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【短編小説】荒地のチガヤ

 
泣いたあとの、乾いた目元が風にひりひり痛む。

目の前には、息をきらして自転車を漕ぐ母親の、汗で湿った背中。安っぽいTシャツが、母親の丸い背中に汗でへばりついている。さっきからずっと繰り返している言い訳を、母親はまだ口にする。

「お姉ちゃんは体が弱かったの。生まれて次の日には、風邪引いてた。だから、あなたには強くなって欲しかったのよ」

そうじゃない。母はわかっていたのだ。生まれたばかりの私を助産師から手渡された瞬間から。いや、もっと早く。エコー写真を見た瞬間から。妊娠した瞬間から。
あの子のようにはなれない、と。

「もうすぐだからね。本当に、綺麗だったんだから」

坂道を登るために、母親はひじを左右に張り、尻を浮かせて自転車をこぐ。

私は目の前に現れるであろう、夢みたいに綺麗な光景を想像して、ごくりと唾を飲む。散々泣き叫んだ喉が、糸で引っ張られたように痛む。でも、その光景を見られるのなら。これからの人生を支えてくれる、強烈な感動を味わえるのならと、錆びたサドルのへりを握りしめている。

「あった、ここ!」

自分でも驚いたように、母親は声をあげた。自転車の鈍いブレーキ音が鳴り響く。私はゆっくりと顔を上げる。目の前に広がる、雑草の生い茂った空き地。

「うわー、懐かしい。あなたを産んで以来だから、10年ぶり? 産婦人科も、そのままだねえ」

空き地の背後には、古ぼけたコンクリートの四角い建物が見える。壁には、「野原産婦人科」と書かれた色褪せた看板が張り付いていた。私は目を凝らして、目の前の光景を見つめる。

「ほら、すごいでしょう。生命力が」

母親は目の前の空き地に生い茂った種々の雑草を指差しながら、まるで自分を奮い立たせるように言う。

「みんな、強そうでしょう。頑丈な茎を持って、踏まれても踏まれても生えてくる、立派な雑草って感じでしょう」

そう言いながらも、母親は決して自転車を降りようとはしない。降りて、その雑草の中に飛び込もうとは、決してしない。

「あなたの妊婦検診の帰りにね、ここを通りかかったの。雑草たちが夕陽の中、黄金に輝いてたの。ナウシカみたいにさ。お母さん、感動しちゃって」

母親は、ナウシカに至るまで何度も繰り返した逸話を、初めて実物を目の前に語った。私はどうしていいか分からずに、黙っている。目の前にあるのは、どうみてもただの空き地で、そこに生えているのは、黄金の輝きなど一切持たない、ただの雑草たちだったからだ。

「夕焼けの時間に来ればよかったね」

母親は言い、自転車のブレーキを握り直していた。私は思わず、母親の背中を手のひらで押している。私の手は、かつて持っていた10歳のか弱いものではなく、すっかり成人した大きな手のひらに変わっている。

「いや、どこが黄金? ただの空き地やん」

ツッコミ風に言うことで、悲しみを紛らわせている。当時10歳、小学4年生の私にとって、受け入れ難いほどショックだったこの出来事を塗り替えるために、何度も母親の背中を叩いている。

母親は、振り向きもせず、ただ「本当に綺麗だったんだよお」とうわごとのように繰り返している。

「いや。綺麗とかいいから。所詮、雑草だから。まじ、雑草のように育って欲しいとか毒親でしかないんだが。普通に、踏まれないくらい綺麗な花に産んでもらったほうが、よっぽど良かったんだが?」

決して振り返らず、「本当にねえ」と繰り返す母親の汗で湿った背中を、何度も何度も、手のひらで叩き続けた。

滑稽な2人を笑うみたいに、子供の背丈以上に長く伸びた雑草たちが、悠々と風に揺れていた。


 
目を覚ますと、黄ばんだ天井が目に入った。前の住人のタバコと獣の匂いに満ちた部屋。前の住人が無断で飼っていたペットの尿で、壁のあちこちがボロボロに剥がれている。

18歳の時に上京して、まもなく10年。たどり着いた場所はここかと、鈍く痛む腹をかかえて布団の中でまるくなる。東京の、東の端。ワンルームの狭い部屋。まだ手のひらに、母親の汗ばんだ背中の感触が残っている。

子供の頃の夢を見るなんて、久しぶりだった。長く続く微熱にうなされて、緑色に濁った沼で溺れる夢ばかり見ていたのに。枕元にあるはずのスマートフォンを探して手がシーツの上を泳ぐ。自分の意思など全く通過せずに、指先はツイッターのアプリをタップしている。

トレンドに「#雑草レシピ」という文字が踊っているのを見て、反射的に脇腹を抑える。意識から消えていたはずの痛みが、その単語に刺激されてシクシクと音を立て始める。

「雑草レシピ? 10年遅いんだけど」

指先が素早くツイートする。数秒、画面を見つめるが「いいね」は一向につかない。10年近くフォローし続けてくれている「迷犬チーズ」さんだけが、3分後にようやく「いいね」してくれる。10代の頃はストーカー扱いしてブロックしかけたが、今では貴重な数少ないフォロワーだ。

「#雑草レシピ」のタグをクリックすると、「フキごはん」だの「ノビルのパスタ」だの「よもぎもち」だののレシピがツイートされていて、笑ってしまう。

「こんなの雑草のうちに入らんだろ。タンポポ直食いしてから出直してこい」とツイートする。今度は迷犬チーズさんも無反応だ。

奥歯に挟まって取れない葉の繊維が、不意に口の中に蘇る。舌先で取り除きたいが、寝起きでねばついた舌は喉に張り付いたように動かない。喉の奥にいつまでも引っかかるえぐみ。水を飲んでも流し込めない、頑固に食道に張り付く葉脈の感触。

確かにあれは、生命力だったなと、ふと思う。「あなたには強くなって欲しくて」と、その輝きを証明するためにわざわざ雑草畑まで私を連れて行った母親。
未だに私の腸に滞留しているであろう植物の種たち。笑顔で雑草を口いっぱいに頬張る私を見つめていた、カメラの丸いレンズ。

「久しくバズってないですね」

バズりとか、いつの時代の言葉だよ。迷犬チーズさんの引用リツイートに腹を立てながらも、私を気にかけてくれる唯一の人であると思うと、「いいね」ボタンを押さずにはいられない。

かつて自分が席巻したこともある「トレンド」のページをスライドし、「#雑草レシピ」に続く言葉に、ハッとして手を止めた。

「#雑草博士」「#草なぎ博士」「#草なぎ虎太郎」。

「草なぎこたろうとか、絶対あいつじゃん」

日本に2人は存在しないであろう、稀有なフルネーム。

タップして内容を見る限り、どうやら虎太郎がテレビに出て「食べられる雑草」を紹介したことで、バズったらしかった。画面をスライドしていくうち、「草なぎ虎太郎@雑草博士」のアカウントにたどり着く。アイコンがオナモミの写真になっていて、間違いなくあいつだと確信する。

「明成農業大学助教。植物生態学。発言は個人の見解であり所属する団体には一切関係ありません。Ph.D.」

「何、あいつ大学教授なんかやってんの」

ツイッターのプロフィールを見て、思わずベッドから身を起こしている。地元の同級生がどこそこで成功しているなどといった噂話に、今さら心乱されることはない。だけどあの虎太郎がと思うと、心はざわつく。友達だと思っていたのに。仲間だと思っていたのに。「助教」というプロフィールが真実かどうか確かめるために、虎太郎のツイートを遡る。

「今日も今日とて学生たちを連れてフィールドワーク」
「土曜日は社会人院生の授業、という名の交流会」
「リモートと対面のハイブリット授業が最適解って当の昔に結論出たはず。学生のレポート見れば一目瞭然」
「来週はスイス、ローザンヌにて国際植物生態学会のため、研究室不在です」
などという、教員らしき呟きが半分、残り半分は英語の論文らしきものをリツイートしていた。どうやら本当に大学の助教とやらになったのだと認めざるを得なかった。

本当なんだ。あいつ、本当に植物学者になったんだ。

スイスってどんなところだろう。かつてアニメで見た雪深い山脈の光景を思い浮かべてみるが、全く実感がわかない。寒そう、ってことしかわからない。

視界に、散らかったワンルームの部屋が目に入る。昨日の夜に食べ散らかした夕食の残骸。汁まで飲み干した豚骨味のカップラーメンの空き容器、チューハイの空き缶、カピカピに乾いた納豆ツナご飯の茶碗がテーブルに置きっぱなしになっている。

とうの昔にコードが断線し使い物にならないYouTube撮影用の丸いライト。スイスとは程遠い、殺伐とした部屋の光景を認めた途端、体のだるさが蘇る。ベッドサイドに転がっている体温計に手を伸ばし、額にかざす。37度5分。延々と続く微熱。腹痛。

「なんだよ。自分ばっか。私はこんなになったってのに」

微熱を認識した途端、鉛のような体の重さを感じて、再び枕に頭を落とす。

虎太郎のツイートを遡ろうと画面をスライドしていると、不意に画面にLINEの通知が現れた。「ラフレシア」の文字。普段なら絶対にタップしないのに、虎太郎のツイートを遡っていた手が反射的にタップしてしまっていた。既読がついてしまい、しくじったと舌打ちする。

「モルディブでの結婚式、飛行機の時間決まったから送るね。お母さんと隣の席にしておいたから」

「お金は本当に大丈夫だからね。こっちで持つからね」

いや、こっちじゃねえだろ。旦那の金だろ。お前は何一つ成し遂げてねえだろ。頭の中でそう突っ込みながら、ラフレシアからのLINEを閉じる。

返信などしてやるものか。なかなか妹からの返信が来ず、ヤキモキする姉の姿を想像して僅かに溜飲を下げる。が、すぐに馬鹿馬鹿しくなって、そんな風に感情を乱す姉の存在に再びイライラする。

四方を窓に囲まれ、汐留の街と東京湾を一望できるタワマンの14階で、外資系投資銀行勤務の夫に「妹から返信が来ないの」とおろつく姉を想像する。テーブルに並ぶワインだのスモーク肉だののディナー。キャンドルに照らされた、姉の造り物のような横顔。こっちは獣臭を放つカップラーメンとカピカピに乾いた納豆ツナご飯。スマートフォンのバックライトに照らされたニキビ跡の目立つ凡庸な顔。

LINEの画面を上にスワイプすると、虎太郎のツイート画面に戻る。アイコンのオナモミの丸いフォルムが視界に入った時、腹痛が和らぐのを感じて、私は目を閉じた。
 

 
「あれが妹だって」
「なーんだ。ブスじゃん」

今更傷つかない。こちとらあいつの妹をやるのは12年目だ。12年間、同じことを言われ続けたらさすがに慣れる。

教室の入り口から首を伸ばしてこちらを見ているであろう連中のことなど無視して、目の前の弁当に集中する。卵焼き、シャケ、ほうれん草のおひたし、ミニトマト、醤油がひたひたになった海苔ご飯。

今頃、一つ上の教室で姉も同じ弁当を食べているはずだ。どんな細かなことでも姉妹で一切の差をつけないと固く決意している母親だから、お弁当のおかずも全く一緒。米粒の数さえ均等にしているかもしれない。あの人工的な横顔がほうれん草のおひたしを口に運んでいる様を想像して、滑稽さに頬が上がる。

「ねえ、誰か来てるよ」

顔をあげる。クラスメイトの笹尾杏奈(ささおあんな)が、目の前に立っていた。

「木下(きのした)さんに用事なんじゃない?」

教室の入り口を指さす。教室の入り口には、肩をそびやかして「似てねえ」などと呟いている見知らぬ男子生徒たちがいる。何か対応しろとでも言うのだろうか。聞こえないふりをしている私が気に入らないらしい。仕方なく、

「用事っていうか」

言いながら教室の入り口に顔を向ける。「ひえ」「こっち見た」「ブス」、悲鳴のような声をあげて、男子生徒たちが逃げ去っていく。もう5月も半ばだと言うのに、いつまで続くのだろう。ため息をついて、弁当に向き直る。

「お姉さんが美人だと大変だね」

訳知り顔で言って、杏奈は私の前の席に腰を下ろす。ダイエットを頑張っているらしく、杏奈の昼はいつも野菜ジュース1本だ。とうに空になった容器をいつまでも啜っていて、ジュルジュルと耳障りな音を立てている。

ダイエットの甲斐あってガリガリに痩せているが、そのぶん顔が大きく見えて不恰好。本人は気づかずに棒みたいに痩せた腕を満足げにさすり、重たい頭をぐらぐら揺らしていた。

杏奈は私の弁当の中身を見て、失望したように目を逸らす。あんなに美しい姉のことだから、バケットだのアヒージョだのを食べていて欲しかったのだろう。姉も醤油の染みた海苔弁を食べていることなど、杏奈は認めたくないらしい。

「お姉さん、芸能事務所にスカウトされたって本当?」
「スカウトっていうか。渋谷を歩いてたら『どこかに所属してますか、ますよね』って言われただけ」

何度も繰り返したエピソードを言う。ミニトマトを箸でつまもうとしたが、滑って落ちる。黒い海苔の上に、赤いトマトが乗る。

「すっごーい」

杏奈は深いため息をつく。杏奈の息から、野菜ジュースの青臭い匂いがする。

「インスタとかやってほしい。一瞬でフォロワー5桁いくよ」

杏奈はその場にいない姉を思い浮かべているのか、熱っぽく宙を見ている。

私は無言のまま、ミニトマトを再び箸でつまむ。今度はうまく口まで運べたが、すでに腐り始めていたのかぐにゅっと口の中で崩れる。姉のミニトマトは新鮮だったのだろうか。

「ハーフじゃないって本当なの?」
「本当だよ。私の顔見たらわかるでしょう」

言われて、まるで許可を得たとでも言わんばかりに杏奈は私の顔をまじまじと見る。私の小さな一重瞼の目、丸い鼻、顔面に影を落とす大きな頬骨の上を、スキャニングするように視線がまとわりつく。

「お父さんとお母さんが違うとか?」

平気で失礼なことを聞いてくる杏奈を、気力を振り絞って睨みつける。眼球をめいいっぱいむき出しにする。とうの昔に飽きている。傷つくことも、怒ることも。だけど怒りのポーズだけは取ってみせる。そうしないと終わらないから。杏奈は私に睨まれても痛くも痒くもないとばかりに、顔を歪める。先が潰れたストローを前歯でかじっている。

「わ、百合(ゆり)さんだ!」

教室がざわついて、杏奈が首を大きく捻った。

「わ! ちょっと、お姉さん来てるよ」

杏奈の小さな瞳が一瞬輝き、すぐに色を失った。姉を見た女達は、みんな似通った反応をする。初めはその美しさに感動し、憧れる。だけど数秒もしないうちに、なんて世の中は不平等なのだろうと憤怒し、絶望する。私が12年間、繰り返してきたこと。どんなに野菜ジュース1本で頑張ったところで何も意味などないと、見せつけられる。

「お姉さん、あなたを探してるんじゃない」

杏奈は痛々しくも明るい声を出し、私の肩を叩く。その力が強くて苛つく。仕方なく教室の入り口を見る。召使いのように友達の女子生徒2人を従えて、姉の百合が立っていた。

「茅」

姉が私の名前を呼ぶ。その頬に、柔らかな親しみが浮かぶ。白い手をゆらゆらと振っている。

姉に困ったことがあればみんな駆け寄って世話をする。絵の具を忘れても、体操着を忘れても、購買部で購入してプレゼントしてくれる男子生徒が何人もいる。妹である私なんかに頼らなくても、取り巻きたちが何でも解決してくれるはずなのに。何の用で来たのだと、渋々腰を上げて姉の前に歩いていく。

家で見る、ジェラートピケの部屋着をまとった姉とはまた違う、制服を着こなした姉を見て、妹ながら一歩後ろに退きそうになる。圧倒的な差異。同じ生き物とは思えない。廊下の窓から差す午後の日差しを後光のように身にまとい、リカちゃん人形を等身大サイズにしたような女が立っている。

野球ボールみたいに小さな頭、生まれつき茶色がかったストレートのロングヘア、程よく前に突き出した胸、キュッとしまったウエスト、長い手足。顔は見ない。怖くなるから。

「何」

自分の薄汚れたシューズを見たまま、ぶっきらぼうに言う。

「お母さんからLINEがあって」

姉は自分だけ買ってもらったローズ色のスマートフォンを見せつけるようにポケットから取り出す。母親は、「茅ももう少し大きくなったら買ってあげるよ」と言ったが、どうだろうか。

姉にスマートフォンを買い与える際、母親はしきりに「防犯用に」「危ないから」「何かあった時に」と繰り返していた。私にはそんな心配が必要だろうか。だって雑草だから。誰も盗みなんかしない。ユリは違う。花屋の店先に並ぶ、観賞用の美しい花。お金を払って買う花。だから、盗まれる。みんなに嫌われる、どこにでも生えていてタダで手に入る雑草なんか、誰も盗らない。

「お母さん、PTAの集まりがあって帰りが遅くなるから、ご飯買って食べててって。私は予備校に行くから茅、一人になっちゃうけど、大丈夫?」

スマートフォンの画面を見ながら話す姉の顔を、そっと見上げてみる。まともに目を合わせることはできない。うつむいている姉なら、かろうじて見られる。それでも、見事な球体を描く瞼のライン、その下に山脈のようにずらりと並ぶ長いまつ毛の束、余計な膨らみをもたない頬、小さな鼻、意思を持たない人形のように薄い唇の見事な造形に、ぐらっと気が遠くなる。

「大丈夫だよ。だって私は誰にも狙われたりなんかしないから」

私がつっけんどんに言うと、

「どういうこと」

意味がわからない、というように姉が首を傾げる。さらりと、肩の上で髪が音を立てる。教室から様子を伺っていた男子生徒たちが、ため息をもらす。姉が首を傾げただけで、教室の気温が3度くらい上がった気がする。

「そのまんまだよ。だって私は雑草だから。誰にも襲われたりしない。家に一人でいたって平気」
「茅」

嗜めるように私の名前を呼ぶ姉の声は優しい。それが余計に腹立たしくて、私は顔をあげて姉を睨みつける。が、目があった瞬間、気圧されそうになる。くっきりとした二重瞼に、長いまつ毛。大きな丸い瞳。茶色と青色が混じったような、澄んだ瞳の色。ぐるぐると渦巻く、深い海。「ハーフじゃないって本当?」。幼い頃から浴びせられ続けた問い。その度に不安げに揺れていた、愛らしい瞳。

「何、その目」

思わず、姉の目に向かって言っている。子供の頃から散々、お化けみたいだの人形みたいだの怖いだの気持ち悪いだのと言って、姉をいじめたのは私の方だ。姉はそのたびに目にいっぱい涙を溜めて、自分の存在を問うように鏡を見つめていた。だけどいくらいじめたって、姉には数え切れないほどの味方がいるのだからイーブンになど決してならない。

「何、その態度」

姉の背後に立っていた取り巻きが見かねたように私に向かって言う。姉とは似ても似つかない、ブス2人。姉を見た後だからそう思うのかもしれない。よく見れば2人とも健気に毛先まで綺麗な茶色に染めて、たっぷりマスカラを塗りアイラインを引き目を大きく見せようと努力している。が、それらをひとつもせずに2人を遥かに凌駕している姉の前では、どんなメイクも滑稽な子供のお絵かきでしかない。

「なるべく急いで帰るからね」
「別に帰ってこなくていよ」

姉は驚いた様子で、大きな目をさらに大きく見開く。澄んだ目はどこまでも奥深く、いくら覗き込んでも底が見えない沼のように不気味だった。吸い込まれそうで怖くて、私は姉を押しのけて廊下を歩きだす。

幼い頃から食が細く、痩せている姉は私に押されて簡単にぐらつく。倒れそうになった姉を喜び勇んで取り巻きたちが支える。廊下を歩いていた男の教師までもが姉に駆け寄っていく。教室からは非難のささやきが上がり、波のようなざわめきが廊下まで届く。私はわざと強くリノリウムの床を踏みつけて、キュッキュッと音を鳴らす。クラスメイト達のささやきなど、かき消してやる。

弱っちい姉。あんなに重たい花をつけて、簡単に折れてしまうユリの細っこい茎。踏みつけても踏みつけても生えてくる雑草の頑丈な茎とは比べ物にならない。

行く当てもなく廊下をズンズンと歩く。手のひらに汗が滲んでくる。大きな汗じみをつけた母親の背中。乾いた涙で痛む頬を通り過ぎていく、風の感触。ちっとも黄金になど輝いていなかった、雑草畑。

「どうして私にだけこんな名前つけたの」と泣きわめく幼い私を連れ出してくれた、母親。気まずそうに、自転車のブレーキを何度も握り直していた、母親の手。
 
行く当てもなくやみくもに歩いているうち、渡り廊下へ辿り着いた。

渡り廊下の床はコンクリートになっていて、いくら踏みつけても足が痛むだけで、音が鳴らなかった。新校舎と旧校舎をつなぐ渡り廊下は、中庭に面していて壁がない。トタンの屋根からは昨日降った雨の水滴が垂れて、コンクリートの床を濡らしていた。

不意に、コンクリートのすみにへばりつくように雑草が寄りかかっているのが見えた。どこにでもあるような緑色の葉を持ち、実なのか花なのかもわからない、茶色いぶつぶつした粒をつけている。大人しく中庭にいれば良いのに、コンクリートの渡り廊下にまで進出しているのか。図々しさが気に障って、私はわざと雑草を踏みつけてやる。

ふと顔を上げると、同じ雑草が中庭の中程まで転々と生えている。雑草のくせに、しっかり繁殖して子孫を増やしているのかと思うと、それさえも苛つく。私はシューズが土で汚れてしまうのも構わずに、力いっぱいその雑草を踏みつけながら、中庭の奥へ歩いていった。

中庭の隅には校舎を囲むように桜の木が植えられ、とうに花を落として緑色に変わっていた。花壇にはパンジーやチューリップといった類の春の花が植えられていたが、昨日降った雨のせいか花びらは閉じている。桜の木や花壇のない中庭の中央には、シロツメクサやその他、名前のわからない雑草が絨毯のように生えていた。

私は渡り廊下のコンクリートにまで進出していた生意気な雑草を集中的に狙い、踏みつけながら進んだ。昨日の雨が葉っぱに残っていたのか、シューズも靴下も濡れて気持ち悪いが、それ以上に爽快感があった。

振り返ってみると、踏みつけてきた雑草はまるでゴムでも内蔵されているかのように、元気に起き上がっている。私が踏んだことなど、なかったかのように。私の胸に、むかむかした気持ちが湧き上がる。

「きも」
言いながら、ちょうど自分のシューズの下にある雑草を、ぐりぐりと踵で踏みつけてやる。

「ほら、立ち上がれよ! 雑草だろ!」

ゆっくりと、シューズを持ち上げてみる。踏みつけられた雑草は、みじめに潰れたまま動かなかった。死んだみたい。私は笑おうとしたが、実際には頬が引き攣れて痛んだだけだった。

「踏んでいただいて、ありがとうございます」

突然、背後から声がして顔をあげた。

誰もいないと思っていた中庭に、見覚えのない男子生徒が立っていた。

メガネをかけているが、指紋だらけで白く曇ってしまい、顔が判別できない。私と同じくらいの身長。髪は床屋にずっと行っていないのかもうもうと生い茂り、寝癖であちこちはねている。ぶかぶかの黒い学ランは土がついて、白っぽく汚れていた。

男子生徒は私からすっと顔を背けると、雑草の前にしゃがみ込み、膝の上にノートを置いてメモを取り始めた。

「2週間目。ハルジオン、雀の帷子、カタバミ、西洋タンポポ。やはり関西タンポポは難しいか」

自分から話しかけてきたくせに、男子生徒は私の存在など見えなくなったように無視して、膝の上のノートに熱心にメモを取っている。

「踏んでいただいてって、何。きもいんだけど」

薄気味の悪い男子生徒のことなど無視しても良かったのだが、先程の言葉が気になり、問いかけていた。しかし、男子生徒は聞こえないように、

「やはり自殖には勝てないか。しかしまだ虫のいる季節。ここはアブにがんばってもらわなくては」

などと呟き、ものすごい毛量の頭を前後に振っている。ポケットから定規を取り出すと、目の前に生えた雑草の長さを測り、ノートに記録する。

「ふむ。関西タンポポ、10センチ」
「あのさ!」

私が大きな声を出してようやく、男子生徒はこちらを見た。が、相変わらずメガネが白く曇っているので、見えているのかすら疑わしい。しかし男子生徒は立ち上がり、私の方に向き直った。立ち上がると、寝癖もアンテナのように揺れた。

「何、さっきの。踏んでいただいて、って。きもいんだけど」

無視されたのが悔しくて、同じ言葉をもう一度言う。が、言いながらハッとする。男子生徒の胸に、茶色い影が見えて驚く。足が無数に生えた、丸い毛虫のような生き物が学ランの胸ポケットの上に3匹、ひっついている。

「ちょっと! 虫ついてるよ!」

私は叫び、後ろによろめく。私が指差しているのに気付き、男子生徒は胸元をゆっくりとみて、

「ああ。これはオナモミです」

平然と言い、虫のうちの1匹を手につかむと、私に向かって放り投げてきた。

「きゃあ!」

私は叫ぶ。中庭だから、取り囲まれた校舎の壁に叫び声が反響し、思った以上に大きな音となってこだました。私はスカートの裾についた茶色い虫を、叩き落とそうと身を躍らせる。男子生徒は満足そうに髪を揺すって頷きながら、

「さすがD2型。素晴らしいひっつきだ」

そう言って笑みを浮かべている。

「よく見てください。それは虫ではなく、オナモミという植物の実ですよ」
「実?」
「レッドリストにも載っている絶滅危惧種です。河原で取ってきた貴重なものです。大事にしてください」

言われて、恐る恐る、スカートの裾にひっついたそれを指先で取ってみる。茶色い、俵型の実。トゲトゲが無数についているが、刺さるほど鋭くはない。このトゲがスカートの布地に引っかかっていたのか。

「運搬、よろしくお願いします」

男子生徒は、白く曇ったメガネにさらにべったりと指紋をつけるように、指先で持ち上げながら笑う。

「何なの、さっきから。意味わかんなくてきもいんだけど」
「そうそう。さっきの件ね。あなた、オオバコを踏んでくれてたでしょう」

男子生徒はシューズを履いたままの私の足元を指さす。足元には、潰れた雑草がある。これがオオバコなのだろうか。

「靴の裏」

男子生徒は、私のシューズを指差している。

「え?」

私は足を持ち上げて、シューズの裏側を見てみた。

「わっ!」

思わず叫んでいる。シューズが泥で汚れているのは当然だが、その泥の上に、びっしりと黄色い粒がついていた。虫でも踏み潰してしまったのかと、並んだ黄色い粒の気味悪さに鳥肌が立つ。男子生徒は、まだ声変わりしていない甲高い声で、滔々と語り始めた。

「さっき、踏んでくれたでしょう、オオバコ。オオバコの種には、ゼリー状の物質がついてるんです。昨日の雨で膨らんだゼリーが、あなたの靴の裏についたんですよ。その靴であなたが家まで帰ったら、ここのオオバコの種子が運ばれていくんです。あなたはオオバコが遠くに種を飛ばすのを手伝ってくれる、運搬者です」

私は唖然として、オナモミの実を指先で摘んだまま、立ち尽くしている。

「だから踏んでくれてありがとうって言ったんです」

男子生徒は言い、私の足元を覗き込むようにしゃがみ込んだ。私はスカートの中を覗かれるのかと思って、咄嗟に「何よ!」と叫んで後ろに飛び退く。

しかし男子生徒は私のスカートになど見向きもせずに、私に無惨に潰されたオオバコの残骸に見入っている。私が上から見下ろす形になって、初めてメガネのツルの奥に、男子生徒の目が見えた。食い入るようにオオバコを見つめ、私のことなど視界の隅にさえ捉えていなかった。

男子生徒は私に潰されたオオバコの葉を優しく指先で持ち上げながら、独り言のようにつぶやく。

「雑草は踏まれても起き上がるって言いますが、踏まれても、タダじゃ起きない、が正解ですね」
「そうなの?」
「利用するんです」

男子生徒はオオバコを見たまま、話し続ける。

「利用」
「踏まれてもタダじゃ起きない。利用して、種を運ばせるんです」
「へえ。意外としたたかなんだね」

私の答えに、男子生徒は顔をあげた。その頬には、微かな喜びが見えた気がした。白く曇ったメガネの奥の瞳は見えなかったが、そのことがかえって私を安心させた。吸い込まれそうな目が、どこにもないこと。

指先がちくりと痛み、オナモミの存在を思い出す。自然に、指先が胸元に向かっている。私も男子生徒と同じように、制服の胸ポケットにオナモミの実を貼り付けた。それを見た男子生徒が、メガネを指で持ち上げながら、「ほう」と息を吐いた。

「あなた、チガヤって言うんですか」

男子生徒の視線が、私の胸ポケットの名札に注がれている。

「お、読めるんだ」

私は口を歪めて笑う。植物に詳しそうだから、きっとこの「茅(ちがや)」という名前の意味にも、すぐ気がつくだろう。

「良い名前ですね。素晴らしい」

男子生徒はメガネがずり落ちてこないように指先で支えながら、何度も頷く。アンテナのような寝癖も一緒に揺れる。

「いい名前のわけないじゃん。雑草の名前だよ。しかも、綺麗でもなんでもない、ただのイネみたいな雑草。よりによってなんでって思うよ。だって、お姉ちゃんは」

「お姉ちゃんは、ユリなのに」と言いかけてやめる。初めて会った見知らぬ男子生徒にまで、自分のコンプレックスを晒しそうになっていて、慌てて飲み込む。

「千の矛(ほこ)ですよ。こんなかっこいい名前、他にないです」

男子生徒はお世辞でもなさそうに、しきりに頷きながら言う。
「ほこって何」
「武器ですよ。両刃の。長い棒の先につけて戦います」

男子生徒はわざわざ地面に落ちている細長い木の棒を拾い上げ、振り回してみせる。ただの雑草だと思っていた自分の名前に、「千の武器」などという猛々しい意味があるなんて知らなかった。

「きみににるう、草と見しより我がしめしい」

突然、男子生徒が声を張り上げた。

「野山の浅茅(あさじ)、人なかりそねー」

まるで応援団のように腰を前に突き出し、中庭から校舎の壁に向かって叫ぶ。

「え、何、きも」
「万葉集です。読み人知らず、だったかな。そのくらい、茅は昔から民衆にとって親しい草でした。ご心配なく」

ご心配って、と、突っ込みながらも、男子生徒が慰めてくれているのに心を打たれている自分がいた。

「でもさ」

反射的に、そう言っている。昔からそうだった。何か、嬉しい出来事があればすぐに、確かめずにはいられない。そんなはずないと、自分から否定せずにはいられない。

「でも、ユリには敵わないでしょう」
「ユリ? なぜユリですか」
「知らないの? 有名でしょ、私の姉。高等部のアイドル、木下百合なんだよ」

男子生徒はキョトンとして、考えるときのくせなのかしきりにメガネのレンズを指先で持ち上げている。その度にべったりと指紋がレンズにつく。

「ユリですか。ユリは華やかに見えて実は花びら六枚のうち三枚はがくなんですよ」
「がく」

理科の授業で習った気がするその名称。花びらを支えている葉っぱみたいなやつだった気がする。

「あんな大ぶりな花でも、そうやって偽らないと虫を呼べないんです。それに、意外と逞しくて、雑草化してるユリもあります。タカサゴユリとか、その辺の野っぱらにも生えてますよ。タカサゴユリは凄まじい繁殖力で、1回につき1,000個も種を飛ばして在来種を駆逐しています」

雑草だって。思いがけない情報に、胸がすっと軽くなる。

なんだ。ユリも雑草じゃん。花屋で1本500円で売られてすまし顔をしてるけど、その辺の野っぱらにも生えてる雑草だって。もっと知りたい。雑草のことも、ユリのことも。私は久しぶりに胸がワクワクする感覚を味わいながら、男子生徒に話しかけている。

「あんた、面白いね。雑草博士じゃん」

男子生徒の、オナモミを2つつけた胸ポケットのネームプレートを、目を凝らして見つめる。

「名前それ、なんて読むの? もしかして、あのスマップの人と同じ?」

そう言った瞬間、男子生徒はピタッと動きを止めた。

「草、なぎ、とらたろう?」
「虎太郎(こたろう)です」
「すごい名前だね。そっちも強そうじゃん」

てっきり笑ってくれるかと思ったが、虎太郎はなぜかそっぽを向いてしまった。

「ここからアカツメクサがどう巻き返すか」

再び雑草畑の方にしゃがみ込んで、ノートを取り始める。数年前、公園で裸になっていたというそのアイドルの苗字と、虎という強そうな動物がくっついた奇妙な名前を、私は密かに頭に刻み込んだ。


 
「今日の授業はDVDを視聴覚室で観ます。隣のクラスと合同で行いますので、移動してください」

理科教師のシバちゃんに言われて、教科書やノートを抱えてのろのろと立ち上がる。廊下を歩き出すと、杏奈に肩を叩かれた。

「ちょっと、木下さん。足跡ついてるよ」

言われて振り返ると、私の歩いた後にうっすらと茶色い跡が残っている。中庭で虎太郎と話したのは昨日のことで、中庭から出るときにはコンクリートに足の裏を擦り付けて泥を落としたつもりだったが、まだしつこく残っていたか。

オオバコの生命力に満足し、私はニヤリと笑う。こうやって廊下にオオバコの種子を撒き散らし、それが他の人のシューズの底につき、周り周って世界中に拡がればいいと思う。みんなの家の庭に、オオバコが大繁殖すればいい。

「え、何笑ってんの」

杏奈は細い腕を口元に当てて顔を顰める。

「あと、胸ポケットに何か入れてる? なんか乳首みたいになってるよ」

胸ポケットには、オナモミを入れていた。なんと言われても、取り出すつもりはない。

「ほら、あの子だよ」
「全然、似てないじゃん」
「本当に、百合様の妹なの?」

さわさわと、廊下に声が響く。これだから隣のクラスと合同だとか、学年集会だとかは嫌だった。中学に入学してまもなく2ヶ月。クラスメイトはさすがに見慣れてきて、今更何も言わないが、少しでも違う生徒と関わると、新たな波が立つ。そうなると、見慣れているはずのクラスメイトまで、調子に乗って改めて私の顔をジロジロ見直したりするのだ。

「かわいそうなレベルなんだけど」
「整形するしかない」

私は「かわいそう」と言われた顔面を、しっかりと前を向いて固定したまま、「乳首みたい」と言われた胸ポケットに手を当てる。制服の分厚い布地の下では、ちくちくまではわからないが、丸いオナモミの実のフォルムを感じることはできる。

私の名前を「かっこいい名前」と言ってくれて、和歌まで詠んでくれた虎太郎。あいつも今頃、胸ポケットにオナモミをつけているのかと思うと、かさついた気持ちが和らいだ。

視聴覚室について、できるだけ顔を見られないようにと後ろの席に座る。友達がいないのか、杏奈は私の隣の席に座ってきた。

「ほら、食ってる」
「嘘だろ」
「キッツ」

教室でも、似たような笑い声が沸いていた。しかしどうやらその対象は、私ではないらしい。教室の中を目で探すと、隣のクラスの男子生徒たちが肩を寄せ合って笑っている。その視線の先には、あいつがいた。

真面目よろしく一番前の席に陣取り、相変わらず寝癖だらけのボサボサ髪をしている。草なぎ虎太郎。私と杏奈は窓際の隅の席に座っていたから、体を傾けると虎太郎の横顔が見えた。ギョッとする。虎太郎は、口にピンク色の花を咥えていた。ウケ狙いでやっているのか、本気でやっているのかわからない。

「草なぎ、隣のクラスだったんだ」

思わず、そう口にしている。

「誰? 知り合い?」

杏奈が眉を顰める。

「ちょっと、やばくないあの人。口に咥えてるの、花じゃない」

私は思わず、笑ってしまっている。からかいの笑みじゃない。あいつらしいと、勇気づけられるような気持ちだった。

虎太郎はピンク色の、生垣としてよく植えられているツツジの花を口に咥えていた。まるでタバコでも吸うように、ちゅうちゅうと吸っている。確かに、小学生の頃「甘い味がする」と話題になって、自分も吸った記憶があった。小学生がやるのならまだ可愛げがあるが、中学生にもなって、しかもふざけているのではなく大真面目に吸っているのだから、不気味な光景ですらある。

「はい、これどうぞ」

虎太郎の座る机の上に、ぽんと何かが放り投げられた。見るからに騒がしそうな男子生徒3人組が、虎太郎の机を取り囲んでいる。虎太郎の机の上には、青々とした草が乗っていた。ギザギザした形の葉に、ふわふわした黄色い花。タンポポだった。

「食べろよ」
「腹減ってんだろ」

男子生徒たちは笑いながら言っているが、声変わり途中で奇妙に掠れた声の底には、意地悪ではすまされない残虐さが感じられた。

「うわ、あいつ、いじめられてるじゃん」

私が小声でささやくと、隣の杏奈は、

「そりゃそうだよ。花の蜜なんか吸ってんだもん。きもいよ」

仕方ないとばかりにため息を吐く。朝ごはんを抜いているせいか、杏奈の口からは便の臭いがした。ぷっ、と、虎太郎は口に咥えていたツツジを吐き出し、机の上のタンポポに目を落とした。

「ほう。関東タンポポじゃないですか。どこで見つけましたか? 学内の分布は全て把握しているはずなんですが」

虎太郎は言うと、嬉しそうにタンポポの花を手に取る。取り囲んでいる男子生徒たちに向かって、黄色い花の付け根を指さす。

「ほら、ここを見てください。ソウホウヘンが閉じてるでしょう。これで日本タンポポだとわかります。かつ、関西タンポポはここの突起がないんですよね。これはちょっとした突起がついてるので関東タンポポです。きみ、珍しいものを見つけましたね」

つらつらと語った虎太郎に、取り囲んだ男子生徒たちは唖然としている。居心地悪そうにポケットに手を入れたり、出したりしながら、

「はあ? 何言ってるかわかんねえ」
「きめえ」
「ってかさ、食えよ。草、好きなんだろ」

動じない虎太郎に苛立ったように、体を揺すりながら迫っている。

「良いんですか?」

虎太郎は嬉しそうに声を裏返した。

「じゃ、遠慮なく」
「ヒッ」

遠巻きに見ていた女の子たちから、悲鳴が上がる。虎太郎は、躊躇うことなくタンポポの葉っぱを口に入れ、モグモグと咀嚼した。

「うわ、本当に食った」
「キッツ」

草を投げた男子生徒たちでさえも、驚いて身を引いている。虎太郎はモグモグとタンポポの葉を咀嚼しながら、喋り出す。

「タンポポは江戸時代から食用として親しまれてきました。ヨーロッパでは今でも普通に食用です。クレソンとかと同じですよ。花も食べられるんですが、これは貴重な関東タンポポなので保管させてください」

そう言い、机に残った花を手に取り、胸ポケットに刺した。胸ポケットには、相変わらずオナモミが二つ、ブローチのようについていた。

「うわー、本当に食べたよ」
「信じられない」

先ほどまで私を「かわいそう」と笑っていた女の子たちも、虎太郎に気を取られたのか、全くこちらを見ていない。虎太郎に助けてもらったような気持ちになり、私は自分の胸ポケットに入っているオナモミを上から手で押さえた。

「さー、授業始めますよ」

理科教師のシバちゃんが入ってきて、虎太郎を取り囲んでいた男子生徒たちは諦めた様子で席に戻っていった。虎太郎はまだモグモグと口を動かしていた。


 
DVDの内容は、植物の分類についてだった。種を作る種子植物と、種子を作らないシダ植物とコケ植物。「めしべ」だの「おしべ」だの「裸子植物」だの「タネ」だのという言葉が視聴覚室に響くたびに、先程の意地悪そうな男子生徒たちが肩をひそめて笑っている。前の席に堂々と陣取っている虎太郎は、硬く腕を組み、真剣な表情で画面に見入っていた。

そのうち、「単子葉類」の例として、よりによってユリの花が画面に大きく映し出された。自慢げに咲き誇る、白くてピンクがかった、大きいのにどこか可憐な花。教室の隅々から、今度は女の子たちの密やかな笑い声が上がる。

「これらは植物が持つDNAにより決まっていて、変わることはありません。子孫もその形態を持ちます。」
はっきりと、断じるようにアナウンスされる。

だったらどうしてと、奥歯を噛みしめずにはいられない。うちの両親は、2人とも凡庸な見た目だった。父親は、線が細く髪もサラサラで、顔ももしかしたら整っていたかもしれない。だが、頭は禿げてしまったし頬がこけて骸骨みたいになってしまっているから、もはや美醜などわからない。母親も、出産を機に太ってしまったらしく、昔は美人だったと自称しているがその面影はない。

もしかしたら両親には、あの美人の姉を産む素養があったのかもしれない。だったらどうしてと、ぶった斬られる茎の維管束の映像を見ながら、机を叩かずにはいられない。どうして姉にだけ、美しいユリの遺伝子が引き継がれ、私には醜い雑草の遺伝子が引き継がれたのだ。美しい遺伝子だけが受け継がれれば良かったのに。

子供の頃から密かに繰り返した妄想が、頭に蘇る。私と姉が反対だったら。私が美しく生まれて、姉が醜く生まれていたら。どんなに楽しい毎日が待っていただろう。そしてそれを、姉はすまし顔で実際に享受しているのかと思うと、途方もなくやるせない気持ちになるのだ。

「先生、全然似てないキョウダイは、どうして生まれるのですか?」

DVDが終わり、部屋が明るくなった途端、誰かが手をあげて尋ねた。理科教師のシバちゃんが、一瞬、視界のはしに私を捉えたのがわかる。が、慌てて目を逸らしている。

薄汚れた白衣を着た、ドラックストアのレジにいそうなおばさん。そんなシバちゃんにまで、馬鹿にされている。私はきっと睨み返すが、シバちゃんはしらばっくれて教室全体を見回しながら話す。

「世の中には、隔世遺伝というものがあります。親ではなく、祖父母から受け継がれることがありますから。両親のどちらにも似ていないとしたら、おじいちゃんに似ていたなんてこともあるんですよ」

わざとらしく笑いを交えながら、でも口調はしどろもどろだ。

教師だってただの人間だ。4月の、入学式での屈辱を思い出す。「新入生、入場」のアナウンスとともに体育館に足を踏み入れた途端、教師たちが私を探しあて、見つけ、失望し、嘲笑する視線を嫌というほど感じた。あの木下百合の妹が入学してくる、しかも妹は姉と違って厳しい中学受験を突破したと言うのだから、どんな才色兼備が入ってくるのかと期待したのだろう。入学初日に教師たちから失望され、「期待はずれ」の烙印を押される気持ちなど、誰にも理解してもらえない。

「じゃあ、木下家はおばあちゃんがブサイクなんだ」
「そっちが引き継がれるなんてかわいそう」

明らかに教室中に聞こえる声で誰かがそう言ったのに、シバちゃんは注意してくれない。シバちゃんは「優しい」とされているが、実際には面倒なことを避けているだけだ。男子の第一ボタンも、女子のスカートの丈も、注意しないで見ないふりをする。それをみんなは「優しい」というが、ただの怠惰だ。

教室を包む「ひひ」「ふふ」という小さな笑い声。それを割るように、突然大きな声がした。

「先生、質問があるのですが」

まっすぐ手を上げているのは、虎太郎だった。白いチョークを手に黒板に向かっていたシバちゃんが、一瞬、不自然な間を置いてから振り返った。普段と変わらない温厚な笑みを浮かべているのに、どこか緊張感がある。

「先ほど、種子植物は全て受粉により種子を残すとおっしゃっていましたが、雑草の場合、状況に合わせて自殖と他殖を使い分けることができます。訂正いただけますでしょうか」
「訂正?」

静かにそう問い返したシバちゃん。笑ってはいるが、頬が引き攣っている。

「はい。たとえば、ハコベ、オオイヌノフグリ、ツユクサは虫がくるうちは他殖をしていますが、虫が来なくなると花を閉じて自殖に切り替えます。その辺りも説明いただいた方がいいのではないでしょうか」

虎太郎はメガネを指先で持ち上げながら、早口で言う。自分の知識をひけらかしたいと言うより、教師が生徒に誤った知識を植え付けてしまうことを恐れて、訂正を促すような口調だった。

シバちゃんは笑みを浮かべたまま黙っている。この面倒な生徒を、この面倒な問いをどうしてくれようかと逡巡している。

その時、タイミングよく授業終了を知らせるチャイムが鳴った。シバちゃんはほっとしたようにチョークを置き、

「一旦、終わりにしましょうか。気になることがある人は、各自で調べておいてください」

まだ何か言いかけた虎太郎を遮って、

「はい、起立!」

と、普段穏やかなシバちゃんからは聞いたこともないような大きな声を出した。


 
理科の授業が終わり、昼休みになった。いつも通り弁当を広げようとしたが、友達のいない杏奈が野菜ジュース片手にあちこちの女子グループの間をうろうろしてはあしらわれ、すがるような目で私を見ているのに気がつき、席を立つ。みっともなく痩せて正しい自己認識ができない杏奈にまで、卸しやすい女だと思われているのが癪に触った。

廊下をズンズン歩きながら、妹じゃなかったら、と考える。あの木下百合と比較すれば、確かに私の見た目は劣っている。だけど、木下百合の妹じゃなかったら、普通の見た目をした普通の女の子として扱われたはずだ。取り立てて美人というわけでもないが、指を差されて笑われるほどのブスでもない。杏奈みたいな変人にまで舐められるような惨めな女になんか、ならずに済んだのに。

気がつくと、渡り廊下に来ていた。囲まれていた壁がなくなり、風が通り抜けて気持ちが晴れる。中庭の木々や雑草から放出された酸素に包まれて、呼吸がしやすくなる。

思わず中庭に向かって身を乗り出し、あいつの姿を探している。視聴覚室で、私を助けるように視線を掻っ攫い、シバちゃんに質問をしてくれた虎太郎。無意識にであったとしても、嬉しかった。この中学に入学して初めて、味方を見つけた気がした。

不意に、「んふふ」と、聞いたことのない生温かい声が聞こえて、顔を上げた。斜め上に見える2階の廊下を、誰かが歩いている。

高い頭身。揺れる長い髪。発光するような白い腕。姉だった。驚いたのは、その頬が見たこともないようなピンク色に上気していることだった。さっきの「んふふ」という声を出したのが、まさかあの人形のような姉である可能性を考えて、驚いて立ちすくむ。姉の隣には、これまた頭身の高い男が歩いていた。

あの人、知ってる。なぜか全身の血が逆流して、胸がざわめく。かつて私も、憧れたことのある人だった。中等部のアイドル、3年A組、北原栄一郎先輩。

彼を知らない女の子はこの学園にはいない。父親は政治家で、母親は元女優。小等部の頃からバスケットボール部のエースで、成績も優秀。身長も高くて、文化祭ではすらっとしたスタイルと長い手足を存分に生かしたK−POPダンスまで披露して、女子生徒たちを失神させていた。私も密かに見に行き、体育館の後ろのネットにしがみつくようにして見ていたが、腰をくねらせながら踊る北原先輩に、自然と体が熱くなった。

彼の周囲にだけ風が吹いているように、涼やかで整った顔。サラサラした髪をかき上げながら隣を歩く姉を見下ろし、白い歯を見せて笑っている。

欲深い女。私は唾を飲み込む。人形のように光のない瞳をして、何にも欲しくないって顔をしていながら、ちゃっかり一番良いものを選ぶ女。一体どれだけのものを手にすれば気が済むのだろう。親族の寵愛、近所の賞賛、学校での崇拝、友人たちからの溢れんばかりの親愛、後輩たちからの敬愛。それでもまだ足りないというのか。

姉は隣を歩く北原先輩を、見たこともないような潤んだ目で見上げている。光を受け止めないはずの水面が、北原先輩という太陽のような男を前に、きらきらと輝いている。姉を見下ろす北原先輩の目が優しく、そしてどこか淫靡で、口も利いたこともないくせに、私は勝手に失望し、傷ついて目を背ける。

シューズを履いたまま、気がついたら中庭に降り立っていた。あいつを探して、中庭の奥へと進んでいく。

「やはりやられたか。西洋タンポポには勝てん」

この前見た時と全く同じ姿勢で、膝の上にノートを置き、雑草畑を覗き込んでいる虎太郎がいた。視聴覚室でタンポポを食べさせられても、シバちゃんにあしらわれても、まるで動じた様子などない。

「ねえ、何してるの」

私が声をかけると、虎太郎は顔をあげた。相変わらず指紋で汚れたメガネのレンズを持ち上げて、私が誰なのか判別しようとしている。

「ああ。チガヤさんですか。タンポポの観察ですよ」
「タンポポ」

虎太郎は嬉しそうに言ったが、公園でも道端でも庭でもどこにでも生えているタンポポなんかに、何をどう観察する必要があるのかわからず、私の口からは平坦な声しか出ない。

「これは、西洋タンポポです。実は日本に生息しているタンポポのほとんどがこの西洋タンポポに駆逐されているんです。こちらが関東タンポポ」

虎太郎は言って、さっきの視聴覚室で葉っぱを食べさせられたタンポポの、今度は花の方を、胸ポケットから取り出す。折られてから時間が経っているせいか、すでに萎れていた。

「同じにしか見えないけど」
「全く違いますよ!」

さっき視聴覚室で、いじめっ子たちにしていた説明を虎太郎は早口で繰り返した。ソウホウヘンが閉じているとか、開いているとか。西洋タンポポは一年中咲くが日本タンポポは春にしか咲かない、しかしそっちの方が実は効率がいい、日本タンポポの方が賢い、二十度以下でしか発芽しない、あえてロゼットとなり冬を越すとか、どうとか。だけど私にしてみれば西洋タンポポだろうが関東タンポポだろうが同じにしか見えないのだから、どっちでもいい。虎太郎の説明も右耳から左耳へ抜けていく。ただ一つ、引っかかる言葉があった。

「西洋タンポポは自殖できるから強い。日本タンポポは受粉しないと繁殖できないし、あまり近い遺伝子だと正常な種が作れない。だから西洋タンポポに凌駕されている」

虎太郎がそう言ったとき、私は口を挟んだ。

「そういえば、さっきの理科の時間も言ってたよね。その、自殖って一体なんなの」

虎太郎はしゃがんでいた体をついに立ち上がらせる。立ち上がっても、私と同じくらいの身長だから迫力はない。でもそれが、どこか愛おしくさえ感じて、笑ってしまう。虎太郎はそんな私には気づかずに、息をするのももどかしそうに話す。

「一人で受粉できるんです。通常、種子植物は、おしべの持つ花粉をめしべに受粉させなければ種子を作ることができません。自殖できる雑草でも、もちろん、初めは受粉を狙います。ただ、暑くなってくると花粉を媒介してくれる虫がいなくなってしまうんです。そうなった時には、花を閉じて、自ら自殖に切り替える。受粉なしで、自らの遺伝子を残せるんです。この西洋タンポポなんかは、すごいですよ。おしべの中に花粉が存在しないんです。全て、自分のクローンだけで増殖します。いわば、処女生殖です」

「すごい」

私は感心して、息をついた。「ショジョ」という、先程の意地悪な男子生徒たちなら狂喜するであろう言葉を、何の躊躇いもなく、あくまで学術用語として虎太郎が発したことにも驚いていたが、それ以上に、たった1人でも子孫を残せると言う話に、私は感動していた。

さっきの姉と北原先輩を思い出す。お互いを見つめ合う、熱っぽい瞳。爛れた2人。K−POPダンスを切れ味の良い刃物のように踊っていた時とは、別人のようにだらしない笑みを浮かべた北原先輩。みっともない。あんなことしなくたって、1人で生きていけるんだ。私みたいに。

「1人で生殖できるなんてかっこいい。男なんかいらないってことでしょ」
「そう、です」

一瞬ためらってからも、虎太郎は大きく頷く。

「日本の在来種である総称、日本タンポポは自殖ができないんです。だから西洋タンポポに駆逐されてしまう。僕はこの花壇で日本タンポポを繁殖する計画でした」

花壇、と言って虎太郎が見下ろした場所は、どう見てもただの雑草畑だった。言われなければ気が付かず、踏まれてしまいそうだ。

「日本タンポポだけではありません。僕は雑草の栽培を試みています」
「栽培?」

素っ頓狂な声が出た。

「雑草を栽培するの? 信じられない」

足元に生い茂る、この前、私が踏みつけたオオバコやカタバミやシロツメクサや虎太郎が言うところの「西洋タンポポ」を見下ろす。こんなのを栽培しようなんて、どうかしている。

「雑草って、邪魔だから雑草って呼ばれてるんでしょ。栽培なんかしなくたって、どこにでも勝手に生えてくるじゃん。どうしてわざわざ栽培なんかする必要があるの」
「とんでもない。雑草ほど栽培が難しいものはないですよ」

白く曇ったメガネのうち、指紋がつかず透明さを保っている部分が少しだけあって、そこから虎太郎の目が見えた。意外とぱっちりした、どんぐり型の大きな目だった。虎太郎は大きな目を輝かせて話す。

「雑草は頭がいいから、人間がコントロールするのが難しいんです。思い通りになんか絶対に芽吹いてくれないですよ」
「へえ。雑草って、頭いいんだ」

虎太郎の答えに満足する。雑草の名前を持つ自分まで、褒められたような気になる。

「ユリは? ユリは、頭が良い?」

そう尋ねずにはいられない。虎太郎はノートを持ったまま腕を組み、

「ユリのような観賞用の植物は、策略を持たずとも人間に栽培してもらえるし、何よりあの大きな花で虫を引き寄せますからね。頭が良いとか悪いとか、関係ない世界に生きてるんですよ」

虎太郎の回答に、まるで姉のようじゃないかと唖然とする。姉は小等部の入学試験に合格し、この学園に入った。1年後に受けた私は落ちたから、てっきり姉は頭が良いんだと思い込んでいた。だけど実際は違っていた。入学後の姉の成績は、大して良くなかった。要するに、顔で選ばれただけだったのだ。美人であれば、成績なんか関係なく、どんな関門だってパスできる。そのことに気がつき、どれだけ私が人生に失望したか。

「そりゃあ、綺麗な花には虫も寄ってくるよね」

私は肩を落とす。巨大なミツバチが、ユリの花びらの中に入っていく姿を想像する。縞模様のお尻いっぱいに花粉をつけて、飛び去っていく。姉という甘い蜜に吸い寄せられて、ぶんぶん羽音を鳴らして飛び回る虫たち。やかましい足音を鳴らして、購買部に走る男子たち。

「結局、見た目が全てなんだよ。花も、人間も」

私は大きくため息をつく。すると、

「笑止」

と、虎太郎は口の端を持ち上げて笑った。

「植物は、なんのために美しい花を咲かせるか知ってますか。虫を誘導するためですよ。要するに、繁殖さえできれば別に美しさなんてどうだっていいんです」

虎太郎はしゃがみ込み、雑草畑に生えているオオイヌノフグリを指さす。小さな紫色の花が、点々と咲いている。

「これ、知ってますか」
「何よ。オオイヌノフグリでしょ。変な名前だから、私だって知ってる」

言いながら、顔が赤くなるのを感じる。こんな恥ずかしい名前を言わせるなんて、セクハラじゃないか。

「別名、ベロニカ。誰かの顔に似てませんか」
「誰か?」

虎太郎に言われて、目を凝らす。紫色の花は小さく、目を凝らさなければ細部が見えない。

「わからないよ」
「ゴルゴダの丘に連行されるキリストの顔を拭いた女性の名前がベロニカです。ベロニカのハンカチには、キリストの顔が浮かび上がったという。似てませんか? この花。キリストに」

まさかの回答に唖然とする。言われてみればそう見えなくもないが、かなり飛躍している気もする。虎太郎は気にせず続ける。

「このキリストの顔にも見える花びらのラインが、虫にこっちに蜜があるよ、ということを示してるんです。ホトケノザなんかもすごいですよ」

虎太郎は今度はクリスマスツリーみたいな形に紫色の細長い花が刺さった雑草を指さす。

「下の花びらのラインは虫に着地場所を示し、上のラインは奥への道を示しています。空港の滑走路みたいでしょ。ヘリポートか」
「へえ」

私は退屈し始めて、足元のオオイヌノフグリを眺めながら空返事をする。美人じゃなくてもいい、可愛くなくても、あなたは素敵な雑草の名前を持っているのだから、それでいいと、ただそれだけを言って欲しかっただけなのに。そんなことを期待していた私の思惑になどまるで至らないように、虎太郎はとんでもないことを言い出す。

「あのー、ちなみに、陰毛って、もう生えてますか?」
「インモウ⁉️ 何言ってんの馬鹿じゃないの」

再び顔が熱くなる。虎太郎はちっとも慌てずに、平然と言う。

「あれも、これに近い気がするんですよね。三角形で。生えそろうと、矢印に似てませんか? ここに入れる場所があるよと異性に示してるんじゃないかと。これは仮説ですが」

虎太郎は恥ずかしがるどころか、学ランのズボンの上で両手で三角形のマークを作ったり、コマネチのような動きをしながら懸命に説明している。

「ばか、信じられない」

私は後ずさって虎太郎から離れる。

「すみません。話が逸れました。言いたいことは、目的は何か、ってことなんです。あなたは随分、ユリの花のことを気にしていられるようだけど」

私の話なんかまともに聞いていないかと思ったのに、虎太郎は案外まじめに言う。

「植物の目的は繁殖一択。それを果たすための戦略を張り巡らせているだけなんです」

虎太郎が不意に、まっすぐ私を見る。指紋だらけのメガネの奥で、大きな目が私を捉えている。

「あなたの目的って何ですか? それを果たすために、美しさってそんなに重要ですか?」

「おーい」

不意に、校舎の窓から声が聞こえて、顔をあげる。どこの窓かと首をぐるりと回して探す。1階の給食室あたりの廊下の窓に、黒い頭が3つ見える。黒い学ランの男たちが、こちらを指差して笑っている。うわ、タンポポを食べるような男と一緒にされたと、全身が羞恥で熱くなる。

「シンゴー! おーい、シンゴー!」

男子生徒たちは、そう叫びながらこちらに手を振っている。シンゴって誰だと一瞬思ったが、あのアイドルの事件のことをからかっているのだと気が付く。

しかし虎太郎は、私との会話に集中しているのか、一瞥もしない。まだまっすぐ私を見て、答えを待っている。

「あなたの目的って何ですか。ユリのことなんか気にせずに、それを果たせばいいじゃないですか」
「目的?」

いじめっ子たちのことなど無視して、私の逡巡に付き合ってくれる虎太郎の真摯さに、心を打たれる。無視されて面白くなかったのか、男子生徒たちは「バーカ」と言いながら去っていく。

私は改めて考える。足元に咲くシロツメクサ、それを囲むクローバーを軽くシューズで蹴りながら、初めて考える。何に私は傷ついてきたのか。何を手に入れたら、私は満足するのか。

「ちやほや、かな」
「ちやほや?」

初めて聞く言葉のように、虎太郎は声を裏返した。私は苦笑しながら言う。

「あんたからしたら信じられないよね。でも、とりあえず真っ先に浮かんだのはそれ。姉よりも、ユリよりもちやほやされたい」

可愛いって言われたい。大事にされたい。褒められたい。これって、要するにちやほやってことだよねと、1人うなずく。欲を言えば、かっこいい北原先輩みたいな男の人とも付き合いたいし、忘れ物をしたらプレゼントして欲しいし、近所の人に「今日もかわいいね」と感心されたいし、クラスの人気者になりたいし、廊下を歩くだけで憧れの視線に取り囲まれたいし、先生たちからもえこひいきされたい。どんな洋服を着ても似合う体型になりたいし、サラサラの長い髪を風になびかせたいし、鏡を見るたびに自己肯定感でいっぱいになりたい。

でも、そこまでじゃなくてもいい。ただ、普通に認めて欲しい。私という存在を。ただ、愛して欲しいのだと、虎太郎に向かって言うことで、初めて自分の求めていたものを知る。

「では、戦いの場を変えましょう」

虎太郎はメガネを持ち上げながら言った。

「生える場所を選ぶのは、雑草の基本戦略です。雑草は、自分より背の高い植物のあるところには生えません。よく、コンクリートの隙間に生えている雑草を「すごい生命力」などと言ったりしますが、実際は弱いからこそあんなところに生えているのですよ。空き地みたいなところでは、背の高い雑草が繁殖してしまって、背の低い雑草に光が当たらなくなるんです。だからコンクリートのあるところまで逃げるしかない」

「そうなんだ」

虎太郎はいつになく真剣な表情で言う。

「雑草は強いんじゃなくて弱いんですよ。弱いからこそ、戦略を張り巡らせているんです」

「私にとって他の戦場って、どこだろう」
「どこでもいいですよ。ライバルのいないところを選ぶんです」
「ライバルかあ」

家にも、近所にも、学校にも、私と姉の差は知れ渡っている。今更そこで戦ったってどうにもならない。だけど、子供だから1人で遠くに引っ越すこともできない。住む場所は変えられない。家にいながら、他の世界に行く方法はなんだろう。

「ネットとか」

何となくの思いつきを口にしてみる。虎太郎は頷く。

「いいと思います。僕も雑草観察のブログを書いてますが、大学の先生がコメントくれたりして世界が広がります」
「ブログねえ」

考えてはみたものの、姉への嫉妬や呪詛を書き並べるだけのつまらないブログしか書けそうになかった。共感してくれる人はいても、姉に勝つ、つまり姉を超える人気者になるという目標は達成できそうにない。

「最近、話題のYouTubeとかどうかな」
「YouTubeですか。僕はあまり知らない」
「そうだよねえ」

当時、YouTubeはまだ黎明期だった。ヒカキンらが立ち上げたUUUMにスカウトされ、所属することが華だった時代だ。子供のユーチューバーはほとんど存在せず、動画はカメラで撮り、パソコンを使って編集するものと思われていた。今のように、子供が自らスマホで動画を撮ってスマホで編集をしてスマホでアップロードすることなど、考えられなかった。

「だからこそいいかもね。クラスの連中にも知られずにできる」

私は自分に言い聞かせるように言う。失敗したら恥ずかしいから、クラスの連中には知られたくなかった。

「何をするんですか。その、YouTubeとやらで」
虎太郎の問いかけに、首をひねる。
「なんだろう。メントスコーラとか」

当時はまだ、今のようにYouTubeにあらゆる可能性がある時代ではなかった。ボイスパーカッションのような、一芸に秀でた人とか、頭から水を被ったり落とし穴に落ちるようなドッキリとか、店のものを全部買ったり100万円を1日で使い切るようなお金をかけた企画とか、突飛なアイディアと財力がなければできないと思われていた。

今のように猫も杓子もYouTube、愚痴を語るだけの動画とかバックの中身だとかモーニングルーティンだとか、他人が顔洗って瞑想してプロテイン飲んで出勤するだけの動画が流行るなんて考えられない時代だった。

「なんか企画考えて、やってみる」

何も思いついていなかったのに、私の胸はワクワクしていた。この学校とも、家とも近所とも違う、遥かに広い世界が存在していて、そこに行ける可能性があることに気づけただけでも、大きな発見だった。期待に胸を膨らませている私を横目に、虎太郎は言った。

「なぜ雑草の栽培が難しいのか、お伝えするのを忘れていましたね」
「何」

もう雑草のことなどどうでもよく、カメラは家にあったか、リビングのパソコンで動画編集ができるかとあれこれ考えていた私は、おざなりに言う。

「なかなか芽が出ないんですよ。多分あなたのYouTubeもそうなると思います」
「なんでそんなこと言うの。やる気なくなるじゃん」

せっかくワクワクしていた気持ちに水を差されて、私は不機嫌に言う。

「そうではなく。園芸用の花の種や、野菜の種は一斉に発芽しますが、雑草の種は違います。長い間眠る種と、短期間で発芽する種の2種類があるんです。何故か。攪乱(かくらん)に備えるためです。なぜ、草刈りをすると雑草が余計に増えるか知っていますか? それまで眠っていた第2陣の種たちが、土を掘り起こされて太陽の光を浴び、次は自分たちの番だと出てくるからです。他にも、根っこに成長点を持つ雑草がそこから再び生えてくる、と言うものもありますが」

私が口を挟もうとすると、虎太郎は、まだ言い足りないのか手で制して、話を続ける。

「それに、種はタイムマシーンでもあります。僕たちの寿命なんかよりも遥かに長く、時を超えられるんです。シベリアの凍土に埋まっていた3万2千年前のナデシコが発芽したこともあるんですよ」

虎太郎は得意そうに語り、

「ここにも種が入ってます」

と、自分の胸ポケットにひっついている2つのオナモミを自慢げに指さした。私が話に飽きて足踏みしているのに気がつくと、虎太郎は早口で付け足した。

「とにかく。たくさん種を撒いてください。すぐに芽が出るものもあれば、出ないものもあるでしょう。でもそれも戦略です」

私は黙って頷く。YouTubeのことも、ネットのこともほとんどわかっていないけれど、虎太郎の言うことが正しいであろうことは、何となく想像がつく。やってみるしかない。無数の種を撒くのだ。
 

 
「サンモリッツから日帰りでラーゴ・ビアンコへ。ベルニナ線オスピツィア駅から、となりのアルピ・グルム駅まで散策。」

そんなつぶやきと共に掲載された1枚の写真に、私は息を呑む。背後にそびえ立つ、あちこちに雪を残した荘厳な山々。日本の山とは異なる、ゴツゴツと尖った岩が連なっている。下には、青白く光る湖。そして広がる、緑色の高原。「世界の絶景百選」とかに出てきそうな、パソコンのスクリーンセイバーに出てきそうな美しい景色が、虎太郎のツイッターにアップされていた。

「イワカガミダマシ」
「西洋キンバイソウ」
「フリューリングスクロクス」

花の名前、と思われるカタカナとともに載せられた、紫色、黄色、白と色とりどりの可憐な花々。「イワカガミダマシ」なんて日本って感じの名前だが、スイスの高山植物なのだろうか。

校庭で私が踏みつけていた、カタバミだのオオバコだのシロツメクサだの西洋タンポポだのとは遥か遠い世界に、虎太郎は本当に飛び立っていったのだと思い知らされる。

スマートフォンの画面の背後には、電気もつけずに夕暮れを迎えた私の部屋が見える。かたや大学の先生になりスイスなんかに行っちゃって、私は東京の東の端の街で1日中ベッドに寝転がり、スマートフォンを見るかトイレに行くかカップラーメンを食べるか以外のことは何もしていない。

風呂には3日入っていない。さすがに全身のあちこちがむず痒くなり、かきむしって赤い血がシーツに点々とついている。

「責任取ってくださいよ、先生」

画面に映る美しいスイスの景色に向かって言ってみる。ずっと言葉を発していなかったので、舌が喉に張り付いてうまく動かない。口からは異様な臭いもする。

私がこんなふうになったのは、あいつのせいじゃない。わかっていても、言わずにはいられない。
 

 
「種をまく。たくさんの」

虎太郎の言葉の通り、私はYouTubeであらゆる可能性を試した。まずは当時の流行に乗っ取り、コーラにメントスを入れてみたり、お菓子の家の家を作ってみたり、巨大かき氷を頭痛になりながら完食したりした。

まだ中学生でお金を使えないので、アイディア勝負だ。しかし、そんなつまらない動画では当然、最数回数は増えない。自分で見直した分だけカウンターが上がり、時々気持ちの悪いおじさんが「中学の制服着てやってよ」とコメントするくらいだった。再生回数が伸びないことを虎太郎に相談すると、彼は言った。

「なぜ日本タンポポが群生するか知ってますか? バラけて咲いた方が遺伝子を遠くに飛ばせるのに。頭の悪いアブにでも運んでもらえるように近くに咲くんです。アブは、花の種別を区別できない。だから黄色い花なら何でもいいと、タンポポの花粉をつけてオニタビラコやカタバミのところへ行ってしまう。だからタンポポは群生するのです。頭の悪いアブに見つけてもらうように。頭の悪いアブにでも届くような、もっと頭の悪い企画を立ててください」

試行錯誤の末、私が辿り着いたのは、原点に戻ることだった。

「女子中学生が雑草食べてみた」

数日前に頭の悪い人がくれたコメントに従い、中学の制服を着て撮影をした。スカート姿で野原にしゃがみ込み、大きく開けた口にタンポポを入れる写真をサムネイルにした。誰がどう見ても、頭の悪そうな動画だった。

それが伸びた。フォロワーの多い、当時はまだこの言葉はメジャーではなかったが、いわゆる「インフルエンサー」が、「中学生がこんなことしてるけどYouTube大丈夫か?」とツイートしてくれた。そこから火がつき、再生回数はその動画だけ飛び抜けて1万回に達した。タンポポの葉は苦く、えぐみがあってちっとも美味しくなかったが、こんなことでうまくいくなら、と私は味を占めた。

そこからは簡単だった。

「女子中学生が雑草食べくらべ!」「煮込んだら美味しくなるの? 雑草鍋を作ってみた」「一週間、雑草だけ食べてみた!」「雑草の種類、目隠しで当てられるまで食べ続ける!」「雑草を薬草にして塗ってみた」など、インパクト重視で体を張った雑草に関する様々な企画を実行した。
 
再生回数が落ちた時には、「あの有名作家も実践! 痔になったのでアソコにドクダミを詰めてみた!」などという、過激な企画もやった。まるで私の動画がきっかけでさえあったかのように、世間でも一気にユーチューブブームが起き、次々と新しいユーチューバーが参入し、スターになっていった。

私は視聴者に忘れられないようにと、中学校の勉強や部活はそっちのけで、YouTubeの世界にのめり込んだ。動画撮影、編集、アップロード、コメントにいいねをつける、コメントに返信する、ツイッターでファンと交流する、インスタグラムではちょっと可愛い一面を見せるなど、やることは山ほどあって、1日も休みなどなかった。でもそれで幸せだった。

結果として返ってきたからだ。気がつくと、中学3年生になる頃にはチャンネル登録者数が5,000人に達していた。

5,000人。

すごい数字だった。いくら姉が美人で有名だと言ったって、せいぜい近所と中学校の人間に知れているくらいだ。どんなに多く見積もっても1,000人ちょい。それがどうだ。私は5,000人だ。しかも、全国どころか世界にもファンがいる。美人のくせにネットに顔出しもせず小さな世界に閉じこもっている姉のことなど、あっという間に凌駕してしまった。私は中学3年生にして、人生のピークを迎えた。
 

 
スイスの眩い山脈や高山植物の写真をスライドしながら、最後に虎太郎に会った日のことを思い出している。

虎太郎が、さらに成績のいい別の男子校に進学すると知ったのは、中学の卒業式の日だった。

「祝・中学卒業! 中庭で四葉のクローバー見つけるまで卒業できまてん!」という企画を撮影する予定だった私は、中庭に向かった。虎太郎の栽培していた雑草の「花壇」を踏まないように注意しながら、三脚を立て、デジタルカメラを固定する。

「すっかり板につきましたね」

虎太郎の声がして、顔をあげる。中学2年生の頃までは、虎太郎にアイディアをもらうためにしょっちゅう来ていたが、3年生になってからは、虎太郎が受験勉強で忙しくなったのか、中庭にいない日が増えて、私の足も自然に遠のいていた。

久しぶりに見た虎太郎がすっかり別人のように見えて、私はぱちぱちと瞬きする。身長がグッと伸び、体が一回り大きくなっていた。初めて会ったときは私より背が低く、小学生のように見えたのに。一瞬で、抜かれている。

泥だらけだったはずの学ランが、卒業式だからとクリーニングに出したのか、綺麗になっている。もさもさに生い茂っていたはずの頭も、床屋に行ったのかすっきりカットされていて、寂しくさえあった。

胸にブローチのようにへばりつく2個のオナモミだけが、虎太郎らしさを残している。

「久しぶり。元気にしてた?」

私は虎太郎の顔を見て、もっと驚く。指紋で曇っていたはずのメガネが、綺麗に拭き取られて透明になっていた。大きな目がメガネの下からこっちを見ていて、私は急に照れ臭くなって、目を逸らしてしまう。

「S高校に受かったって本当? すごいね。超進学校じゃん。東大とか行くの?」

恥ずかしくて虎太郎の顔が見られず、私は足元の雑草を踏みつけながら問いかける。秋に来たときはまだ元気だったのに、冬の寒さのせいかみんなペッタリと地面に張り付いて、ロゼット状態になっていた。虎太郎は淡々と答える。

「どこの大学かはさておき。理学部に行って植物生態学の研究をしたいとは思っています」
「へえ」

私は虎太郎の方は見ずに、逃げるようにデジタルカメラを覗き込む。見慣れた中庭の雑草畑が映る。全てはここから始まったのだ。

カメラを動かして、クローバー畑を映す。春のような元気はなく、シロツメ草も咲いていない。寒さにじっと耐えた小さな葉しか出ていない。四葉のクローバーを探すのは大変そうだと、気が重くなる。

それでも、やらなければならない。「無理そう、大変そう」な企画だからこそ、視聴者は期待して見る。その期待を裏切らない内容だったときに初めて、再生回数は伸びる。サムネイルだけ期待させてクリックさせることも可能だが、結果的には失敗する。無料で見ているくせに、視聴者というものは恐ろしくシビアだ。子供騙しは通用しない。内容が伴わないコンテンツなどすぐに暴かれる。この3年で散々思い知った。

「楽しいですか」

不意に尋ねられて、私は顔をあげた。虎太郎は雑草畑には近寄らず、一歩下がったところに立ったままこちらを見ている。

「おかげさまで。夢が叶ったよ。今、めっちゃちやほやされてる」
「そうですか。なら良かったです」

虎太郎はうなずく。以前ならアンテナのように揺れていた寝癖は、もうない。

「あんたは? あんたはいいの」

私の問いかけに、虎太郎はメガネの下の目をパチクリさせる。

不意に、校舎の窓から楽しそうな笑い声が聞こえる。首を曲げて見上げると、学ランを着た黒い塊たちが、肩を組んで体をぶつけ合って写真を撮っている。野太い笑い声が中庭にまで反響する。一瞬、男子生徒の1人がチラリとこちらを見たが、すぐに目を逸らす。もう虎太郎のことを「シンゴー」などと揶揄う者はいない。きっと虎太郎が相手にしないので、張り合いがないのだろう。だけどその代わり、ああやって肩を組んでくれる人もいない。虎太郎が友達と歩いている姿など、この3年間で一度も目にしたことはなかった。

「いつも、1人で、いいの?」

思わず、そう言ってしまっている。

「虎太郎は、すっごく植物に詳しいのに、そのことを私以外、誰にも知られてないなんて、それでいいの? もっとちやほやされたいって思わないの?」
「僕はサボテンタイプですから」

虎太郎はあっさりと答える。最後の日まで植物の話か、と呆れながらも、YouTubeの企画になるかもしれないと、頷きながら話を聞く。虎太郎は以前より低くなった声で、滔々と語る。

「イギリスの植物学者、ジョン・フィリップグライムは植物の戦略を3つに分類しました。1つ目はCタイプ、これは他の植物と真っ向から競争するタイプ。2つ目はSタイプ。僕はここに当てはまります。サボテンに代表される、ストレス耐性タイプです。サボテンの戦略は「蓄積」です。どうして彼らが、水もない砂漠の中で生きていけるか知ってますか? 彼らはあの丸々と太った茎の中に、水を蓄積してるのですよ。僕にとってこの中学での3年間はまさにそれでした。ひたすら知識を蓄積する」

虎太郎は自分を納得させるように、うなずく。私はひとまわり大きくなった虎太郎の全身を眺める。厳しい進学校の入学試験を突破した頭脳。みんなが遊び、他人をいじめて楽しんでいる間にも、中庭にこもって学び続けた植物の知識。

今は馬鹿にされていても、いつかこの膨大な知識で、他を圧倒する成果を残すのではないか。不意にそんなことが予感されて、なぜか鳥肌が立つ。虎太郎はメガネを注意深く、指紋がつかないように指先だけで持ち上げて、言う。

「最後はR型。撹乱(かくらん)依存型です。人間によって巻き起こされる撹乱、除草だとか土地の開発だとか、そう言ったものを利用して繁殖するタイプです」
「私は? 何タイプ?」
「あなたは紛れもなく、R。撹乱依存型。ルデラルです。荒地に生きる。どんな撹乱があっても、それを利用する」

荒地。

虎太郎の分類が気に入って、私は笑みを浮かべる。まさに荒地だ。群雄割拠のYouTube業界。だけど、負けない。かつて虎太郎に言われた通り、種を蒔き続ける。あらゆる種を。私が何かを言おうとすると、再び校舎の窓から笑い声が響く。

「茅! 何してんのー」

明るい、伸びやかな声がして、顔をあげる。

「寄せ書き書くから、茅もきてよ!」

3階の窓から、丸々と太った杏奈が笑顔で叫んでいる。杏奈は中2の夏に校庭で周回中に倒れて、救急車で運ばれた。3ヶ月入院して、それからはまともな食事を取るようになった。すっかり丸くなったが、そんな杏奈の方が、私はずっと好きだった。

窓から身を乗り出した杏奈の背後から、他のクラスメイトたちも手を振り、「茅ー! 写真撮るから早くー!」と呼んでいる。クラスメイトにとって、私はとっくの昔に「百合さんの妹」ではなくなっている。

なんだかよくわからないけれどYouTubeとやらで成功しているらしい人、になっている。

「すぐ行くー!」

私は片手をあげて大きく振る。窓に並んだ女の子たちの顔が、一斉に笑顔になる。こんな光景を見られる日が来るなんて、3年前には夢にも思わなかった。女の子たちは「早くね!」と言い残して、歓声を上げながら廊下を駆けていく。

目の前に立つ虎太郎を見る。「茅ー!」と私を呼んだ女の子たちの声が、まだ中庭に反響し続けているような気がして、それに包まれている虎太郎のことが、気の毒に思えてしまう。

「あんたは1人で寂しくないの」

私の問いかけに、虎太郎は再びメガネを指先で持ち上げて話し出す。意気込んで話し出したせいか、べったりと指紋がついた。だけど、そのほうが虎太郎らしくていいと思っている自分がいる。

「1840年のアイルランドのジャガイモ危機を知らないのですか。たった1つの株から増やしたジャガイモを国中で栽培していたから、全てのジャガイモが同じ疫病に罹って死んでしまったのです。だから、違う人がいた方がいいんですよ。みんなと違う人が」

虎太郎はまるで自分に言い聞かせるようにうなずく。そして不意に、再びこちらを見る。透明なメガネの奥のどんぐり眼(まなこ)が、こっちをまっすぐ見ている。

「以前、自殖と他殖の話をしましたよね。西洋タンポポの」
「うん。あの、西洋タンポポは1人でも繁殖できるって話でしょう」

虎太郎に聞いた雑草知識のほとんどは、YouTubeで何度もネタにしているから、私も覚えていた。「ブス。一生彼氏できそうにない」などとコメントに書かれたら、「私は西洋タンポポのごとく処女懐胎するのでいいです」などと言い返してやった。

「自殖は相手を見つけなくていいので、一見するとイージーなように見えますが、長期的にはリスキーです。先程のジャガイモのように、多様性を失い絶滅してしまう危険性がある。つまり、長期的には他者と交配をする他殖の方が有利です」

そこまで言うと、虎太郎は1回、大きく息を吸った。そして、意を決したように言う。

「だからいずれは僕も、自分の殻に閉じこもって知識を深めるだけではなく、誰か他の人と、交流したり交際しなければならないとは、思っています」

虎太郎がまっすぐ私を見る。いつもとは違う、熱を帯びた瞳。普段、植物に向けているのと同じくらい真剣な瞳を、私にも初めて向けてくれた気がして、私はドキッとする。虎太郎の丸い瞳は、想像していたよりずっと澄んでいて、姉のものなんかよりよっぽど綺麗だと思った。

初めてかもしれなかった。虎太郎と2人で、こうしてまっすぐ見つめ合うことなんか。もしかして虎太郎のメガネが曇っていたのは、誰かとこうして向き合うのを恐れていたからではないかと、突如思い至る。その証拠に、虎太郎は数秒、目が合うと、ふっと目を逸らしてしまった。

「で、今日はなんの企画でしたっけ」
「四葉のクローバー。見つけるまで卒業できません」

自分でタイトルを読み上げながら、苦笑してしまう。虎太郎の知っている植物の世界とは遥かに遠い、頭の悪いアブにも見つけてもらえるくだらない企画。

「四葉のクローバーか。幸運の証のように思われていますが、あれは実は奇形なんです」
「そうなんだ。今、パッと見た感じだと、全然ないね。まいったな。教室にも戻らなきゃだし」
「では、探すのではなく作る企画なんかどうですか」
「作る?」

虎太郎は私の問いかけには答えず、突然、前に一歩を踏み出した。足はそのまま、かつて大事に栽培していたはずの雑草畑へ向かっていく。虎太郎は雑草畑に降り立つと、突然、足でそれを踏みつけ始めた。

「ちょっと、何してんの!」

私は悲鳴をあげる。虎太郎は構わずに、両足で雑草畑を力任せに踏みつけている。慌てて虎太郎のところへ走ろうとして、三脚ごとカメラも一緒に倒れる。でも構わずに、虎太郎のところへ向かう。虎太郎は、大事に栽培していたはずの雑草畑を、一心不乱に踏みつけている。

「何してんの! 大事な雑草畑でしょう!」

私は虎太郎の腕を掴む。思ったよりずっと骨太で逞しくて、驚く。初めて出会った時の、ぶかぶかの学ランを着て寝癖だらけの頭をしていた虎太郎はもういないのだと、恐怖さえ感じて私は手を離す。

虎太郎の足元では、踏みつけられたクローバーたちが身を縮こませるように小さくなっていた。虎太郎は構わず乱暴に足を踏み鳴らし、息を切らしながら、言う。

「四葉のクローバー、あれってのはね、突然、変異なんですよ。だからね、たくさん、踏んで、刺激を与えた方が、発生しやすくなるんですっ」
「今更踏んでも遅いよ。今日、撮影するんだから。今日、四葉のクローバーに変わるわけじゃないでしょう」

私の言葉に、虎太郎はようやく足を止める。自ら踏みつけてしまったシロツメクサやオオイイヌノフグリ、まだロゼット状態のハハコグサやキュウリグサ、ウマノアシガタを呆然として見下ろしている。

「でも、ありがとう。私のために」

私の声も聞こえないように、虎太郎はまだ息を切らして雑草畑を見下ろしていた。

私は自分の胸ポケットに手を当て、とっくに小さくひしゃげてしまったオナモミの実を確かめる。チラリと横目で、倒れた三脚に固定されたカメラの赤いランプが点灯しているのを確認している自分がいる。目の前の虎太郎を見ながらも、心のどこかでは、「いい画(え)が撮れた。植物学者、ご乱心⁉︎ 四葉のクローバーは作れる?」って企画に変えようと、ほくそ笑んでいる自分がいて、それが嫌で、私はぎゅっと、唇を噛んだ。

まだぜいぜい言っている虎太郎の胸ポケットに、3年前と変わらずオナモミが2つついているのが見えて、それが唯一の、虎太郎があの頃の虎太郎と同じ虎太郎である証拠のような気がして、私はいつまでもその黒ずんだ小さな実を見つめていた。
 

 
私ははっと、身を起こす。豚骨味のカップラーメンと、キムチ雑炊の匂いが充満した部屋で、扉が開いたままになっているクローゼットに目をやる。

「あれ、どこに置いたっけ」

私は数日ぶりに、トイレ以外の用事でベッドから降りる。フローリングに降り立った途端、埃と髪の毛が足の裏についてざらざらするが、気にせずクローゼットに向かう。

クローゼットには、かつて人気者だった頃に買い漁った服やバッグが溢れかえり、ハンガーからもずり落ちて、ドアが閉まらなくなっていた。

雑草系女子高生ユーチューバーとして新たに踏み出した3年間は、それなりにうまくいった。だけど、虎太郎とも別の高校になり、元々雑草にもさほど興味を持っていなかった私はあっという間にネタが尽きてしまった。

仕方なく、バッグの中身やメイク動画などを撮ってみたが、元々美人でもないくせにメイクなんかしたところで、大してウケなかった。それに、YouTubeの流行自体も、変わり始めていた。

誰が、というわけではない。時代の流れとしか言いようがないのだが、長い企画ものの動画よりも、数秒で終わる「ショート」動画が流行り出し、私はその流行に乗り遅れた。雑草でも、ショート動画は作れたかもしれない。だけど私は中学時代の栄光が忘れられず、相変わらず河原に出向いては雑草を採取し、洗い、食べるというマンネリで冗長な動画を出し続けた。

さらに追い打ちをかけたのは、とある感染症の世界的な流行だった。外出が制限され、暇を持て余したプロの芸能人たちが、大挙してYouTubeに押し寄せてきたのだ。何処の馬の骨ともしれない私のすっぴんより、美人の芸能人のすっぴんの方が誰だって見たいに決まっている。芸能人たちは、あっという間にYouTubeのトップ画面を席巻してしまった。

国民的アイドルグループに所属するアイドル本人、お笑い芸人、プロのピアニスト、何億円も稼いでいる実業家、本を何冊も書いている作家、果てや政治家まで、誰もが自らチャンネルを持ち始め、一部のプロユーチューバーを除き、素人ユーチューバーなど見向きもされなくなった。

クローゼットにある服の山をかき分けて、引き出しを上の段から順に引っ張り出し、私はあれを探す。高校生になって、虎太郎と会えなくなってからも、お守りのように持っていたはずのあれ。一体、どこへやってしまっただろう。

スウェットのポケットに入れていたスマートフォンが震えて、通知をチェックする。私がさっき呟いた「雑草とかオワコン」というつぶやきに、誰かが反応してくれたのかと思った。

あわよくば、虎太郎本人が。
大人になり、大学助教になり、スイスに飛んでいるはずの虎太郎が、私に気づいてくれないかという、淡い期待。

しかし、画面に表示されたのは「ラフレシア」からの「飛行機の時間、見てもらえたかな」というLINE。1週間ほど既読スルーしているから、さぞかしやきもきしているだろうと思ってほくそ笑む。姉の結婚式の計画なんか、私のせいで頓挫すればいい。このくらいの迷惑なら、かけたところで子供の頃に味合わされた惨めさとは全く釣り合わない。

ラフレシア。直径一メートル近くある巨大な赤いぶつぶつ模様の花。世界で一番大きな花。便所みたいな匂いを放ち、花粉を運ぶのは、死体と間違えてつつきにくるハエ。茎も根も葉っぱもない。花だけ。光合成もせずに、生きた他の植物に寄生して水分や栄養分を強奪して暮らす。まさに姉そのものではないか。

姉は中等部の時に付き合っていた北原先輩のことなど高等部に入学したとたんあっさり捨て、それから彼氏を取っ替え引っ替えし、大学のミスコンで優勝し、卒業後はアナウンサーの真似事を数年し、外資系投資銀行勤務の今の夫と結婚して退職した。湾岸のタワマンの14階に住み、専業主婦なのに「体が弱いから」と家事を外注し、貴族のような暮らしをしている。

一方の私は。

シクシクと痛む腹を抱えて、背を丸めながらめちゃくちゃになったクローゼットを、さらにひっくり返すようにしながら漁っている。微熱のせいかいつも鈍い頭痛がする。縄で締め付けられるような痛みにいつも意識を朦朧とさせしながら、汚れた部屋のベッドの上で暮らしている。

最後にバズったYouTubeの企画は、「雑草食べたら生放送中に救急車で運ばれたったwwww」だった。

24歳の時だった。高校を卒業後、ユーチューバーとして「好きなことで、生きていく」と決めた私は、上京し、それまでYouTubeで稼いだお金で港区にマンションを借りた。

しかし、芸能人の動画やゲーム実況、切り抜きチャンネル、ゆっくり解説やショート動画、メタバースなどが流行し、私のような「ユーチューバー」的な人が「面白い」ことをする動画など、とうの昔に廃れていた。

もちろん、登録者数百万人を超えるトップユーチューバーは違う。時代の流れが変われば、必ずそれに乗っかる。メタバースに興味がなくても、流行しているのならばメタバースを始めるのが真のユーチューバーだ。

だけど、私にはできなかった。だから体を張るしかなかった。いつもなら丁寧に洗ったり、アク抜きしてから食べている雑草を、その日はライブ配信だからと、絵になるように直食いした。

口に入れた途端、全身に怖気(おぞけ)が走った。食べてはいけないものを口に入れたと、瞬間的にわかった。雑草の苦味とは全く違う、口の中を突き刺すような嫌な苦みに、すぐ体が吐き出そうと、食道がポンプのように逆流した。

だけど、「雑草系ユーチューバー」として鳴らした私が、この程度の苦味で吐き出すわけにはいかないと、吐き気ごと、無理矢理飲み込んだ。飲み込んでもまだ口の中が痛い。食べ慣れているナズナのはずなのに、まるで別の味だった。

今すぐカメラの前から逃げて、吐き出して口をゆすぎたかったが、ライブ配信のためできなかった。私は、このゾーンはやばい、と思いつつも、手をとめることができず、笑顔で雑草を頬張り続けた。

その夜、激しい腹痛に私はのたうちまわり、脂汗が止まらなくなり、トイレで嘔吐し続け、最後には血まで吐いて、とうとう救急車を呼んだ。フローリングに倒れたまま119番に電話をかけ、それでも動画を回すのは忘れなかった。

除草剤、有機リン中毒だった。病院でも胃洗浄をされ、点滴を受けた。二度と雑草なんか食べるなと、両親に泣かれた。その背後で外資マンに肩を抱かれた姉が泣いているのも見えたが、私は病院のベッドの枕に頭を押し付け、見ないようにした。

あんたに何がわかる。どうして私がこんなことしているかあんたには一生理解できないだろう。私は母親に自転車に乗せられて雑草畑を見に行った日以来、初めて涙を流した。
 
「あった」

感嘆の声が漏れた。久しぶりに、嬉しい、という気持ちが胸に湧き上がった。クローゼットの奥の奥、中学の卒業アルバムやら杏奈たちとの写真が入ったアルバムのさらに奥に、潰れているオナモミを見つけた。

驚いたのは、虎太郎にこれをもらってから10年以上時が経っているはずなのに、ほとんどあの時と変わらずに、それが存在していることだった。紙ならば黄ばんで色褪せる。服だってカビが生えて穴が開く。パンやおにぎりなんか、10年も保管していたら目も当てられないことになるだろう。

だけどタネは違う。オナモミは、色こそすっかり黒ずんでしまっていたが、弱々しく棘を残し、必死に中のタネを守っているようだった。

かつて、虎太郎が言っていた言葉を思い出す。タネはタイムマシーン。時を越える。3万2千年。今こそ、発芽の時が来た。

私はオナモミを大事に手に取り、テーブルに持っていく。テーブルの上に置きっぱなしになっていたカップラーメンの空き容器を、手近にあったコンビニの袋に押し込む。底に残っていた汁が垂れて、悪臭がする。が、気にせず片付けを続ける。キムチ雑炊の空き容器も、納豆の空箱も、空になったツナのパックも、まとめて同じ袋に放り込み、口をきつく結ぶ。

ようやく綺麗になったテーブルで、長い間、開いていなかったノートパソコンを開く。これからYouTubeでやっていくと決めた高校1年生の春に、張り込んで買ったMacBook Pro。10年近く壊れないのはさすがApple製品か。

救急車で運ばれたあの日以来、私は雑草を食べることをやめた。

YouTubeも辞め、コンビニやスーパーでのアルバイトを転々としている。港区のマンションなどあっという間に住めなくなり、徐々に東に移動し、今はほぼ埼玉県とも呼べそうなくらい、東の端の街に住んでいる。

シクシクとした腹痛と頭痛、微熱は何年も消えない。だけどきっと、農薬のせいじゃない。多分、精神的なものなんだと、私も本当は理解している。

「大学 助教 年収」

と、検索窓に入れる。「大学教授って儲かるの?」。さもしいタイトルのサイトをクリックし、助教が年収500万円近くあることを突き止める。教授になったら1千万円はくだらないだろう。年収1千万円あったら、汐留のタワマンに住めるだろうか。姉のように。

次に、「草なぎ虎太郎」と、検索窓に入れる。ずらずらと並ぶ、論文のタイトルらしき文字。「生物多様性保全を目的とする外来植物種の管理」、「雑草における外来植物による在来生態系への影響」、「外来植物と在来植物の昆虫を媒介とした相互作用 」、どうやら虎太郎は外来植物について主に研究しているのだとなんとなく理解する。

中学生の頃から、西洋タンポポだの日本タンポポだのと言っていたのを思い出す。素早く画面をスクロールし、私は求めていた情報をようやく見つける。どこかのメディアが取材した記事に踊る、3文字。

「独り身なので、休日もほぼフィールドワークに出ています」。

私はほくそ笑むと、右手の拳を硬く握りしめた。

それを天井に向かって高く振り上げると、テーブルに置いたオナモミに向かって、力一杯、振り下ろした。

べちゃっと鈍い感触がして、オナモミの実が割れる。すっかりか弱くしおれた棘は、もはや私の手を刺さない。割れたオナモミの中には、小さな種が2つ、並んで入っていた。長い種と、短い種。まるで男女のペアのように。かつて虎太郎が言っていた言葉を思いだす。

「オナモミには、2種類の種が入っているんです。すぐに発芽するものと、長い時間をかけてから発芽するもの。発芽の時期を遅らせることで、全滅を防ぎます」

長い間温めていた種が、ようやく発芽しようとしている。私はパソコンでツイッターを開き、虎太郎のページをクリックする。虎太郎宛てのDM画面を開くと、軽やかにキーボードを打ち込む。

「久しぶり。私のこと、覚えてる?」

送信ボタンを押す。パリッと音を立てて、オナモミが発芽した、気がした。
 

(了)


107枚・2023年4月30日



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