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川越、江戸の頃

 川越に行くことになりそうです。
 たのしみ。

川越

 そういえば・・・と思って、地形を調べてみた。
 川越は、南側が武蔵野台地、北側に荒川などの氾濫低地が広がっている。市役所は、岬みたいな形で氾濫低地に突き出しているけど、東に荒川・新河岸川、西に入間川が流れていて、町場は台地の上。洪水の被害はなさそう。
 入間川の西も川越市域で、入間台地になっている。のだそう。
 川が市域を囲っている感じ・・・こうしてみると、川越に行くには川を越えて行かないと辿り着かない。

小江戸・川越

 時の鐘で有名な小江戸・川越。
 白い土蔵がつらなる街並みが残っている。
 大きな寺社が過去の繁栄を物語る。ただ、観光客は一部分しか回らないと聞いた。そういえば、以前行ったときも、時の鐘とその近くの大きな寺院の花を見たら、時間切れになってしまった。

川越城(初雁城・霧隠城)

 川越城は、日本の城百選にも選ばれている。太田道灌が築城(1457年・室町時代の終わりごろ)。幕末から維新にかけて、幕府側だったものの、恭順の意を見せ、堀なども我から埋めてしまって、城も大部分売り払ってしまったようだ。当時のもので残っているのは、玄関・大広間と移築復元された家老詰所。本丸御殿は再建(一部)されたもの。
 江戸時代は、前半は老中クラスが多く住んでいて、後半は親藩の居城だった。28代とのことだが、整理すると概ね4家(柳沢吉保が異色)
 江戸幕府開始時に、酒井重忠が入場(酒井家)、堀田家、松平(大河内)家、柳沢吉保、秋元家(田沼意次との政争に敗れて山形へ)、前橋藩に編入。前橋藩主が居城を移したのでまた「川越藩」に戻る。
 維新前夜は同じ松平姓ながら、松平(松井)家が引き継ぎ、廃藩に立ち会う。
 子どもの頃は、柳沢さまは名君だったと聞いた。灌漑によって、田畑を増やしてくれたらしい。

川越・舟運

 川越のポイントの1つは、新河岸川。川越と江戸を結んだ舟運の拠点。新河岸があった旭橋(あさひばし)周辺には、往時の面影が残っている。ここで「河岸」とは船着場のことらしく、「川越五河岸」と言われた。
 五河岸:旭橋をはさみ上・下新河岸、扇河岸、寺尾河岸、牛子河岸
※河岸=港・船着場、「魚河岸」のように商店を指すこともある。

 舟運のはじまりは、寛永15年(1638)1月、未曾有の大火により、川越の町の多くが焼失し、江戸幕府三代将軍・徳川家光の命により、喜多院や仙波東照宮再建のための資材を江戸から新河岸川(内川)を使って運び込んだときらしい。災害支援でそれこそしゃにむに運んだのだろう。それから昭和始めまでの約300年間、数多くの舟が行き来した。
 知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が川越藩主になってから本格整備 >伊佐沼から水を引き・多くの屈曲・水量の保持。船着場
 幕末から明治初年ごろが舟運の全盛期。鉄道の開通、洪水防止のための河川改修による水量不足など、舟の運航不能が響き、昭和6年(1931)に終った。

 飴屋横丁の飴は川越から運ばれたという。江戸で芋飴がバズったと・・出典を紛失してしまったのだが、芋羊羹なども良く売れたらしい。

 

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