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2023年造形表現工房企画展考

2023年造形表現工房企画展考

 本稿は、現在企画している2023年度造形表現工房【現代美術・ミクストメディア】の企画展示の骨子について記述するものである。(上記写真 2022年度 企画展示「接続と分断」展 会場ステートメント)


 造形表現工房とは金沢美術工芸大学内の自由履修科目という、専攻を越えたゼミである。学生の自主性に合わせて機会や指導が発生し、染色・漆など工芸分野から、アートプロジェクトやミクストメディアなどがある。筆者が所属する現代美術・ミクストメディアではアーティスト・イン・レジデンスや学生自主企画の企画展示を中心とした活動を主としている。


 今年の企画展示の出発点は、展覧会を再考することであった。〇〇再考という企画は多く存在し、新概念を打ち立てるようなステートメントを掲げていながら外枠だけということは往々にしてある。学生展示において、あるいはオールドスタイルと言える絵画・彫刻、今やインスタレーションの展覧会さえも、「美術」的な「展覧会」的なポーズだけを取りつつも、実態は文脈など関係ない陳列である場合は少なくない。今までの造形表現工房や、本学における学部専攻の展覧会を鑑みるとき、それはその時々の必然性や誠実さをたしかに持っていた。しかし、後述するような文脈と作品の連関により生まれるスタンダードの展覧会と言うにはあまりにも、非キュレーショナルな同質性や、ステートメントを掲げつつも、内容はただ作品を発表するための展覧会、というスタイルに帰着しがちであるのが学生展示の常とも言える。そういう意味で今回の企画は学生である自分たちが、今まで行ってきた展覧会に対しての自己言及的な反駁であり応答であると言うことができる。
 ではここにおいて展覧会とはなにか、ひいては私達(造形表現工房)はいかに展覧会が可能か?という問いが発生する。現代的な文脈で言う展覧会にはキュレーションが存在する。そこではキュレーターがストーリーや概念を起点とし、ある文脈を起こし、それに従って場を規定する/変容する可能性を持つ作家を招待する。現代のオーソドックスであるこの手法を取れば展覧会はたしかに可能になる。しかしここに私達の"難しさ"が発生する。
 造形表現工房に集まるメンバーはそれぞれの自主性により企画展示に参加する。一般の美術展が、ある共通性や政治性によって組み立てられるのに対して、私達は可変可能な場を利用するという目的においてのみ集合している。毎年がゼロベースであり、志向するマニュフェストは存在しない。同質性に担保されておらず、目指すべき地点も存在しない集団において一つのストーリーによる展覧会を構成することは常に難しさがつきまとうと言えるだろう。
 ストーリーなき展示のまとまらなさ・ゆるやかな繋がりを受け入れることを考えるとき、造形表現工房2022年度企画「接続と分断」展では個展形式のグループ展という、MOTアニュアルを参照にすることで切断されつつも隣接するという方法によりそれを可能にした。今年度の企画展において私達は展覧会概念の再考を提示している。オープンスタジオ形式、参加型ワークショップ、ドキュメンテーション…時間や媒体を統一することによって、コンセプトやメディウムではなく、メディアやフォーマットの側から一つの共通性をもって記述することが可能になるのではないかという討論がされた。 
 このフォーマットという観点を軸に、私達は写真に着目した。平面や立体、参加者それぞれの作品を写真化し、壁面・床面・天井に掲示する。写真化された作品たちは、その表象いかんにかかわらず併置が可能となる。そして、これら掲示された写真が複数の場所に立ち上がることは、絵画に端を発する美術の陳列に対しての自覚的なアプローチであり、掲示 / 陳列 / 展示という回路を通した上述の問いたてへの回答を試みている。それら( おそらく少なくない量の、大小が織り交ぜられた )写真は、誤解を恐れずに言うと、展覧会が可能でなく陳列にしか行き着かない、そのネガティブさを一旦引き受ける受けることを意味している。
 しかし、ここで、作品の写真を併置するという関連で参照したいテキストがある。アンドレ・マルローによる1947年の論考『東西美術論.1 空想美術館』である。本書では、19世紀中頃に複製技術が発達・普及し、本来併置が不可能な作品同士が図版上で比較可能になり、美学上の新たな視座、「様式の抽出」が獲得可能になったことを指摘している。「空想美術館」で語られる「様式の抽出」は、まさに私たちが試みるフォーマットをきっかけとしたププロジェクト ―鑑賞体験の一回性を打ち消し、抽出し、均等化したフォーマットによるイメージを併置する― を裏打ちする言葉である。
 この「空想美術館」の文脈を、三次元空間における展示として構成することを仮構してみよう。隣り合うはずのない作品・空間が、併置されることによってなにがしかの文脈や関係性を発生させる。ここにおける試みは前述の「様式の抽出」という意味で、単純な陳列という概念を跳ね除ける。また、冒頭のストーリーにより構成された展覧会とも違う意味合いを持つこととなるだろう。
 あらためて、今回の企画は学生である自分たちが今まで行ってきた展示に対しての自己言及的な反駁であり応答である。ここにおいて展覧会の立ち位置は、写真展でもなければ、パネル展のようなドキュメンテーションも意味しない。あくまで今まで私達が試みてきた一般的な美術作品の展覧会を、複製物或いは代替物とも言い換えられるものによって再記述することにある。マルローは複製技術が可能にした「様式の抽出」を獲得することにより、かつて現実の美術館・展覧会・陳列が持ち得なかった想像力を得たと語った。
 写真という身近であるが、美術の文脈で未だに多くの考察の余地を残すメディアを介すことで、作品・展示空間・記録…自明としている概念を再考する。私達はどこまで「展示」を手放せて、どこまで「展示」が可能だろうか。

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