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地域史のカケラ

 歴史の勉強会に参加したら、どうやら、見えるものがちょっと変わった。
 タイトル画像・・・年号に反応。あ!江戸時代のもの?
 とりあえず、スマホに頼ることにした。で。
 叅?慕? 文政十丁亥(1827)
 覚 文化十三丙子(1816)
 最初の字、読めないことが発覚。なんとなくわかってる気になってた。

 石碑もちょっと気になる。
 あわててスマホを操作。

 ちょちょっと撮ってまわって、ふと気づく。
 みんなは橋の方へ歩いて行ってる。あわてて小走り。
 ちょっとだけ団体行動を乱したかも。

 新しい発見をくれる、歩こう会に感謝。

 (3月2日)もう一カ所追加します。
 道ばたの小休止。

文化五年(1808)戌辰四月吉日
月山・湯殿山・羽黒山 講中

 講中というのは、講とは、毎月みんなでお金を出し合って積み立てること。
 たぶん、この「講中」は、お詣りのための集まり。講のお金を預かって代表が代参(代表が変わることによって、参加している家族はいつか当番として参拝する仕組)した、その記念なのだろう。
 いまでいう、旅行積立、この石碑はツアーの報告。石碑を立てたくらいだから、代参ではなくて、みんなで行ったのだろうか?
 想像は膨らむ。

 おっと。「講」の記憶、間違っているかもしれないと、用心(検索)

 講(こう)とは、結社または結社による行事・会合である。
 講の原義は「講義」「講読」の「講」であり、寺院内で仏典を講読・研究するの集団を指すものであったが、やがて仏典の講読を中心とする仏事(講会)を指すようになった[1]。それが転じて、民俗宗教における宗教行事を行なう集団、またはその行事・会合を指すようになった。さらに転じて、相互扶助的な団体や会合のことを意味することもある。
 このように「講」という名称で呼ばれる対象は多岐に渡っている。

(Wikipedia)

 「外部からの導入による講」として、山岳信仰が取り上げられている。

 外部からの導入による講は、当初は山岳信仰に関するものであった。立山などの修験者が霊山への登山を勧めて全国を廻り、各地に「参拝講」が作られた。それにならって各地の神社・寺院へ参拝するための数多くの講も作られるようになった。これらの参拝講では、講の全員が参拝に行く「総参り」もあったが、多くは講の中から数人を選び、代表して参拝する「代参講」が行われていた。

(Wikipedia)前と同じ

 神社には、富士講などの石碑もあった。あったが、写真を撮るほどでも・・・とスルーしてしまった。
 200年前と言ったら、手の届く時間のはずなのに。
 江戸は廃れてしまったなぁ。

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