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桜、そして「春の狐憑き」~『桜の首飾り』より~

桜の頃の京都

 桜の頃。京都はとてつもなく大勢のひとでひしめき合う。日本中のひとがみんな京都に来ているのでは、と思うくらいだ。自動車で動けば駐車場はどこも満車で身動きが取れない。タクシー移動だと車が故障しているのでは、と感じるくらい動かない。市バスも乗客が多く、何台も待ち、やっと乗れたと思ったら、ぎゅうぎゅう詰めの車内で足が床に着かない。では、歩いてゆこうと外に出ると、これまた通りの横幅いっぱいに広がるひとの波。これが通りの縦にずっと続く。この人びとをかきわけて進んでいると、サーフィンはしたことはないけれど、こんな感じなのではとの気分になる。このような状況なので自転車なんてとんでもなく危険だ。颯爽と清々しく走ることは、まず難しい。
 以前、タクシー業者に「桜ともみじでは、どちらの方がひとが多いか」と尋ねたことがあった。応えは、「同じくらい」だと返ってきた。「桜です」との返事を微かに期待していたわたしは、ちょっとがっかりした。断然、花見客の方が多いと思っていたからだ、
 タクシードライバーが言うには、「桜の時期は短いけれど、もみじの期間は長い。短い時間にたくさんのひとが訪れるので桜の頃のほうが多いと思うのだろう」とのことだった。「なるほど」と納得した話だった。
 では、わたしの花見はというと、京都の自宅の一筋西向こうにふらりと散歩がてら見に行くくらいだ。この場所は本能寺跡で数本の桜の木がある。特に桜の名所ではないけれど、自然の理を達観しているかのように清らかにわたしたちを見下ろしながら咲いている様子が気に入っている。桜を見に行くのはこのように、たいていひとりだ。誰かと一緒に花見に行くことはほとんどない。もし共に愛でることがあるとしたら、誰かと何処かへ行くときに、たまたま桜を目にする程度だ、例えば、木屋町付近に流れる、高瀬川の桜とか。

桜の頃に読む小説

 桜の頃に毎年、必ず『桜の首飾り』(千早茜 著/実業之日本社文庫)を読む。「桜」をめぐる七つの話が収められている。この本には「桜」がそれはそれは様々に表されている。「桜の清潔さ」や「刹那的な美しさ」、そして「清らかな少女」、「白い泡のよう」など。何度も読んでいてもう知っているはずなのに、毎年、これらの表現を新鮮に感じている。そして読みながら頭の中で、哀しく、冷たい桜や華やかな桜、そして幸福な桜などが花開き、満開を迎える。今年ももちろん、例年通りだ。
 さらに、心が動かされる話は、毎年ちがっている。自分でもこれが面白いと感じていて、この本に魅力を感じているひとつだ。
 今年は七話のなかの「春の狐憑き」が好きで、何度も読み返している。作中に「ほうじ茶」が出てくる。同じようにそれを飲みながら。

私は、怖い。人に心を許したり、頼りにしたり、惹かれたり、そういう何もかもが怖くてたまらない。何か勝手に思われたり、幻滅されたり、嫌われたり、裏切られたりするのが怖い。自分を否定されたら、どうやって立っていればいいのか分からなくなる。それだったら一人がいい。何も変わらず、すり減ることもない。

『桜の首飾り』(千早茜 著/実業之日本社文庫)より「春の狐憑き」p.25

 この場面は、毎年読んでいたのだけれど、今までまったく気付かなかった、心に留めることがなかった。

美しいもの、きれいなもの、そして幸福の象徴

 他人と深く関わることが怖いと感じ、そして、人間関係を構築する能力が自分にはないのだと思っている主人公の「私」。そんな彼女の心に、仕事の昼休みにいつも公園で出会う「尾崎さん」の言葉は「いつも私にすうっと浸み込んで」いった。
 「尾崎さん」は、「いつも細い体にぴったりと合った仕立ての良い服を着て」いて、そのデザインは「ひどくクラシックなもの」だ。そして、「もうちっとも若くはないという風貌で、髪にも白いものがたくさん混じって灰色になっているけれど、笑う時は何歳も若返る」男性だ。さらに「クダ」という種類の「狐」を背広のポケットに入れている(飼っている?)、ちょっと不思議なひとだ。
 「尾崎さん」と「私」は、「さらさらと雨の降る」ある早朝にそれぞれが「桜に誘われて」いつもの公園で一緒に桜を目にする。この時の「桜」は次のように描写されている。

 尾崎さんが見上げた方向を見ると、そこには薄桃色の雲で覆われた丘があった。美術館の周りに植えられた桜たちだった。
 朝のほの白い空にぽっかりと浮かんでいる。
 吸い込んだ息が止まった。
「まるで、丘が冠を戴いたようですね。なかなかの絶景ですね」
 尾崎さんが満足げに言う。

『桜の首飾り』(千早茜 著/実業之日本社文庫)より「春の狐憑き」p.35

 この場面で「私」は桜を見たまま「尾崎さん」に「桜がきれいですね」と言い合えなくなるのは嫌だと言う。さらに「まだ尾崎さんに何も伝えてない。お話しできて楽しかったとか、安心したとか。」と続く。そして、これから「ちゃんと尾崎さんに関わりたい」と伝える。
 桜を見たままの「私」の目には、「いつの間にか涙がぽろぽろと落ちていた。桜はにじんでますます雲みたいになっている。(中略)桜がどんどんぼやけていく。
 「尾崎さん」は桜を見上げて返事をした。「今度あなたのお休みに一緒に桜を見に行きましょう」とのんびり言う。「お花見、行きましょう」と。
 最後は、「そうして、二人で黙って桜を眺めた。」その桜は「湿った黒い土に薄い花びらがあたたかい風に乗って散った。」

 美しいものを同じに美しいと共感できる「尾崎さん」との出会いで「私」は、人と関わることで「楽しいこと」や「安心」を、またみつけることができたのだ。
 美しいもの、心動かされるものを一緒に愛で、それを綺麗だね、と言い合い、そして言葉を発しなくても穏やかにそれを一緒に眺める相手がいることは、とても幸せなのではないだろうか。

 この作品の「桜」は、「美しいもの」、「きれいなもの」として捉えられ、そして「幸福」の象徴として描かれているのだと思った。
 「幸福」を一緒に味わえる人との時間を自ら手にした「私」も、きっと「美しい」に違いない。


※次回更新は、2023年4月17日(月)を予定しています。

 

 


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