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ジェンダーはステーキハウスに現れる。

個人的な話


今年になってから新しくバイトを始めた。題名にある通り、とあるステーキハウスだ。何となくバイトを探していたら、それなりに近所にあり、なおかつそこそこ高級なお店、何よりまかない付きの求人いうことで直ぐに応募した。軽い面接を受けたのだが、そこで僕は驚くことになる。そこで食事をすませようと思えば一万円はくだらない金が飛んでいくような店の、恐らくは有名で格式高い肉を焼くのは僕達、つまりアルバイターなのだ。この話をすれば誰もが軽く驚くのだが、その是非はとりあえず置いておく。半年程度の下積みを経てステーキを焼いてもらうことになる。そう説明された僕はワクワクした。よくテレビでみるようなかっこいいシェフを思い描き、やる気を漲らせた。

さて、無事採用され十数名の同僚──全員が大学生なのだが、彼らと顔合わせを済ませ、いざ労働せんとした際に、気がつくことがあった。

この話は僕のバイトにおける活劇などでは無い。もちろんそれなりに波乱万丈の労働体験を絶賛積み上げ中であり、それについて軽く万を超える文字を書き連ねることは出来そうであるが、そこから得られるものはあまりに少ない。時給が出るなら考えものだが。今回するのは、ジェンダーの話である。(なお書き終えた現在はこのバイトを続けていない。およそ半年後に音を上げて辞めた)

初めに断っておくと、これは男がどうとか女がどうとか言う類のものではない。今現実に存在するジェンダー差別による弊害を、僕のバイト体験から説明しようとするものである。ちなみに時給はでないから、これは完全にボランティアと言える。就活の時には存分に利用させてもらおう。

ジェンダーはステーキハウスに現れる

話は三段落前に戻る。いざ勤務となった段に気がついたこと──それは一見性差別的だ。いや、それそのものだ。では男性差別か、それとも女性差別なのか。僕はふと気が付き困惑することになる。というのは、僕のように、ステーキを焼く役割を担うバイトは全て男であり、接客を行い片付けをするのは全て女だったのだ。店長に直接聞いた訳では無いので、完全な男女分業がはかられているとは言えない。しかし、例外は未だ見ていない。

ステーキハウスにおける労働において、ステーキを焼くという仕事は言わば花形と言えるだろう。実際僕は面接時に憧れたし、修行中の今もお客さんの前でステーキを焼く先輩をかっこいいと思う。テレビでみるようなパフォーマンスでステーキを焼くことなんて、普通だったら人生ですることはないだろう。その点では新たなスキルを習得出来るとすら言える。今では、この技能を習得せずして辞めてしまったことを少しばかり後悔するほどだ。
これら利点がある以上、単に性別を理由とした男女における労働の差異は差別と言える。この場合は女性差別だ。

しかし、ことはそう単純ではない。確かにステーキを焼くという華々しい仕事は男の役目だ。ただ、それには当然別の仕事が付随する。厨房での下準備や鉄板の掃除等である。大量にニンニクを使うので、手はニンニク臭くなる。これは数日はとれない。刃物を使うし、また水仕事であるため手が荒れる。掃除は鉄板は熱された状態で行うため、防熱仕様の手袋をしているとは言え熱い。タワシで擦るのにも非常に力を要するため、単純にキツい。これらは男の仕事である。鉄板を使うのは我々だから当たり前と言えばそうなのだが、これもまた性別による差異に他ならない。

特に僕は下っ端であり、そのために鉄板掃除などのキツい仕事を任される。それは言わば年功序列的な、男性社会的価値観による苦しみであるのだが、それでもホールで働く女性従業員を羨ましく思うことはある。僕が女だったらと。

これは何差別?

さて、ここでひとつ疑問がある。これは僕の事例に留まらぬ示唆に富むものである。果たして、これは何差別なのだろうか?

前述の通り、ステーキを焼く役割は花形であり、女性はそれを出来ないという点からこれは明らかな女性差別である。これはとてもわかりやすい。初めて出勤した際の僕もそうであるし、恐らくジェンダー問題に敏感なお客さんがいれば同じことを思うだろう。華々しく肉を焼く男性シェフの傍ら、女性従業員が皿などを用意する。「あなたもステーキハウスで働こう!」上の構図をどこかの企業が広告に起用しようものなら、炎上するであろうことは想像に難くない。先日、とあるキャラクターの設定が男(オス)が隊長、女(メス)が副隊長ということをもって男女差別だとする活動家が話題になったのは記憶に新しい。

しかし、彼らの影では、また彼らも影では、熱い水蒸気に蒸されながら必死で鉄板を掃除しているのである。その間に彼女らは皿などを片付ける。その姿は広告にはならない。何故なら鉄板掃除などはお客さんの少ない時にするため、また当然ひっそりとするために、わかりにくい。だが、この仕事における労力の違いからこの男女分業は性差別──男性差別と言えないだろうか。

そう、これは女性差別であり、男性差別である。いや、程度の差はあるはずだ。必ずやどちらか一方によるどちらか一方への差別に違いない。そうだろうか?僕にはそう思えない。

ここでもうひとつ質問を挟みたい──あなたはステーキを焼きたいか、それとも接客をしたいか。

単純にこの文面だと、多くの方が前者を選択するだろう。では言い換えよう。ステーキを焼けるが鉄板などを掃除する過酷な仕事をしたいか、それともやや面倒が伴うが比較的身体的には楽な接客をしたいか。こうなれば、少しは判断が別れるかもしれない。少なくとも、僕は悩む。

この選択を性別に関わらず行えるのであれば、これは問題ではない。逆に問題となっているのは性別のせいで自由な選択肢が奪われているからである。職業や婚姻などにおける代表的性差別の根幹はここにあろう。

先の疑問に立ち戻る。性差別の定義のひとつを性による自由選択の阻害とすると、僕の事例は何差別にあたるのか。女性は──給仕になるという選択肢しか与えられていない。その一方で男性も──選択してステーキを焼くことが出来ないのである。

これは男性差別への反論としてよく見られるものだが、例えば、ステーキを焼けるという利点があるのだからその代償として多少の苦労はしなければならない、よってそれは差別とは言えないという反論が想定される。つまりその差別と主張するものの恩恵を受けているのだから、それは差別ではないというロジックだ。いわゆる「差別コスト」だが、差別とは利益の有無を問題としない。それを言うならば、差別として周知の事実とされる女性の家事労働割合の不均衡だって、社会というストレスの巣窟をいくらか回避出来るというメリットはある。ものは言いようである。

では、差別の比較計量は出来るだろうか。この場合、ステーキを焼く楽しみと鉄板掃除等の苦役とステーキを焼けない失望と肉体労働の免除、どちらがより差別的扱いを受けているだろう。その苦しみは定量化出来ない。何故なら、差別に合う者はどちらも経験するということは出来ないからだ。何故なら、それぞれを選択出来ないという差別に両性があっているからだ。男は女を真の意味で理解できない。女は男に真の意味で共感出来ない。何故ならその間には差別があるからだ。選択の不可能があり、よって経験の不可能があるからだ。いつしか性差別が無くなった時──その時はようやく両性が分かり合えることだろう。何を隠そう、男である僕は女性従業員の仕事をしたことが無い。今までのことは想像で語っている。だから、接客以外に、或いは接客において彼女らならではの苦しみはあるだろう。僕はそれについて言及していない。その点でこの文を唾棄すべきとするのは自由であるが、ここにもまた僕の主張を強化する何かが隠れている気がする。つまり、男と女はその苦しみを真に理解しあえない。ひとつの性差別の裏側にはまた性差別があり、この苦しみについては比較出来ないのだ。

日本は男尊女卑か女尊男卑か

このステーキハウスにおける性規範を通し僕の内に現れた問いは、日本における性差別は男性差別か女性差別かどちらだろうかというものであり、言い換えれば日本は男尊女卑社会なのか、それとも女尊男卑社会なのかという疑問だ。ステーキハウスと日本を重ね合わせて見てみれば、僕の主張がわかるだろう。やはり日本は男尊女卑でも女尊男卑でもある社会なのだと僕は思う。

各国における男女格差を測るジェンダーギャップ指数(GGI)ランキングの最新版が発表された。日本は156ヶ国中で120位となっている。(2021年時)特に政治・経済分野のスコアが低いのはよく知られた話だ。政治において女性参画が十分に成されていないのは、そのまま女性の暮らしにくさに繋がりうる。経済分野の低い点数は、雇用における男女格差などが現れている。


間違いなく、日本はこれらの点では男尊女卑社会といえる。(なおGGIの信憑性について疑問の声が上がることは多いが、それについては他の方が詳しく説明していらっしゃるので別に調べてみて欲しい。参考にひとつ紹介する。)


しかし、一方で男性の自殺率やホームレスの割合は女性のそれと比べて大きい。また、幸福度の男女差は世界でも屈指の大きさとなっている──女性の方が数値上は幸福なのだ。

自殺統計によると(第1-14表)、平成30年 の自殺者数(第1-14-1表)は2万840人で、 前年に比べ481人(2.3%)減少した。性別で は、男性が1万4,290人で全体の68.6%を占め ている。

https://www.mhlw.go.jp/content/r1h-1-6.pdf

このような社会を女尊男卑社会と形容することは誤りだろうか?

では、何故一方で日本を男尊女卑社会であると声を荒らげつつ、一方で日本は女尊男卑社会と主張する者を糾弾する輩がいるのだろう。その理由は単純明快で、彼らは自分の苦しみしか見ていない。そして、想像すらしていないのだ。華々しくステーキを焼く男たちを羨みつつも、その裏で熱い鉄板に汗を垂らす男の姿など思いもしない。勿論逆もまた然りだ。

特に男性差別においてこの傾向は顕著だ。試しに「自殺者 男性/女性」で検索してみよう。

Googleで「自殺者 男性」と検索した結果


Googleで「自殺者 女性」と検索した結果

結果を見てわかる通り、男性の場合公的文書が最初に並ぶ(そしてこれは男性にフォーカスしたものでは無い)一方、女性ではコロナ禍において自殺者数が増加したことを女性にフォーカスして報道する記事が現れる。増加してなお、男性自殺者数の方が依然として多いにも関わらずである。

無論、僕は数が多いことをもって日本は女尊男卑などと言いたい訳では無い。(勿論、これは男性差別ではあるのだが)しかし、元々圧倒的に男性の自殺者数が多いのに、そしてそれが大きく報道されることは少ないのに、女性自殺者が増えた途端、それは大きく報道されてはいないだろうか。そして、そこには男性の命の軽視が現れているのではないだろうか。そう思わずにいられないのだ。

この男女の不均衡について焦点をあてたのが以下の記事である。

日本では、女性はケア労働を強いられている。しかし、そのおかげと言えるかは疑問だが家を失わずにすみ、比較的幸福に生きることができる。

日本では、男性はより働くことが可能だ。政治家や企業役員など比較的出世することができる。しかし、その分ストレスや過労に晒されるリスクは大きく、自殺者は多くでる。

男性が社会による利を得ているように、女性もまた何らかの利益を享受している。そして同様に、不利益も被っている。GGIの例で言うと、確かに政治・経済分野における男性の立ち位置は女性のそれに比べ上だ。しかしそれは落下する危険──過労やストレスなど、自殺率などに表れるような──リスクを同時に伴うものである。MeToo運動を代表として、女性から見た差別にセンシティブなこの時代、勿論それ自体はいいことだが、男性目線での差別は語られない。敢えてそれをするなら、男性は政治・経済という社会の利益のために人柱にされていると言える。このような状況で一方の性を恵まれているとし、日本を男尊女卑或いは女尊男卑のいずれかであるとする思想に意味はあるだろうか。両性が差別を受けている以上、それは差別思想に他ならない。

武田鉄矢氏批判と結論

と、書いてるうちに好例が飛び込んできた。武田鉄矢氏の「男性優位を感じたことがない」発言とそれに伴う批判騒動だ。

28日放送のフジテレビ『ワイドナショー』に武田鉄矢が出演。 テレビ朝日『報道ステーション』の番組PR動画が女性蔑視と批判され、同局が謝罪しCMを取り下げた問題について「男性優位と感じたことがない」と発言し、ネット上では疑問の声が上がっている。
(中略)
この武田の発言にネット上では「もう武田鉄矢にジェンダーの話聞くなよ。何もわかってないよ」「男性優位を感じたことないのはあなたが男性だからですよ」「社会はそうではないよ、武田氏ずれとる」「武田鉄矢なんて狭い世界で生きてるんだ」「言ってることがポンコツ過ぎる」と多くの非難の声が集まっている。

https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzo_272881/

まず断言したい。武田鉄矢氏の発言は批判されて然るべきだ。この世には男性優位と言えるものは間違いなくある。東京医大入学試験における男子の加算などはかなりわかりやすい例である。武田鉄矢氏が「わかってない」のは明らかだ。

だが、武田鉄矢氏が「わかってない」のを男性だからとする言説には些かの疑問を覚える。僕は男だが、少なくとも氏よりは男性優位について「わかって」いる。大方の男性もそうだろう。では、何故同じ「男性」である武田氏と我々でその理解度が異なるのか。それは、武田氏が社会に撒き散らされた男性優位を或いは女性差別を意識的に視ていない、酷い場合には視えていても、それと理解できていないからであろう。更に突き詰めるとその原因は、知識、そして想像力の欠如だ。

しかし、同時に言いたい。間違いなくある女性優位──既に記したような自殺率、幸福度など──を認識せずして男性差別を否定する者たちに。

社会(差別)はそうでは無い。お前はズレている。

差別は表裏一体だ。ステーキハウスにおける労働のように。医大の女性差別の裏には、男性を酷使する男性差別がある。高い自殺率という男性差別の裏には女性を家に押し込めてきた女性差別がある。差別コストという言葉に少し触れた。コストは利益のために払う。自分たちの利益を見ずして払ったコストを返せという「差別コスト」を持ち出す輩は窃盗犯に他ならないのではなかろうか。彼らは己の苦しみばかりを強調し、そして一番に救われるべきだと考えている。僕は彼らを軽蔑し、「お気持ち泥棒」と呼ぶことを推奨する。

話が冗長になってしまったので結論を述べる。僕がステーキハウスで直面した差別。それは他ならぬ男性差別であり、女性差別だ。つまり、性差別だ。男性が利を得ているのでも女性が利を得ているのでもない。至ってシンプルな回答だ。

さて、あなたの直面する差別は何差別だろうか。今一度考え直そう。そして想像しよう。その背後に何があるのか。ひょっとするとそれはあなた自身かもしれない。しかし、それを理解することが、そして男女共に差別に向き合うことが、解決への一歩なのだと僕は思う。










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