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桃の花、そして『花桃実桃』

 桃には果樹と観賞用の花木の二種類がある。もちろん、どちらの樹木も花を咲かせる。そして、双方は中国が原産である。『古事記』には、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が亡くなった伊邪那美命(いざなみのみこと)を忘れられず黄泉の国を訪ねた時、伊邪那岐命は伊邪那美命との約束を守ることができず、雷神に追われることとなる。この雷神たちを桃の果実三個をとって追い払った、とされる記述がある。この神話は、桃は邪気を祓う、とする中国古来思想の影響を受けている(1)と考えられる。日本の昔話にある『桃太郎』もまた同様である。そしてこれらは、果実としての桃が題材だが、観賞する桃については『万葉集』に七首の桃を詠んだ和歌(1356、1358、1889、2834、2970、4139、4192)がある。このことから、古く万葉の時代には花が観賞されていたことがうかがえる。ただし、この桃の花は実を結ぶ果樹に咲く花だと考えられている。花を愛でるための園芸品種は元禄の頃に育成が進んだとされている。
 
 三月三日は雛祭りであり、桃の節供ともいわれている。これは桃の開花期と重なるため、そう呼ばれるようになった。旧暦では現在の四月三日が節供とされ、花桃は四月上旬が本来の花見ごろである。かつては、この頃に花桃の花見が行われ、日本各地の桃の名所は多くの見物客で賑わっていたそうだ。現在の雛祭り用の花つき枝は、このために開花を早めて栽培され、市場へと出荷されている。

 このように歴史ある「桃」。今回は果実としてのそれではなく、観賞のための花を小説の中に探してみた。『花桃実桃』(中島京子著/中公文庫)には「桃」という文字がタイトルにも話の中にも、たくさん登場する。
 主人公の茜は、父の遺産である、全九戸の古びた賃貸アパートを相続する。「十五年前に母親が逝って以来、一人暮らしをしていた父親が、老後の支えにと買って経営していたらしい」アパートである。まず、このアパートの名称が「花桃館」だ。そして、この建物と路地との境界に立つ煉瓦の柱の脇に花桃の木が植えられている。これがアパート名の由来かと思われるが、茜は父が自分自身の氏名からとったに違いないと考えている。父親の名は「花村百蔵」である。ここから「花」と「桃」をとって名付けたと思っている。父に対して娘の茜は批判的である。それは「花桃の木が好きだったのは、自己愛の一種で、たいして樹木草花に詳しい人でもなかった」と描写されていることからうかがえる。
 
 諸々あり、茜はこの「花桃館」の一室で暮らすことを決断する。この時、アパートを管理している不動産屋は「死んだ親父さん」が「娘が住むかもしれない」と言っていたことを彼女に伝える。その理由として、茜が「行かず後家だから」、「あれに残してやれるのはこれだけだから」、「住むなり売るなり」と話していたとも伝えた。父「百蔵」は「俺は元気だ、俺にかまうな、俺は勝手に一人で生きる」と生前に言い続けていたため、茜は半年に一度くらいしか顔も合わせていなかった。ここでも茜が父と疎遠な暮らしをしていたことが分かる。「俺にかまうな、俺は勝手に一人で生きる」とは言うが、それでも父は娘を案じ、心を配っていたのでは、と私は思う。
 
 アパートの名称「花桃館」の本当の由来は父親が亡くなった今、知る由もない。しかし、桃の節供ともいわれる雛祭りは、女の子の幸福を祈る行事だ。四十三歳にもなった娘に女の子はないかもしれないが、いくつになっても親にとっては子供である。いずれ「娘が住むかもしれない」建物に「花桃館」と名付け、百蔵は茜の行く末が幸せであるようにと願っていたのではないだろうか。一人で生きてゆくにしろ、誰かと人生を共に歩むにしても、ただただ、娘に幸あれと心の内で桃の花に祈っていたのではないだろうか。
 また、門柱の脇に植える樹木草花のひとつに花桃の木を選んだのは、桃が凶禍を除き、邪気を祓うとされているからでは、と思う。娘に災厄が降りかからないように、と祈りを込めて植えたのではと想像する。

 この小説の中のアパートに咲く「桃の花」は、父親が娘の幸せを願う象徴だと、私は勝手に思っている。
 ちなみに、題名の『花桃実桃』の意味については、物語の最後で語られている。


(1)「東方に桃九本を植えておけば子孫繁栄、凶禍を除く」『斎民要術』(五三二~五四九年ころ成立)
※『斎民要術』中国北魏の賈思勰(かしきしょう)著。華北の農業、牧畜、衣食住技術に関する総合的農書。92編、全10巻。中国に現存する最古の農書であり、世界農学史上最も早い農学専門書。(ウィキペディア「斎民要術」より)

【参考書籍】
1.『朝日百科 植物の世界』5巻 種子植物 1997年朝日新聞社発行
2.『新版 万葉集 二』、『新版 万葉集 三』、『新版 万葉集 四』(伊藤博訳注/角川ソフィア文庫)
3.『新版 古事記』(中村啓信訳注/角川ソフィア文庫)
4.『ビギナーズクラシックス日本の古典 古事記』(角川書店編/角川ソフィア文庫])
5.『花桃実桃』(中島京子著/中公文庫)


※次回更新は、2023年3月17日(金)を予定しています。

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