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幻想ハーモニー

 本当はもう会うべきじゃないんだって思っていた。でも、チャイムが鳴って、モニター越しに彼の姿を見たら、私はまた今日も堪えきれずにドアを開けてしまう。夜風は少しだけ雨の匂いがした。帽子を深くかぶった彼を見た途端、胸が苦しくなって、私は目を逸らした。蒼太はいつものように玄関に入ると、ドアを閉めて鍵をかけた。そして、帽子を取ってにこっと笑うと、
「ただいま。」
と言った。ぷっくりと厚い唇、涙袋、さらさらの明るい茶髪。やっぱり顔はいい。
「もう、またこんな時間に急に来てさ。私はいつもいつも暇なわけじゃないんだよ。大体、週刊誌に・・・っ」
私が口をとがらせて言うと、続きを言う前に蒼太に唇を塞がれた。
「でも美咲ちゃん、連絡したらいつもすぐに出てくれるし、どんなに遅い時間でも、こうやって家に来るのを待っててくれる。本当は俺に会いたかったんじゃないの?」
蒼太は少し挑発するような目で言った。
「さぁね、わかんない。」
私は目線を逸らして答えをはぐらかした。会えない間もテレビで毎日聞いている声、その姿。彼は売れっ子のアイドルだった。私だって馬鹿じゃない。私みたいな女の子はきっと何人もいるのだろうと理解している。時々連絡が来て、夜遅くにお忍びで家までやってきては、翌日の朝早くにまたすぐ去っていく。そういう雰囲気になる日もあったけれど、ただ寄り添い合って眠るだけの日も、生産性のないゲームをしながら、夜通し眠らずに彼の話を聞いているだけの日もあった。
「素直じゃないね。悪い子にはお仕置きしないと。」
蒼太はそう言うと、にやりと笑って私を軽々と抱き上げ、玄関からリビングまで運んだ。
「蒼くんって細いのに意外と力あるよね。」
私が蒼太の首に手を回しながら言うと、
「ないない。俺非力だから腕痛くなっちゃった。」
蒼太は私をソファーの上に優しくおろしてから、冗談のトーンで笑って言った。テレビのバラエティ番組で見せる姿と同じだと思った。
「なんかそういう姿見ると、改めて、あぁ、本当にあのテレビの蒼くんなんだなーって思う。」
私が笑うと、
「そりゃあそうでしょ。俺は別にキャラ作ってバラエティ出てるわけじゃないし。」
蒼太は勝手にうちの冷蔵庫から缶チューハイを出してプルトップを開けながら言った。
「あ、それ私のチューハイ!」
私が抗議の声を上げると、
「一緒に飲めば良いじゃん?ほら、間接キスだよ?それとも口移しがいい?」
と、おどけたように言いながらソファーの前のローテーブルに缶を置いて私の横に座った。
「もう・・・。口移しはしなくていい。」
私が堪えきれずに少し笑って言うと、
「じゃあ、ハグは?」
蒼太は両手を広げて私を呼んだ。私が素直に腕の中に飛び込むと、
「お、珍しく素直に来たね。いいこいいこ。俺、素直な子は好きだよ。」
と言って、私の頭を撫でた。蒼太の香水が鼻をくすぐる。爽やかなのに少し甘い香り。可愛い系で売っている蒼太に似合う香りだと思った。その時、つけっぱなしになっていたテレビから蒼太の声がした。
「さすが売れっ子。また出てる。」
私が笑って言うと、
「このドラマ、視聴率良いんだよね。ここだけの話、続編決まったんだ。」
蒼太が得意気に言った。
「そうなんだ。おめでと。でも・・・、私はあんまこのドラマ好きじゃないな・・・。」
テレビ画面をチラッと見ると、画面の向こうの蒼太がヒロイン役の女優さんを抱きしめていた。
「ふうん。美咲ちゃんも嫉妬とかしてくれるんだー。意外。でも嬉しい。」
蒼太は少し満足そうだった。
「嫉妬なんてしてないし。」
私は蒼太に顔を見られないように俯いて言った。蒼太は芸能人。私はちょっと運が良かっただけの一般人。自分の立場くらい分かっているし、釣り合わない恋なんてしないって決めている。ただ、最初は純粋にファンとして、会えるのが嬉しかったはずなのに、こうやって何度も訪ねて来る度にどんどん欲張りになっていく。身の程知らずもいいところだ。
「俺は美咲ちゃんのそういうところ大好きだよ。」
蒼太の声がして、私を抱きしめる腕が強くなった。たとえ冗談やお世辞だったとしても嬉しい。でも、その一次的な感情の向こう側にある、私だけが蒼太の特別になりたいなんて願い事は身分不相応だと思った。
「あのねぇ、そういうこと軽々しく言うと、女の子は勘違いするんだから・・・。」
私が諭すように言うと、
「勘違いしていいよ。」
蒼太のいつもより低い声が耳元で聞こえた。蒼太の言葉はいつも冗談か本当かよく分からない。
「もう・・・。」
私は頬を膨らませて抗議の意を示した。
「美咲ちゃんは俺のことだけ好きでいてくれたらそれでいいんだよ。」
蒼太は私の表情を見て嬉しそうに笑ってから、意味深にそう言って、私の首筋に濃いキスマークをつけた。服を着ても見える位置のそれは、まるで私は自分のものだと主張したいみたいだと思った。

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