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をかしとあはれの和歌草子#4「紫式部の初出勤」

春、新しく始まる

 卯月の四月。新年度がスタートした。入社や入学などそれぞれの日常があたらしく始まる春である。就きたかった職業ややりたい仕事、入りたかった学校へと希望や願いは叶っただろうか。新社会人ではなくても、自ら進んでの転職、他者都合の離職、さらには今までしたことがないパートやアルバイトを新しく始めることもあるかもしれない。

 納得できないことに携わる時、人は自らの不遇を嘆く。「なぜ、どうして私がこんなことを」と。他人に、世の中に、振り回される自分にうんざりしてしまう。春の明るい光に慰められたり、鬱陶しく感じたりと、心は乱れるばかりだ。

 不本意な仕事に就くことは、令和の現代だけのことではない。遠い昔からこれは存在した。どれくらい遠い昔かというと、それは平安時代へも遡る。時の権力者に、家族に、結婚相手に、右に左に上や下へと振り回されて、世の儚さと有限な世を痛感する。これは、「をとこ」ばかりではなく「をんな」もまた同じだった。

 『源氏物語』の作者として知られる「紫式部」も、女房としての初出仕はいやいやだった。それでも、生きてゆくために無理やりに自分を納得させ、出勤(出仕)したのである。


女房嫌いの紫式部

 紫式部の出仕先(勤務先)は、当時の帝である一条天皇の中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)のもとだった。役職は女房(にょうぼう)だ。紫式部は女房になりたかったわけではなく、またかつて何処かに出仕(就職)をしたこともない。女房とは高貴な方々の邸宅に局(つぼね=部屋のこと)を与えられて、住み込みで働く侍女(じじょ)のことである。仕事内容は、行事参加や主人(紫式部の場合は中宮彰子)の装束を準備することだ。さらには和歌や物語などの教養と遊びのお相手も務めである。下働き(料理や掃除など)はいっさいしない。華やかそうな業務内容である。けれど紫式部は、あくまでも女房とは雇われ人であり、落ちぶれた人、身分の低い人のすることだと考えていた。なぜなら彼女は自宅で自ら女房を雇っていたからである。
 
 このほかにも女房については、世間ずれしていて下品だという印象を広く持たれていたことも、この職業を嫌う理由のひとつだった。「女房」が「世間ずれしていて下品」という考えをもつ根拠としては、主人の家に出入りする身分の上下も男女も問わず、不特定な多くの人びとと会い、話をしなくてはいけないことである。一方「里の女」と言われていた娘や妻は、屋敷の奥に暮らし、家族以外とは顔を合わせない。紫式部は後者として生まれてからずっと過ごしてきたのだ。こんなふうに、おっとりと日々を暮らしてきた彼女は、女房として対人関係をやり過ごす資質が自分にはない、と思っていたのである。


断り切れない縁故入社

しかし、紫式部は女房として勤めるよりほかはなかった。それは、時の権力者である藤原道長に頼まれたからだ。道長は中宮彰子の父親であり、また彰子の母親は道長の正室、倫子(りんし)である。倫子と紫式部は、またいことだ。つまりは親戚からの要請である。現在で言う、縁故入社みたいなものだ。さらに、紫式部の父、為時(ためとき)が不遇だった際に道長はこの父親を取り立ててくださった恩義もあった。この二点から出仕を断ることができなかったであろう、と推測されている。
 この他にも紫式部の現状として、夫に先立たれ寡婦となり、娘を養っていかなくてはいけなかったこと。実家の家族(父や弟)もぱっとした位には就いておらず、不安定で頼りに思いにくかったことが挙げられる。ただでさえこのような身の不遇を残念に思っていたところに、さらに不本意ながら女房として出仕することになり、紫式部の心はますます鬱屈していくのだった。


心乱れる初出仕

 寛永二年(1005年)十二月二十九日に紫式部は、中宮彰子の女房として初出仕したとされている。この時の和歌が『紫式部集』の九十一番目に収められている。

    初めて内裏わたりを見るに、もののあはれなれば
  身の憂さは 心の内に したひ来て いま九重ぞ 思ひ乱るる

『紫式部集』91番

「初出仕で広い内裏を眺めた時に、しみじみと悲しみがこみあげてきて」
「私自身の不遇による辛い気持ちは、私の心の奥底までこっそりと後を追いかけてきていた。今、ここ(内裏)に来てまで、吹っ切れたと思っていた今までの辛いことへの気持ち、そして、それがここ(内裏)までまだ追いかけて来ていたことに対する驚きなど様々な思いがいくつも重なり、気持ちの整理がつきません。」

 この和歌では紫式部の素養がしっかりと読み込まれている。その素養とは、彼女が漢籍に豊かなそれを身に付けていたことである。これについては既出「をかしとあはれの和歌草子#3『桃と桜と紫式部』」でも記したが、ここでもそれを見ることができる。
 
 下句の「九重(ここのへ)」は、「今ここに」の場所を指し示す「ここ」に掛けられている。
さらに言葉の意味としての「九重(ここのへ)」は、「一、物事が数多く重なること」、「二、宮中」がある。また、「二、宮中」の意に関しては、「中国の王城の門は九重(きゅうちょう)に造られていた」とされ、この九重の訓読語が「ここのへ」とのことである。「九重」は出仕した「内裏」の意味も兼ねていることが分かる。
 つまり、和歌中の「九重」には、「ここ」、「様々な思いがいくつも重なっていること」、「内裏」と三つの意味が表されている。特に、「内裏=九重」という方程式は、漢籍に親しみある紫式部ならではの導きであるといえるだろう。さらには、当時、中国到来物の漢籍は「をんな」には無用の学問とされていた。それでもそれを自ら好んで身に付けていた「紫式部」である。「をんな」にしかなれない「女房」としての初出仕の和歌、という点でも紫式部の才が光るところではないだろうか。


好きなことは身を救う

 時の権力者であり、中宮彰子の父親である藤原道長が紫式部に声を掛けたのは、ただ親戚筋だからのみの理由ではなく、紫式部の持ちうる素養もこれからの中宮彰子付きの女房には必要だと、判断したからだろう。ちなみに紫式部が書いた『源氏物語』は、この時すでに書き始められていたとされる。この初期の物語のあったであろう人気ぶりも、道長が彼女を娘の女房にと考えた理由のまたひとつなのではと推測される。
 
 好きな(得意な)物事は身を救う、ということに紫式部はこの時点ではまだ気付いてはいない。自身の好きなこと、得意なことは、自分を知らなければ見つけることが難しい。彼女の未来に生きる私は、「大丈夫、あなたの好きなことを大切にしてね」とそっと伝えたい想いに今、駆られている。
そして、宮中への初出仕は、彼女が後に辿り着く自立(心の)へのスタートラインに向かう出来事となる。


【参考書籍】
1.『紫式部日記』 (紫式部、山本淳子=訳注/角川文庫)
2.『ビギナーズクラシックス日本の古典 紫式部日記』 (紫式部、山本淳子=編/角川文庫)
3.『紫式部ひとり語り』 (山本淳子/角川文庫)

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