自作: 児童小説「蝉の思い出」
ある夏の日のことです。女の子が一人で外へ虫取りにやってきました。麦藁帽に赤いリボンをつけ、水色のかわいらしいワンピースを着ているのですが、緑色の小さな虫かごと虫取り網を持っていて、お上品な身なりのわりにわんぱくな子のようでした。小走りであちらこちらを回り、もの珍しそうに木々の根っこのあいだの穴ぼこを見てみたり、近くの川の中を魚がいないかな、という風にのぞき込んだりしています。周りにいるたくさんの虫たちは、見知らぬかわいらしい女の子が来たのでもう大喜びで、羽をばたばたさせたりジージー鳴いたりして、女の子にアピールします。
「僕があの女の子と一緒に暮らすんだ。」
「私が捕まえられて、涼しくておしゃれなお部屋で快適に暮らすのよ。」
と、虫たちは口々に言っているのでしたが、女の子はそんな虫たちのことはつゆ知らず、辺りをひとしきり駆け回った後で、ふと何か目に留まったように一本の木の上を見つめはじめました。女の子の目には蝉が一匹だけ映っていました。ですが、
「蝉さんがいるけれど、私じゃあそこには手が届かないわ。」
と、すぐにあきらめて違うところに虫を探しに行こうとするので、その木にとまっていた蝉たちはしょんぼりとして、ふだんのジージー、ミンミンという大きな鳴き声が、一瞬とても小さくなりました。
「そうだ、僕たちがいるところは高すぎるんだよ。もっと近くへ行ってみないと。」
ある一匹の蝉がこうつぶやきました。女の子は高い木から離れ、家の裏側の草むらの方に走って行きました。そして、そのあとを一匹の蝉が静かにツーっと飛んでいくのでした。
「ここなら虫さんが手の届くところにたくさんいるわ。」
草むらで虫を探すことにしたようです。追いかけてきた蝉は疲れてしまい、一度少し離れた木にとまって作戦をねることにしました。
「僕はふだん木の上にいるものだけれど、ここじゃ捕まえてもらえない。だから草むらのところへ行った方がいいのだけれど、でも、草むらのところへとまっていても大丈夫だろうか。もし気づかれなかったら……。他の生き物に襲われてしまうかもしれない。」
「やあ、珍しい顔だね。」
通りがかった一匹の蟻が話しかけてきました。
「ひとりごとを聞かせてもらってたんだけどさ、草むらの中って意外といいもんだよ。君も行ってみたらいいよ。」
蝉は、ひとりごとを聞かれていたのが恥ずかしくなって、少し体を黒くしました。そして一瞬、のんきな蟻だなあと思いましたが、でもたしかに一度行ってみないとほんとのところは分からないな、と思い直し、
「そうかもしれない。ぼく、勇気を出して、大きく鳴いて草むらに行ってみるよ。」
こう言い残すと、一気に木の枝から飛び立ちました。蟻は返事をするひまもなく、あっけにとられて彼の飛んでいくのを見ていました。
「ミーン、ミン。ミーン、ミンミン。」
それはそれは見事な飛翔でした。大きな羽を羽ばたかせ、素晴らしい声で鳴きます。そして、女の子のすぐ近くのところまで出て行くと、バサッと音を立てて着地し、またミーン、ミンと鳴き始めました。女の子はバッタを捕まえようとしているところでしたが、蝉の鳴き声が近くに聞こえると、集中するのをやめて蝉を見に来ました。
「あれ、こんなところに蝉さんが止まるものなの。いつも木の上にいるものだから届かないのだけれど。捕まえていいかしら。」
こう言うと、そっと手で胴体をつかみ、小さな緑色の虫かごに入れて、そのまま元気に歌をうたいながら家へ帰っていきました。蝉はもう本当にうれしくなって、ミーン、ミンと喜びの声を上げました。女の子の家はとてもかわいらしくて、涼しくて心地よくって、その上毎日ふしぎな味のおいしいごはんをもらえました。蝉は女の子と一緒に暮らせてほんとうに幸せで、こんな日がいつまでも続けばいいなあ、とずっとそう思うのでした。しかし、三回ぐらい夜が来て、ある朝蝉が起きると、女の子はもう着替えを終えて、彼の入った緑色の虫かごを首にかけ、出かける準備を始めていました。蝉はびっくりしてしまいました。こんなに優しくしてくれているのに、僕をどこへ連れて行くのだろう……。
やがて、あの二人が出会った草むらまで来ると、女の子はそうっと虫かごを開けました。
「ごめんね。私、もう東京に帰らなきゃいけないんだ。とても遠いところなの。それに、あそこでは蝉さんはのんびり暮らせないでしょ。だから、ここでお別れよ。」
蝉はとても悲しくなって、大声で鳴きました。
「ミーン、ミーン。」
「一緒にいられてとても楽しかったわ。ありがとう。みんなのところへ戻ってね。」
彼はとてもさみしくて、離れるのが嫌で仕方ありませんでした。でも、女の子は帰らなくてはいけないし、それに、一緒に過ごした日々はきっとこれからも忘れず、思い出すたびに幸せな気持ちになるのだろうという確信もありました。そしてしばらくすると、覚悟を決め、空へ向かって力強く羽ばたきました。キラキラと涙を光らせて、さようなら、さようなら、といつまでも鳴きました。
「元気でね。」
女の子は蝉が飛んでいく姿を目で追い、蝉が見えなくなっても、飛んで行った空の方をずうっと、まぶしそうに見つめていました。
蝉はもといた木の上に戻りました。女の子との暮らしについて聞いてくる仲間たちに、彼女と過ごした日の素晴らしさ、例えば女の子の手の優しいこと、ふしぎなごはんをくれたこと、かわいい部屋の中について語りましたが、自分の思いは半分も彼らに伝わってはいないだろうと思いました。その記憶は、いつでも彼の頭の中に鮮明に思い出され、あつく燃えて揺らぐことのない、いつでも彼を幸せに導いてくれるような、そんな記憶でした。
木々からたくさんの蝉の鳴き声が聞えてきます。小川の小さな波は太陽の光を反射してキラキラと揺れ、あめんぼは森の池の上をすいすい泳いでいます。こんな自然に囲まれた、今では人気のなくなった一軒の茶色い家を、一匹の蝉が、木の葉の間から顔を出し、懐かしそうに見つめているのでした。
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