経験がないという話

筆者には経験というものが足りないと自分なりに感じている。自分なりにと言ってもこれは主観のみならず客観視しても同じだ。

この書き出しからこの文章を書き始めたのは、加藤シゲアキ著のエッセイである「できることならスティードで」の後書きを読むと経験の話をした上で「書く上で多くの見聞が必要なのはいうまでもない」と書いてあり、理由がどうであれ唯一読んでいる作家がそう言っているならそうなのだろうと思ったからである。

同世代と比べると、いや、中学生と比べても経験が圧倒的に少ない。中学一年生で不登校になってから経験と言えるようなものはあまりしてこなかった。旅行も疲れるし、ライブのために東京や大阪、北海道や福井に行ってもライブや移動で疲れ観光はしない。祖母の家に泊まるため鹿児島へ行くぐらいだろうか。かと言って勉強をしているわけでもなく、本当に経験がないのである。友人には一度本気で勉強してみたらどうかと提案された。筆者もいい案だと思ったが行動には移せていない。

さて、自分なりの経験とは何なのかを考えてみた。中学で不登校になり引きこもったことだろうか。精神科の病院に入院したことだろうか。ただ、それも全て中学時代の話で、ここ5年は何も経験していないのではないか。経験していないことが経験というには少し無理がある。

躁鬱を繰り返し、週に一度は癇癪を起こすことは自分なりの経験なのかもしれない。もしかしたら今苦しめられている躁鬱も癇癪も、いつか何かをするための経験になるのかもしれない。

経験を積むために旅をしたり語学留学をしたりしたいのも山々だが、金銭面などでできない筆者は今自分が体験している感情のジェットコースターを経験と思うのもいい手かもしれない。

それがいつか、本当に経験になる日を夢見て。

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