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たとえ夢が叶っても、幸せになんかなれなかった

わたしは小さい頃、将来の夢を聞かれてたとき、なんにでもなれる気がしたし、なんにもなれないと思っていた。

6歳の頃、わたしはぬり絵が好きだった。職業ぬり絵みたいなものがあって、花屋さんとかケーキ屋さんとか学校の先生とかあった。
20枚くらいの職業があったけれど、どれもなれないなと思ったのを覚えてる。
でも、一個だけ。一個だけなりたいものが見つかった。

声優という職業だった。

母親に、このお仕事ってなにするの?と詳しく聞いた覚えもある。
そして、この職業ならなれるかもしれないとなぜか思った。理由はわからない。

小学三年生のとき、とてつもなく絵が上手な友達ができた。小学三年生でも漫画家になれるんじゃないかってくらい上手かった。
その子と親友になって、広告の裏の白い紙をつかって、ボールペンで漫画をいっぱい書いた。
交換漫画みたいなこともして、作品を作りあったこともあった。
漫画家になってみてもいいなぁと思った。でも、飽きっぽいわたしは、描き切ることが苦手で、面白い話を描きはじめても、いつも途中で終わってしまった。

とてつもなく漫画が上手だった友達は突き抜けていたし、わたしには漫画を描くのは無理だと思った。
だから、友達とはすこし違うフィールドにしようと思った。たしかイラストレーター※になりたいと卒業文集で書いた覚えがある。
(※後日確認したら、デザイナーって書いてありました🤭)

中学生になっても、漫画は描き続けてた。でも、漫画家という職業が将来の夢にまったくもってならなかった。

高校には普通科じゃなくて美術学科に行こうかなとも思った。でも母親から、絵で食べていける人は一握りだ、と言われてスンナリ諦めた。細かく正確に物事を描くということは自分には出来ないと思っていたので、絵描きになれる未来は見えなかった。

そうしているうちに中学の時の夢は、「30歳までバリバリ働いて、30になったら結婚して子供二人産んでママになる」といっていた。職業を限定せずに、「バリバリ働く」と抽象的になった。自分には才能もなにもないと思ってたが、仕事はこなせそうと根拠のない自信はあったし、ふつうに結婚して子供も産めると思ってた。

学校の催しで職業適性検査みたいな受けたのも覚えている。たしか、福祉とマスコミとウェブ系の仕事が向いてるって結果だった。

高校生の時、夢を語るのは恥ずかしかった。心の中ではどこか声優になりたい気持ちが残ってたけど、厳しい道だということを知って、わたしには無理だとわかった。でも、おんなじ演劇部の男の子が「自分は声優になりたいんだ」とみんなに言っていたのが輝かしくて羨ましかった。でも、たぶんなれないだろうなと思った。その子がキラリと光る才能があるとは思わなかった。それはわたしにも言えることだった。

声の仕事がしたいと思った。高校は放送部に入って、放送コンクールに出ようと思った。今までこの高校でそのコンクールに出た人がいなくて、部活の顧問(名ばかり)があたふたしてたけど、しっかりと調べてくれて、コンクールの出方を調べてもらった。でも、調べてもらった時には、兼部してた演劇部が忙しくてコンクールどっちでもいっかと思ってしまい、諦めてしまった。いま思い返しても出とけばよかったと思った。甲子園でアナウンスしてみたかったし、出来そうな予感もした。

受験の夏、わたしの人生の中で始めて憧れの人ができた。こんな人になりたいと心の底から思った。いつかこの人と仕事できればなと、夢を見た。

演劇部では、満足いくくらい没頭した。満足したのでそれ以上やろうとは思わなかった。でも、演劇の制限が気になって、映像にしたら可能性が広がるかもしれないと、映画を作る人にもなりたかった。大学受験ではそういうことができる学科も受験して受かったが、自分の興味関心が一時的なものかもしれないと怖くなり、ずっと興味があって偏差値ももう少し高い心理学部に入学することに決めた。

大学生になって、夢がなくなってしまった。何にもなれるきがしなくて「とある職業」という型にはまるのは無理だと思った。ブランドのデザイナーやプロデューサーになるのもいいかも、とおもっても専門の分野を学べてないから無理だと思った。
心理学はずっと面白くて大学時代は楽しかった。いつのまにか映画への情熱は消えて、わたしの選択はあってたと思った。

大学四年生の12月。就職先は決まっていた。とある場所で映画のプロデューサーの話を聞いた。その人のやっていること、影響力に感動して、会場で話をききながら号泣をした。あ、わたしのやりたかったこと、これだ。とおもった。初めてちゃんと、夢を持った瞬間だった。たくさんの人に、本当にたくさんの人に、創造性と感性でもって影響を与えていく。そうしてしあわせな人を増やしていく。これがわたしのやりたいことだと思った。このとき、悔しすぎて悔しすぎて1時間くらいずっと泣いていたのを覚えている。わたしはなにをやっていたんだと。やっぱり映画の道に進めばよかったとも思った。

社会人になって、配属された先はまったくもってクリエイティブなどころじゃなかった。頭より身体を使う、下積みといえば聞こえはいいが、主に雑用だった。でも、映像編集は教えてもらった。嬉しかった。

一年目の冬、人事からクリエイティブの人材募集があった。上司に相談しなくても手をあげていいと書かれていた。こっそり書いて送った。バレなきゃいいかなと思って情熱を込めた。こっそり応募したはずなのに、人事から上司に電話があり、バレた。でも、わたしは面談対象になっていた。上司からはちょっとした嫌味と励ましの声をかけられ、ドキドキしながら東京へ行って、面接を受けた。数日後、別の人が採用された通知が来た。上司からダメだったみたいやな、と笑顔で言われた。励ましたくて笑ったのかお前にはどうせ無理だったんだよという蔑みの笑みだったのかは、わからない。

2年目、わたしは異動した。まったくもって関心のない、むしろ行きたくなかった教育系の部署にいった。人間関係は良好だったが、とにかくやりたくない、自分にはふさわしくない、魂レベルで拒否したいくらいの仕事だった。

不思議なことに、自分は嫌にもかかわらず、周りからは、向いてると好評をもらってしまう。
年々、なぜか人気が出てしまい、このままではここで骨を埋めてしまう…と恐怖でいっぱいだった。

やりたいことと向いてることが不一致で苦しかった。

「教育もね、クリエイティブなんだよ」と言われたこともあった。それはそうだが、わたしがあの日に泣いて悔しいと思ったそのクリエイティブはこれじゃないことは、確信していた。

仕事を辞めて、クリエイティブ系の専門学校に通おうかと思った。わたしにはクリエイティブの"技術"がないからダメなんだと思った。でも、この歳で始めても無駄かもしれないと怖くなった。あと学費の目処が立たなかった。

悔しいから映画をたくさん見た。
忙しい合間を縫って週に3本映画を借りてみた。
なかなかの田舎に住んでいたのでTUTAYAの宅配レンタルを使っていた。

その中で、モアナと伝説の海の映画を見た。
村長の娘として期待されているモアナ。でも、海に選ばれた少女。心の疼きは、海にある。でも、村は海には行かせない。あなたの使命は村にあるの。海にはないの。と聞かされる。
ここに幸せがあるのよ、と言われても、違う歌が聞こえてしまう。

「モアナはわたしだ」

と思った。

周りから、あなたの使命はここにあるのよ、教育でがんばってほしい、と言われるけど、心の疼きはたしかに別のところにある。モアナの勇気が羨ましかった。モアナの決意が羨ましかった。モアナの行動力が羨ましかった。なんども、なんども歌を聴いて、わたしの心の疼きを忘れないようにした。
モアナは結局心の疼きに正直になり、海に出た。結果、それが村を助けたことになった。全てが丸く収まったのだ。だからわたしも、心の疼きにしたがって、いつか全部、全部が繋がってみんなが幸せになれる道になると信じた。

とまぁ、2時間の作品でわたしをこんなにも励ますなんて、やっぱり映画の作品の力はすごいと思った。

そうこうしているうちに1〜2年くらいで150本ほど映画を観てた。

その間、クリエイティブ人材募集がなんどかあった。全部手を挙げた。自信はなくても、心があることはアピールしたかった。でも、どれも1年目のときのような返事はなかった。

ひとつだけ。ひとつだけ課題があったものがあった。それを2週間ほどで作り上げ、提出した。それは物語を作り上げる仕事だった。いままで漫画も最終回まで描き上げたのもなんてなかったのに、この課題だけは52ページにもわたって文字を書き続けて提出した。結果は不採用だった。

その年の冬。たまたまクリエイティブの部署の長と挨拶するチャンスがあった。自分から突撃しに行った。一年目の時、面談してくださったこと。まだやる気があること。いつか仕事したいということ。なぜか、心が勝手に動いた。

5年目の春。わたしは異動した。

ずっと行きたかったクリエイティブな部署だった。憧れの、東京だ。

夢が叶ったと思った。けど、想像していたものとは少し違った。でも、影響力のありそうな、考えもしなかったけど、一番やりたいことに近かった、わたしにぴったりの部署だった。

東京に来て1年目。わたしは何もできなかった。全然自分はクリエイティブじゃなかった。

東京に来て2年目。少しずつ、少しずつ感性を発揮できた。いままでの人生を総動員して生きていた。尊敬しているお仕事相手の方に、才能あるよ、と三回も言われた。でも、なかなか信じれなかった。なぜならわたしよりもクリエイティブな人はごまんといるからだ。
そしてこの時から、高校の時憧れた人の仕事のお手伝いをすることにもなった。その点では、ここでもう夢が叶った。
それから、必死に仕事をした。今のままじゃダメだ。こんなんじゃダメだ。もっと仕事しないと。と。

そうして、わたしは、バーンアウトした。

東京きて3年目。やりたいことをやっているはずなのにプレッシャーがすごくて体調を崩した。朝が起きれなくなった。でも、ちゃんと仕事ができればそれでいいよ、と上司が言ってくれた。ありがたかった。休職しようかと思って相談したら、親身に聞いてくれて、もう少し、一緒に仕事しよう、と言ってくれた。それがなんか嬉しかった。

さて、結論。
わたしは、ある程度夢を叶えた。たくさん諦めて、たくさんチャレンジした。心の疼きを大切にして、したがった。自分のできる範囲を見定めながら、ここならできる、ここまでならできない、直感的にわかってたんだろうね。

夢を叶えたからといって、幸せなわけじゃない。だって、上には上がいるから。なんたって、たくさんの人を幸せにするにはまだまだ、ぜんぜんまだまだ未熟なんだ。

でもね、これから、夢を叶えたい人に伝えたい。

案外、夢は叶うと思う。だから、心の疼き、大切にしてほしい。
そして、できるなら、大きい志もってみてほしい。
あのね、夢叶えてもね、「夢叶ったのに、ぜんぜんじゃんか…」って思うから笑

今のわたしは、バーンアウトからなかなか回復できなくて。それでも、歩みを止めないのは、心の疼きがまだ止まらないから。

モアナで言うところの、海が呼んでるって感じ。

たぶんね、夢とかっていうは、自分の過去の傾向から読み解けたりするの。面白いよね。わたし、結局ずっと創造性のあることしたかったんだもん。表現、的な分野が、ずっと興味があった。あと、人の心。

わたしの人生、ぜんぶ。ぜーーーんぶ。大切だった。だから、たぶん、いまの辛い状況もきっと未来、大切な時間になってるんだろうな。

無駄なものは何1つない。無用の用。例えば、川に橋をかけるときに一人分の幅50センチだけかければいいかといえばみんな怖くて渡れない。2メートルの幅の橋をかければみんな安心して渡れる。一人分の幅50センチ以外の橋の部分は無駄?違うよね。大切。そんな感じ。
あと、人間万事塞翁が馬。なにがどう転ぶかわからない!教育系を2年半やっていたときは意味不明だったが、なぜかその事がいまの部署で評価が上がっていた。そしてたしかにその2年半で力をつけていた。たぶん1年目のあの面談のときに合格してたら力無さすぎて、精神は病んでたと思う。あと、わたし教育系してなかったら、伊沢さんに出会わなかったと思うから、その点は一番感謝しかない。伊沢さん、フォーエバーらぶ。

本当に、人生、色々あるよね。社会人になってからは、なんだか辛い事の方がたくさんあった気がするし、でも、その中でも味わい深い幸せもたくさんあったなぁ。
もっともっと、人生が豊かになったらいいなぁ。

たとえ夢を叶えても、幸せになんかなれないと感じたわたしは、こんな夢を作って自分を論破したいと思う。

「世界で一番幸せな女性になること」

ちなみに、わたしの幸せは周りの皆さんが幸せであることなのです。

いや〜〜、果てしなくでっかい夢を持っちまったぜ〜〜!!

たぶん、また、
アレになりたい。こうしたい。この人と仕事したい。これは無理かも。これがいい。やっぱダメ。いっぱい考えると思う。それでいい気がする。ただ、心の疼きを知るために、たくさんの物事に触れたい。好き、感動、悔しさ、これは本当にわたしの中で大切だった。行動力の源流。

だから、これからも、わたしは好きがガソリン、エネルギーで生きていきます!(休みつつね!)

さてさて。長文駄文、書いてしまったが、これもある意味衝動に任せたもの。
推敲というのが一番苦手なわたし。
この文、推敲、しません。笑

感情のまま書いた、この文を記録として残します。

ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

あなたも、幸せになりますように〜〜!

そしたら、わたしも幸せだ〜〜!!!タイトル論破するぞ〜〜!!論破〜〜!!!

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