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小さな傘

 鉛白色の空。天気予報に反してぱらぱらと降り出した雨は、走る僕の足元を容赦なく濡らしていく。カバンに入れっぱなしになっていた折り畳み傘は少し小さかったが、おかげでびしょ濡れにならずにすんだ。ずぼらな性格も、時には役に立つものだと思いながら、通学路を家に向かって急いでいると、ふと見上げた、歩道橋の上に知った少女を見つけた。それは同じクラスの早川さんだった。早川さんは中学生にしては大人びた雰囲気のミステリアスな少女で、正直言うと、クラスの中で誰かと一緒にいるところを見たことが無かった。女子同士の世界のことは、男子の僕には詳しく分からなかったけれど、そんな僕でさえ、一度や二度、女子グループが早川さんの陰口を言っているのを聞いたことがあった。

 雨の中、傘もささずに歩道橋の手すりに手をかけて、下の道路を見下ろしている早川さんからは、表情こそよく見えなかったものの、今にもそこから飛び降りてしまいそうな危うさを感じた。同級生が自殺してしまうんじゃないか。そんな考えが脳裏に浮かんだ途端、僕は胸の奥をぎゅっと強くつかまれたように苦しくなって、鼓動が早くなり、口からはぁはぁと小さな息が漏れた。そして気付いたら、歩道橋の階段を一段飛ばしに駆け上がっていた。
「ダメだよ。自殺なんてしちゃダメだよ。」
自分が思っていたよりも大きな声が出て、僕自身も驚いた。僕の叫び声を聞いて、早川さんがこちらを向いた。僕の姿をとらえた早川さんの目は、驚いたようにかっと見開かれて、いつも俯いて無表情に近い早川さんとは別人のように見えた。
「つらいこととかあるのかもしれないけどさ、飛び降りるなんて、そんなのダメだよ。」
何も話さない早川さんに近づいて、そのままの勢いで手を握ると、僕は一息に言った。
「私、別に飛び降りようとしてないけど。」
そんな僕に早川さんはいつも通りの冷静な声で言った。
「へ・・・?」
僕はきょとんとして早川さんの顔を見上げた。早川さんは、僕と目を合わせてゆっくり言った。
「だから、私、別に死のうとしてたわけじゃないし。」
早川さんのその言葉を聞いたら、急に自分の行為が恥ずかしくなって、ぱっと目を逸らして早川さんの温もりが残る右手もすばやく体の後ろに隠した。
「えっと・・・、ごめん。早とちりだった。」
気まずくなって小さな声で言うと、
「私、そんな今にも死んじゃいそうに見えた?」
早川さんは少し笑って聞いた。今まで聞いたことが無いような少し楽しそうにも聞こえる声だった。
「それは・・・そのっ・・・なんかごめん。」
僕は何と返して良いか分からなくなって、小さな声で俯いたまま謝った。
「別にいいよ。半分は本当だし。」
何とも言えない声にはっとした僕は思わず顔を上げた。早川さんのショートカットの髪の先から、雨の滴がぽたりと垂れた。
「時々ここに立って想像するんだ。この手すりを乗り越えたら道路に落ちて死んじゃうのかな、もしその時大きなトラックが通りかかって轢かれたらぐちゃぐちゃになるのかなって。」
僕は自分がぐちゃぐちゃになる姿を想像して、気持ち悪くなって身震いした。
「それって怖くない?」
僕が恐る恐る聞くと、早川さんは
「怖いよ。震えちゃうくらい怖い。でも、そうやって怖がるってことは、死にたいとか言いながらも、心の奥では生きたいって思ってるってことでしょ?本当に死にたいなら、怖くなんて無いはずだもん。」
と答えた。白く濁った遠くの空を見つめてそう言う早川さんは、僕よりずっと大人に見えた。
「これ。差して帰りなよ。濡れるから。」
僕はその横顔に何も言えなくなって、自分が差していた折り畳み傘を差し出した。
「いいよ。もう濡れてるし。返すのとかめんどくさいし。」
早川さんはそう言って受け取ろうとしなかったけれど、僕は早川さんの手を取って、強引に傘を押し付けた。
「別に返さなくてもいいから。僕が早川さんにこれ以上濡れてほしくないだけだから。」
僕は恥ずかしくなって早川さんの顔を見ないでそう言うと、自分の家の方へ走り出した。
「・・・ありがとう。」
早川さんの小さな声が追いかけてきたけれど、僕は振り向かずに走った。胸がどくどく鳴って、体中を血が駆け巡っているのが分かった。

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