才能があると言われてきたという話【うぬぼれ注意】
筆者はいろんなことで才能があると言われてきた。主に両親からだ。サッカー、IQテスト、勉強。
サッカーは何も考えずにプレーしていたがパスコースに光が当たって見えたためそこにパスするだけでチャンスを作れたし、ドリブルで突破されたことはなく、タックルで負けたこともない。中学一年の春で怪我をしたためにその冬でやめた。
IQテストでは中学一年でIQ129と言われた。天才ではないが高い方だろう。かといってそれを活かしたことはない。
勉強は小学生までなら勉強せずに点数を取れたし、中学生になってからも公式を覚えずに今までやってきたことを組み合わせて答えを出した。
筆者に必要だったのは「自信」と「努力」だと今は考えている。
自信は何もなかった。今、過去のこととして考えれば才能があったのかもしれないと思える。しかし、その当時は何もできず知識もなくどうせやっても仕方ないと思っていた。サッカーで怪我をしたのも、その後全然治らず痛みが引かなかったのもメンタルの問題だったと思う。怒られることが怖かった。教えられるのも否定されている気がする。全て、自信がないからだ。
自信がないから努力もしなかった。努力したところでどうしようもないと思っているからだ。実力がないと直視して努力できる人を尊敬する。筆者には今でも無理だろう。
勉強も小学生の時は努力が足りず、中学生になってからは自信がなかった。
「自信」と「努力」は補い合っているんだと思う。自信があるから努力するし、努力するから自信がつく。少なくとも、筆者の考えではそうだ。
筆者は予定調和が大好きだ。ゲームも勝てるからする。設定して一番簡単な難易度にしてプレーしたり、サッカーゲームでも10-0で勝ちたい。負けたら苦しくて、吐きそうになる。壁を越えようと努力したことなんてない。壁を見たら引き返してそこにはもう来ない。
今、母親に才能があると言われているのはこうして文章を書くことだ。趣味として書いているだけだが、続けたいと思っている。自分では才能があるとは思えていない。ただ、親の贔屓目から事実にするのは自分次第だろう。これはサッカーのリベンジだ。そして、人生の新たなチャレンジでもあると考えている。まだ壁を見たことはない。ただ、壁を前に立つほどに描き続けたいと思っている。壁を見たら、それはその時の自分に期待したい。人間は経験から学び、成長するものだ。その時が前に進むタイミングであることを期待して、この文章を終わろう。
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