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青春

窓を開けると、そこには青春があった。
ランドセルを背負った男の子と女の子が手をつなぎ、なにかを話しながら歩いている。
アパートの二階にある私の部屋からは、二人のつむじがよく見えた。
表情は見えないが、きっと楽しい時間なのだろう。
女の子の笑い声が、小さくなっていく二人の後姿から響いていた。
なぜか、鼻の奥がツンとした。久しく感じていない感覚だった。そうそう、涙がでる前には、鼻の奥が痛むんだったーーー。
一粒こぼれた涙は、開けた窓から吹き込んでくる風に乾かされた。
二人の姿はもう見えない。
ぴしゃりと窓を閉めて、パートに出るための支度を始めた。

「あ、佐々木さん、おはようございまーす!」
「日野さん、おはようございます」

更衣室に入ると、日野さんが着替えているところだった。

「今日のシフト、加賀谷さんいないんですよ!ラッキーですよね」
「あれ、そうでしたっけ。今週のシフト表ちゃんとみてなくて……」
「ええ!私、シフト表もらった瞬間チェックしてますよ!加賀谷さんと被るな、加賀谷さんと被るな……って思いながら!」
「ひ、日野さん、他の社員さんに聞こえちゃいますよ」
「あ、いけないいけない」
日野さんは小声でそういうと、制服の帽子をかぶって更衣室を出て行った。
私も早く着替えなければ。

いらっしゃいませ。
お会計、千八百四十二円です。
ポイントカードはお持ちですか?
ありがとうございました。
またお越しくださいませ。
お次お待ちのお客さま、こちらのレジへどうぞ。

「お疲れさまでした。お先に失礼します」
「はーい、佐々木さんお疲れ~。また明日よろしくね」

私の一日は、これでおわり。
毎日同じ時間に起きて、パートにでて、終わったらスーパーで食材を買って帰る。
それだけ。
昔は、好きな曜日も嫌いな曜日もあったのに。
小学生のころは、火曜日と木曜日が嫌いだった。
体育があるから。とくに秋にはマラソン大会があって、とにかく憂鬱だった。
中学生のときは、水曜日。音楽の授業が苦痛だった。
毎週、一人ずつ前にでて歌ったりリコーダーを吹かなければならなかった。私は歌も楽器も下手くそだった。
高校生のときは、月曜日と金曜日が好きだった。
古典の授業があるから。若くて格好いい先生だった。たぶん初恋。
卒業してからは一度も会ってない。
でも、今は何曜日でも一緒。
嫌なこともなければ、嬉しいこともない。
加賀谷さんとシフトが被ったってなんにも苦痛じゃない。苦痛じゃないから、被らないときの喜びもない。
そんな、後ろ向きで小さな喜びさえも感じられない。
日野さん、今日はとてもイキイキとしていた。本当に「ラッキー」だと思っているんだろう。
私にも、なにかラッキーが起こらないかな……。

そんなことを考えながら、まっすぐ帰路につく。自ら「ラッキー」を探そうとは思わなかった。
アパートの二階、私の家。築三十年、家賃五万円。
七年前、当時付き合っていた彼氏と不動産屋を巡って決めた家。
三年目の冬に彼はいなくなり、それからは一人だ。
二人暮らし用に選んだものだから、一人で暮らすにはずいぶん広いけれど、住み心地もよく今更引っ越すのも億劫になっていた。
換気をするために窓をあける。
まだ外は少し明るかった。きれいなオレンジ色と藍色が二層になっていた。
ちょうど下校の時間なのか、小学生たちが上履き袋を振り回しながら駆けている。
ぼんやりと眺めていると、今朝見かけた男の子と女の子が歩いてきた。二人は、今もしっかりと手をつないでいた。
本当に仲良しなんだなと見ていると、男の子と目が合った。
反射的に窓から顔を引っ込める。
しばらくして、再び外を見やったら、二人の姿はどこにもなかった。
空のオレンジは、ほとんどが藍色に溶けていた。
外の空気を思い切り吸い込んでから、窓を閉める。
床に放っていたエコバッグから買ってきた甘食を取り出し、仏前に供える。
彼が一番好きだったおやつ。あとでコーヒーも淹れてあげよう。四年前から変わらない笑顔に手を合わせる。
私の青春は四年前の冬においてきたまま。
私の春は、まだこない。

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