とりわけ、ここ東京ではせいぜいメカニカルな葦だ。

理性を使えば、いずれかの選択の終着点には、「争って分断する」か「譲って調和する」かのどちらかが待っている。

とわたしは思う。あくまでわたしの考え。

生物は、ある観点からすれば子孫繁栄するためにプログラミングされているといえる。人の体には、生存機能と生殖機能しかない(光合成機能でもあれば、もうすこし人間はこのしがらみから解放されただろうに)。ゆえに異性に惹かれ、プログラミングによって性欲を満たそうとする。

わたしは異性の身体的特徴を妄想し、かの健やかなる部位に燃える。理由もなく、そのことで一瞬、頭の中は一杯になる、間違いない。

恋とはなんだろうか。いまの文脈から答えればプログラミングである。生殖のために理性を鎮静させる麻酔である。

一瞬の、あの人の筋肉や体毛が放つ光のつぶが、エストロゲンだとかテストステロンだとか詳しくはよく知らないけど何かが湧き立つ。あの甘い匂いに包まれたい、肌に触れたい、その声を鼓膜に浴びせたい。それは人類生命体に脈々と仕組まれた綿密な罠だ。

駅で、ふと、すれ違う誰かを目で追っている時がある。美しい襟足の、その表側を覗いてみたくなる、これは?

紛れもなく本能的に揺さぶられてしまうわたしがいる。

わたしはそれが嫌いだ。
頭の中が本能で満たされるのが怖くて嫌い。
そういう人になってはいけない、と誰もが言うし、わたしもそう思うから。

わたしはわたしの純粋ホルモンを憎まなければならない。反射神経を鈍らせなければならない。

ひとたびどこかで性犯罪が起これば、人々はたちまち二手にわかれてしまう。敵と味方、男と女。男は強姦する。女は惑わせる。こんなふうに文字にするのも嫌いだ。

わたしはそういうのが嫌いだ。 文字や思弁にしてしまって人を振り分けるのが嫌いだ。

でも、しなければならない。人は歴史の積み重ねだから。

男はなぜ強姦するのか。どんだけ日常で性的欲求を満たせてないのか。くそだ。みんな死ねばいい。セックスと女性器のことで頭がいっぱいの服着た獣だ。

どんな法律があって男は女を嬲ってよいものか。想像するに耐えない。男が女の体に触れて、跨がり支配し、なんの信頼も許可もなく、その反応を愉しみ、シナプスをそそり立たせるのは、一体なぜだ。
誰がそうさせたのか。

男なんてのは本来、他者に寄生するための生き物のようなものである。そのためにあらゆる手段を取るようにプログラミングされている。なんとなく、勉強して働き結婚して子供を産む、と漠然と指令されて動いているに過ぎない。

それに比べ、女というものは本来、自由な生き物である。また剣ではなく盾なのである。女は環境に適応する生き物だ。勉強して働き結婚して子供を産む、となんとなく思うものの基本的に疑問を持っている。漠然とは生きられない。

女はセックスをするとき、だいたい宇宙や歴史といった観念と通信している。身体や感覚は、皮膚や神経を通して電気信号となって解放され、真理と結びつこうとする。それこそが、かの神的なるプログラミングにほかならないのだ。

だが女が性で解放されるには、愛で満たされている必要がある。それ以外の性感はすべて不快か虚無。

かえって男は、むしろセックスのあいだは愛のことについて忘れていたいと思っている。男が性において生きられるのは、海綿体と脳とのピストン旅行という小さな宇宙のみなのだ。

どんな体位でハメてやろうとか。

やさしく抱きしめられたいとか。

果たしてこのように乖離した二種の生物がたがいに完全に同意しあった状態でのセックスはあり得るのだろうか。
もちろん、同意の上でなければ性欲が生まれないようなプログラミングは男にも女にも施されていない。

ここでいう同意とは何だろう。

爪先で触れあうこと。
抱き合って見つめ合い、互いの気分を高め合うこと。
甘い接吻をすること。

否、どれも違う。

それは結局、責任を取り合うということに他ならないだろう。

ここで、セックスの先にあるものについて考えねばなるまい。
まずあるのは性的快楽である。つぎに関係の構築である(どんな関係でもよいものとする)。そして生殖である。
以上だ。
責任以前の問題としてあげるとすれば以上となる。

ここに責任が付随することでさらに上昇する。生殖とは子孫をつくることである。女は胎盤で子を育て、出産する。その間、生物として自立して個体で生存するのが難しくなる。そこで夫婦という組織が発生する。男は女を安全な環境に匿い、守らねばならない。

ではなぜ、そうまでして子を産むのか。それはプログラミングである。極論、他意はない。なんとなく産みたいし産ませたいのだ。

この時点でわたしは意味がわからないのだが、続ける。

さて、その、守らねばならない、ということが責任の正体である。男は妊婦を守る。妊婦は子を守る。出産後も同じだ。男と女は子を守る。

これはもはや、プログラミングでしかない。

子供が欲しいのには、さまざまに理由があるかもしれない。
子供が好きだから。
夢を託したいから。
親に見せたいから。
だが突き詰めればすべてエゴであり、プログラミングだ、妄想だ。

そんな妄想に突き動かされながら、男は腰を突き動かす。果てしないまでに単細胞的だ。

さて、つまりかかるすべての責任というものは、この永遠のプログラミングに組み込まれることに対する覚悟のことである。突き詰めれば、セックスにおける同意とは、セックスするなら単細胞的に子供を守る一生を遂げよ、ということになる。

だからわたしには一層気味が悪く思える。わたしは果たして盲目的にこの永遠に組み込まれるべく性的妄想に至っているのだろうか。あの人と夢のような時間を共有したい、体験したいという誘惑は、果たして。

セックスについて考えるということは、すなわち暴力について考えるということだ。

たとえばボクシングは暴力ではなくコミュニケーションである。それは双方同意の上でリングに上がっているからである。リングの外、つまり駅のホームや放課後の学校、職場や家庭で起こる暴力はコミュニケーションと対極を成す。

暴力とは非理解だ。双方理解とは弁証法的に積み上げられるものであるが、暴力の世界では正義か悪かだけが存在する。互いに理解してしまっては、悪を悪たらしめる法律=ルールがなくなってしまうからだ。

双方理解には愛=執着が不可欠である。執着しなければ人は逃亡できる。逃亡の反対が理解であり、逃亡とはつまり人間と人間の関係における暴力的解決だ。当然、相手を殴り倒すことは逃亡の一つだし、自分が忽然と姿を消すのは暴力の一つである。

リングに上がらない相手への殴打はパンチではなく暴力であり、すなわち相手への決別である。

セックスに置き換えると、同意のない相手への性的接触は暴力であり、すなわち相手への決別である、ということになる。

当然のことだ。

しかしどうだ。わたしは今までいくつの同意あるセックスを辿ってきただろう。

爪先で触れあうこと。
抱き合って見つめ合い、互いの気分を高め合うこと。
甘い接吻をすること。

それらは同意ではない。

否、わたしにとっては同意だった。

なぜならばその瞬間、疑いようもなく二人は互いを必要とし合っていたから。

その証人はわたしであり、あなたである。

仮にあなたがそれを同意でなかったとみなしたら。

証人はこの世にわたしだけになる。

この絶対的な確信がある以上、わたしは絶望するまでここを動けない。

また逆に、

仮にわたしがそれを同意でなかったとみなしたら。

証人はこの世にあなただけになる。

あなたは絶対的な確信があるため、そこから一歩も退かない。

とはいえ、絶対的確信なんてものは、そんなものはあなたが勝手に抱いている妄想ではないか。わたしたちにそれを証明する術はない。

つまり同意というものは個体に依存するものであるから、当然、絶対的なものではない。

わたしは嘘をつくし、あなたも嘘をつく。途端に責任というものは曖昧になる。

責任とは個体に依存するものであるから、圧倒的に、絶対的なものではない。

つまり客観的な責任というものは存在しない。いつも個体のみがそれにおいて責任を持っているから。
同様に、客観的な同意というものは決して存在しないのだ。

すなわち、同意のない相手への性的接触は暴力であることから、結果的に、
セックスとはすべて相手への暴力であり、決別である、ということになる。
セックスの瞬間ごとに、わたしとあなたの関係は断ち切られていく。快楽は宇宙や海綿体へと還元され、そこからわたしやあなたといった、主観的で曖昧な存在は消えていくのだ。

それこそまた、プログラミングである。そのプログラミングとは、生殖のために理性を鎮静させる麻酔である。もはや人は夢中で異性を求めるために存在し、なにかをその主観で判断したり、受け入れたり拒んだりすることなど無意味、否、不可能なのかもしれない。

ここでわたしたちは、自己とプログラミングの関係について整理しなければならない。

この鎮静剤を、わたしたちは意識的に断つことはできまいか。

自己とプログラミングとは、断ち切れるはずである。

その証拠に、わたしたちはいつでもどこでも誰かれ異性に飛びつくということをしない。むしろ、できない。各人の脳内に設けられた一定の基準の中で、ブレーキをかける、ないしその後の行動を選びとるということを無意識的に行う。

(じつはこれこそまたプログラミングなのであるが。)

満員電車で肉体的接触が可能であれば誰もが性的欲求を爆発させるだろうか。
あなたは。あなたはどうだろう。満員電車で健康的な素肌を目にしたら触れたくなって触れてしまうだろうか。
考えてみてほしい。

人には、人間が進化の過程で獲得してきた"社会的生存方法"がプログラミングされており、みずからを反社会的生物と規定することに抵抗を感じるようにできている。

ところで、人ごとに好みの容姿や波長があるのは、育った環境や経験に左右されることもあるが、大きく見ればそれは種の保存と多様性獲得のためのプログラミングである。

つまり、わたしたちはプログラミングによって異性に性的欲求を掻き立てられるが、同時にプログラミングによってブレーキをかけられ、行動を選択するのである。

厳密には、選択するはずである。

しかし、そのブレーキや選択が特殊な基準で働くないし働かない人間もいる。

あなたが同性に性的欲求を感じないのは当然のことだ。
だが、ほかの誰かが同性に性的欲求を感じることはありえる。だが生物の繁栄プログラムの観点からするとそれは脆弱性である。

ここにまた一つの分断が起こる。

性的欲求プログラミングを制御するプログラミングの一定の基準を下回って(クリアして)いる人間と、基準を上回って(オーバーして)いる人間の、それぞれが互いに理解しようがないという分断である。

なぜなら、脆弱性を排除し正そうとするのもまたプログラミングであるから、基準をクリアしている人間は基準をオーバーした人間を危険と感じるようにできているからである。

事実、同性同士で人類は永遠に生存できるだろうか。また性的欲求を抑えられない人間が社会的な生活を送ることができるだろうか。
しかし、事実、脆弱性ではあれど、存在しているのだ。

ここではっきりさせたいのは、
すなわち、同性同士への性的感覚は起こりうるし、同時にまた否定されざるを得ない存在であるということ、
性的欲求を抑えられない人間は存在しうるし、同時にまた否定されざるを得ない存在であるということ。

(同性愛者と性犯罪者を一緒にするな、という議論はここでは起こりえない。)

ここまでの疑問はすべて、生物の繁栄を目的とするプログラミングがあるという仮定のもと展開されている。

決して、この基準をクリアしてる人間が優れていてその逆を劣っているとするものではない。

むしろ、優れているとか劣っているとか、そういった視点を持つことはできないということが語られているのである。

なぜならば人間はブレーキとアクセルの両方が無意識化に働くようプログラミングされているからであり、
かつ、大きくみたときの人類、すなわち共同的生命体としての人類において、その人類全体にこのプログラミングがなされているからである。

繁栄の定義を人口の増殖とするのであれば、繁栄にむかってアクセルを踏み続けることこそが大儀であり、生命の意味である。しかし、かのプログラミングは同時にブレーキも与えた。つまり、神的な、宇宙的なかのプログラミングは、人間が地球という限られた環境にいることを知っているのである。想像するのは難しいが、ほんとうに人口の増殖だけが進みきると限られた資源は尽きてしまうだろう。永遠的な観点からするとそれはほんの一瞬のこと、風船を膨らませて割れるまでの一瞬のことなのである。

(風船が割れる瞬間は好きだ。
心臓が一瞬どきっとする。
それ以外の瞬間には、ただ電気信号の、二進数の日常が、終わりなく広がっている。
いよいよ一生というものが戯事に思えてくるが、続ける。)

つまりすべてはプログラミングによって調整されているのだ。戦争でさえ人口爆発の抑止力とみなしてよいだろう。
プログラミングは、個や小さな集合体よりも、人類史が脈々と続くことに興味があり、それを実行しているのである。

ただし、個というものは無視できない。ほんとうに無視しつづけた場合、個とはつまりすべての個体のことであるから、全体を無視することにつながる。

個が個として生きるということは、その差によって生きられない状態にないということである。それすなわち平等である。脆弱性は平等に割り振られている。

みな平等に、弱者とされうる可能性を持っている以上、あなたにもわたしにも、それを嫌ったり扱き下ろすことはできないはずだ。
仮に、トマトがトマトを嫌って枯らし合うことができるのであれば、それは脆弱性ではなくプログラミングの破綻である。
しかし人間は、社会は、破綻せずむしろ進化を続けている(進化の定義はここで語る必要はない)。つまり、プログラミングに失敗はなく、むしろ成功していると言えるのだ。すなわち、仮に脆弱性を持った他者を前にしても、それを排他し詰問し、分断することはできない。厳密には、分断することは起こらないはずだ。

しかし、ここに大きな大きな矛盾が存する。

このプログラミングが完璧である所以とは、かえって、脆弱性を自分たちで修正し合うように仕組まれている点なのである。

電車の中で一人で声を発している人物をあなたは守りたいか。

むしろ離れなければと感じ、関わってはならないと感じるはずだ。

自らの身の危険を感じると回避しようとする人間のプログラミングは、通常の生物の本能よりも異常に(とりわけ人間同士の社会の中において)発達している。個の保存が結局は全体の保存に繋がることをプログラミングは知っている。

つまり、全体の保存に繋がらない、むしろそれを阻む存在に対しては防衛意識が働くようにできているのだ。

逆説的に、それは繁栄のためのエンカウントこそを正義としているのだ。
そのためであれば悪=脆弱性を憎み、分断するべしとプログラミングは語りかけるのである。

これこそが、大きな大きな矛盾である。

しかしながら、それでいてプログラミングとしては完璧なのである。

わたしもあなたも、だれかを優れているとか劣っているとかいう視点でそれぞれに語り、排他し詰問し、否定し幽閉し、監視しあるいは無視し、分断を生み出すことが許されているのだ。

わたしはあなたの異常な性癖を嫌うことができる。

あなたはわたしの健全な性欲を笑うことができる。

それはつまり、

わたしはあなたに暴力を振るってもよい。

あなたはわたしに濡れ衣を着せてもよい。

それは仕方のないことだ。

プログラミング通りに生きてるだけなのだから。

戦争も平和も、すべては調整された中で起こっている。

所詮、個は個であり、他者との関わりの中に何かを見出すことに意味はないし、不可能なのだ。

ここでわたしは、いままでの論をすべて否定したい。

やはり人は、生存と繁栄だけのためにプログラミングされた数字的存在ではないのである。

個々がそれぞれにもっている宇宙をそれぞれに統べる唯一だ。

その証拠にわたしはこれまで展開した論を虚偽とし、忘れてしまうことができる。
厳密には忘れたかのようにすることができるのであるが、とにかく、行動という意味では、忘れる、ことができる。

それはつまり嘘をつくということであり、

自由であるということだ。

そしてまた、それぞれに宇宙=天文学的規則性を持っているのであるから、すなわちそれぞれの法律を持っている。
それもまた、自由であるということだ。

この世界観では、恋とは自由のことであり、

セックスとは自由のことであり、

性癖も、

戦争も平和も、

すべては自由ということだ。

なんということはない、

それは荒野のことである。

真の意味では、そこには誰かとの干渉というものは存在しない。会話も出会いも、視覚も聴覚もすべてが嘘である。そもそも、そこではすべてが実存を持たない。観念的にただ存在しているのみである。

なぜというに、関係というものすらも起こりえないからである。

わたしと、わたしの哲学、その関係、というものすら取り払われる。わたしが哲学しているのは嘘であるから。わたしは、哲学するという行為からすらも自由に解き放たれているから。

もはや、そこには当然、わたしという漠然とした思念体のみが存在するのだ。

個。

永遠の個。

すなわち、あなたがいま目の前で悪漢に強姦されていようと、わたしがいま全裸で街に繰り出していようと、それ自体とわたしとは関係がないので、それ自体起こらなかったことなのである。

もう、だれかの個に関して感じることに意味はないではないか。
そのひとの個は、そのひとの宇宙の中で完結しているのだから。

しかし、同時に逆説的に、そのひととどのように関わってもよいということになりはしまいか。

なぜならばそのひとは、わたしとどう関わろうとも、なにも起こらないからである。

魂はいよいよ、この地球というからっぽの舞台の上をただひとつふたつ、ただようのみとなる。

なんて寂しい命なのだろうか。

この寂しさだけは、わたし、というひとつの原子的な不可分的な宇宙の中に、永遠に時を止めている。

ああ、

であればどんな爆弾をもってあなたのもとに飛び込んでゆこう。

わたしもあなたも終わってしまえば寂しいとは思うまい。

それが暴力の本当の正体である。

その爆発は、新たな宇宙を生み出すビッグバンである。それこそが関係の正体である。

関係の宇宙には、惑星と惑星が衝突する機会が存在する。

あなたとわたしの衝突。

それをセックスとしたい。

だがこれは希望的観測であり、あるルールを忘れてしまってはいまいか。暴力もセックスも、かの関係の宇宙も、それらとの関係自体がそもそも嘘なのである。

結局、残ったのは、やはり宇宙の観測者たる寂しいわたしだけなのだ。

振り返ってみると、受動的=プログラミングであれ能動的=自由であれ、

他者と関わることにも、生命が存続していることにも、大して意味はないのである。

あるのはただ「個」のみである。

ひとの恋とか愛にいちいち感じても、
戦争と平和について考えても、
分断を憎んでも、
意味などない、忘れられる存在なのだ。

ちなみに、

この文章の著者は男でも女でもない、
人である。

ここでサポートいただいたお気持ちは、エリア51の活動や、個人の活動のための資金とさせていただいております。どうぞよろしくお願いいたします。