変わりゆくもの、変わらないもの

20年前に書いたものが出てきた。ぞわっとする文章だった。

こないだの土日に二度とみないだろう古い紙資料をばっさり捨てたのだが、最古の部類に入る高校時代のテキストが出てきたのである。当時は演劇部でだけでなく学内劇団でも活動していて、今振り返ってもなかなか精力的な高校生活であった。

で、当時のアンケートだのパンフレットだのの最後に出てきたのが、2000年3月31日に書いたという2つの文書である。ひとつは明朝体で、もうひとつはなんとポップ体(!)で、もはやフォントだけでもぞわぞわするセンスなのだが、それ以上に中身がたいへんこそばゆいものだった。なにせ、結びのことばがこれである↓↓↓↓↓

高校生最後のこの日、高校演劇との別れをここに宣言する。

…どうしたどうした。なにがあった。

中身の詳細は割愛するが、今の自分の文体よりもはるかに装飾的というか、平たくいうと大袈裟でやたらと劇的。当時はこういうことばをかっこいいと思っていたのかと思うと、ひとの好みは変わるもんだなーと感慨ひとしおである。

ただ、意外と変わっていない部分もあった。それはどちらも「構成」は今の私につながっていて、以下の方針が透けて見えるのである。

・最初に結論を言う それもできるだけ端的に
・ひとつの文章は50文字以内が基本
・適切な位置で段落分けをする 細かすぎず、長すぎず

これらを意識して書き始めたのは大学に入ってからで、確立したのは社会人3年目だと思っていた。エッセイを書く際の構成、というものを大学で学び(英文科だったので英語だったけどね)、就職先でビジネスメールのお作法を3年かけて叩き込んでもらった、と思っていたのだ。それが、大学に入る3年も前*から私の筆致はたいして変わっていなかったのである。記憶とはなんとあてにならないものなのだろうか。 *註:私は高校卒業後に専門学校に通ったのちに大学受験をしたので、21歳で大学へ入学している。

最近は上記に加えて、「一読で理解できるかどうか」が大事だな、と思うようになった。わかりづらい言い回しや読みづらいフォント・字の大きさ、解釈の分かれてしまう曖昧な表現を極力避ける。私が書くのは文学作品じゃなくてビジネス文書がほとんどなので、「ひとによって受け取り方が分かれる」文章は危ないと思っている。いかにシンプルに、過不足なく、正確に届けるか。

とはいえ、このノートみたいなエッセイでは、必要不可欠にプラスαして膨らんだ文章の方が楽しいと思っている。受け取り手の想像力で解釈が分かれるのも素敵だと思えるし。その方がひととなりがだだもれになってる感じで等身大の私が映し出せると思えるし。それを楽しい、心地よいと思ってくれるひとに楽しんでもらえたらいいし、肌に合わないなーってひとはそっと閉じたらいいと思うのです。お役立ち情報とかハウツーとかさっぱり載せてないしね。

ついでに高校と大学の成績表も出てきた。おもしろかったのでとっておくことにした。今後の人生においてなんの役にも立たないだろうけどさ。

おもしろいから。

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