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豊かな時代ですので・豊かさ再考

豊かさを考える、ないし考え直すということは、今この物質的な豊かさが飽和しつつあるこの日本社会で大事なことだと思います。自分自身の豊かさを手放してしまうときに、人間はどこまでいっても幸福にはなれなくなってしまう。

改めて「豊かさ」を考えるときに、何冊かの本が思い浮かびました。
今回は、種々の観点での豊かさに関する僕の心の師匠のご紹介をしていくことを通して、豊かさを考えてみようと思います。



1.暮らしの豊かさ『貧乏サヴァラン』森茉莉

豊かさというものには、物質的なものと、精神的なものの二つがあるように思います。
物質的な豊かさとは、もう一方と比べると分かりやすくって、自然が豊かであるとか、お金がいっぱいあるとかそういうことです。客観的に見て必要十分に物質がある状態のことを言います。

では、精神的な豊かさとはなんでしょうか。物質的な豊かさとは近いようで遠いのが精神的な豊かさです。

例えば僕はお米が好きなのですが、お米を仕入れて米櫃にしゃあああっと流し込んで、炊飯するときに「豊かだなあ」と思います。しかし、もちろん同じ生活をしている誰かだって「その米はスーパーで買えるような適当なお米じゃないか!高級米でなきゃあいかん!」という人もいるわけです。

つまり精神的な豊かさとは、主観的に見て、感じる豊かさであるということです。自分の心が満ち足りている、ということが精神的な豊かさです。ちなみに僕にとっては、温かいご飯に瓶詰めのうにいかをのせると結構豊かです。

重要なのは、物質的な豊かさが、必ずしも精神的な豊かさをもたらすものではないということです。同じ状況の人でも、違う心を持っていれば、精神的な豊かさは天と地ほどにも変わります。

高度経済成長期は、日本は物質的な豊かさを追い求めた時代でした。もっと大きな富を、高級な時計を、贅沢なマンションを、煌びやかなシャンデリアと、黄金色のシャンパンをぽんぽんと放つこと、それが幸福であったわけです。戦争で乾いていた心は、その物質的な豊かさによって満たされていったのです。

翻って物質的な豊かさが飽和した現代において、それは精神的な豊かさには結びつかなくなってきました。それが冒頭の豊かさを考えることのこの時代の難しさの正体の一側面です。あまりにも世の中は便利で、スマホを数タップすれば玄関先にご飯が届くのです。(これ以上の何をのぞもうか)




だいたい贅沢というのは高価なものを持っていることではなくて、贅沢な精神を持っていることである。容れものや着物や車より、中身の人間が贅沢でなくては駄目である。 森茉莉『貧乏サヴァラン』(p .36)



暮らしの豊さついて考えるとき、鴎外の娘である森茉莉の暮らしを思い出します。

森茉莉の暮らしは、今のこのような暮らしとは正反対の暮らしでした。
天性ののんびり屋さんの彼女は、暮らすことにも不器用で、家事一般をするにも滅法ダメで、仕事の打ち合わせをするにも、その場所にいくだけでも疲れてしまうような。

しかし食べること、料理をすること食べることに関しては、この上なくそれを愛していて、それをもってしてとても豊かに暮らしていました。

じっくりと食材を吟味して、作っては知り合いに振る舞ったり、逆に振舞われたり。食材は高級なものではないのですが、時間をかけて美味しくなるように願いながら木べらを振るうのです。(バターがとても好きらしくってとても共感しました…バターは宝石…)当時の舶来ものだったチョコレートも好きだったみたいで、チョコレートの美味しさについてこの書籍の中で心から美味しそうに語られています。

暮らしを自分が大切にしたいことを中心にして作ること、そのプロセス自体を楽しみ、そして愛することが暮らしの豊かさであるのように、森茉莉の暮らしの様子を見る中で思うのです。

物質的な豊かさがあったとしても、そしてそれがなかったとしても心の豊かさのためには、目の前の物事をそれ自体を愛する精神こそが必要なのです。

森茉莉がスマホをもって、例えばインスタグラムをしようとしても、”映える”写真のために何かを作ることはきっとしなかったでしょうし、自分が愛する食材を用いて、自分が心から食べたいと思うあ料理を持ってその生活を彩っていたのではないでしょうか。



2.感性の豊かさ『自分の感受性くらい』茨木のり子


自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
茨木のり子『自分の感受性くらい』より

 


茨木のり子は、戦時に若い頃を過ごした詩人でした。国語の教科書にも載ったりするような詩人で、最も有名な詩が『自分の感受性くらい』という詩です。戦時は物資が全く足りていない時代で、しかし一番エネルギーに満ちたその時を戦争という時代に言い方を選ばなければ、奪われてしまった、時のことを後から振り返り生まれた詩です。

ぜひ詩集を手に取って欲しいのですが、彼女は、戦争という時代にあるからこそ、感性を自分で強く持たなければならない、忙しさにかまけて仕方ないと言って、忙殺されて心を干からびさせてしまうのは、世の中のせいではなくて、誰よりも、心に水をやらなかった自分自身のせいだ(だから大切になさい過去の私よ)ということを言っています。

精神的な豊かさというものは物質的なものを前提としない、ということは先ほど述べた通りですが、何が必要かというと、この感性のことだと思うのです。何かに触れて感じること、思うこと、考えを巡らせることが必要なのだと思います。人間がとても弱い生物であるのことと同じように心というものもとても弱いものです。それを瑞々しく保つためには、大事に水をあげ続けて育んでいく必要があります。

詩の最終連、結びは『自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ』という言葉でした。

今の時代の僕らにとってこの言葉は、どのようにうつるでしょうか。僕らはこの時代に生きているからこそ、再び感受性というものをまなざす必要があると思うのです。感受性というものを単純化すると、自己が自分以外の何か(本当になんでも。ものでもことでも、草でも花でも)と衝突して、それに対して自分が影響を受ける、そして自己を変容していくというためのものです。つまり、そとに心を可塑性のあるものとして開いているということです。

今この現代社会は、他者に対して興味がありつつ、興味を持たないという様式になっています。無関心の時代。「他人が気にはなるのだけど、無関心のスタンスを持っている、そんな自分であることがなんだかかっこいい」という雰囲気があります。最近ほんの少しだけほぐれてきたような気もするのですが。

最近タレントへのネットでの誹謗中傷が話題になりましたが、彼らに心ない言葉を投げつける人たちだって、本当に彼らに興味があるわけではないのです。あくまで消費対象として見ているということが実際なのではないでしょうか。

インターネットが当たり前の時代です。人間同士の(物理的な意味に限らず)存在がこんなにも近接しているのは、今までの人類史で最高到達点であることは、間違いありません。世界の誰とでも、数クリックで繋がることができるのです。感性さえ開かれていれば、僕らは全ての可能性に対してアクセスすることができるのです。

SNSを毎日眺めて、ただ誰かの人生をスモークガラスの向こう側のように見て、想像力を働かせることなく、自分以外の誰かを生身の人間とも思わずに消費する。だから気軽に悪意に溢れた言葉をさえ投げつける。これほど残念なことはありません。

茨木のり子は資源の枯渇の中で感性の危機を訴えたのですが、自分の考えでは、資源の飽和でも同じように感性は失われていくようにも思うのです。生きることが簡単すぎで、よく生きる(エウ・ゼーン)ことに対しての意識が下がってしまってはいないでしょうか。物質的な豊かさが自明の僕らの時代だからこそ、彼女が述べたような心の豊かさ、他者への想像力、瑞々しい感性を失わないように育てていく必要があるはずなのです。


3.生きることの豊かさ『ハマスホイとデンマーク絵画展・図録』



豊かさを目にして鑑賞したことがそういえばあったことを思い出しました。
それは今年のはじめに開催された、『ハマスホイとデンマーク絵画展』。東京は上野、東京都美で開催されました。ハンマースホイはデンマーク人の価値観である「ヒュゲ」を作品のモチーフの中核の一つとして、画風を築いてきた画家です。ではヒュゲとは何か。

ヒュゲ
デンマーク芸術はもちろん、北欧の暮らしを語るに際して、私たちが知っておくべき概念です。企画展の最初のキャプションではその意味を「寛いでいる、落ち着いていること」とされていました。
例えば、暖炉の前で家族と団欒する瞬間。朝、お気に入りのマグカップにコーヒーを淹れて静かに味わう瞬間など、自分が寛いでいて、安心して、慣れ親しんだ状況や環境にいるということを指すということでした。この考え方は、きっと「幸福の国」と呼ばれるデンマークの重要な考え方なのだと思います。

当時のデンマークは経済的に強い国とはいえませんでした。中立国としてヨーロッパの中で商業的に栄えた時代はあれど、周辺国の戦争に巻き込まれる形で、例えばナポレオン戦争の当事者として、戦争により経済的な打撃を受けた国の一つであったという経緯もありました。物質的な幸福とは程遠い。

しかし彼らが幸福である、ということは、例えば戦勝国であるとか、経済的に栄えている、といった定規での幸せではなくて、生活の中にあるその親しみのある日々の幸福を眼差し、それに対して真摯に向き合うということから生まれてくるように思われるのです。

アジアの言葉で言うと、老子の「足るを知る者は富み、強めて行うことは志有」と言う考え方に近いところがあると思います。今の状況に対する満足をする、それが本当に豊かな人間であること。ちょっと違うのは、中国の古典思想は基本的には道徳を磨き道を極めることへの(厳しい)道のりであるため、それをふさわしいものとして目指せ!と言うニュアンスで、老子も有名な言葉の「足るを知る」の後に続けられた、努力を続ける状態を保つことをこそ説きました。

一方で北欧の「ヒュゲ」の考え方には、もっと等身大の自分、ささやかな生活の中の一瞬を愛ざすと言う姿勢がニュアンスに含められているように思います。デンマークの人たちがきっと大事にしているのは、誰それと比較するのではなく、今の目の前の景色自体を愛でること、そしてそれが、結果的に彼らの幸福な状態を生み出しているのでしょう。生きることそのものに対して、理想の状態を求めている。

展示及び図録の中で、スケーイン派という流れの一派の作品が紹介されます。スケーインはデンマーク北部の漁業が盛んな村でした。デンマークの画家たちは、彼らのある種プリミティブな姿、自分自身で獲物を得て、生活をする姿に憧れと懐かしさを感じ取り、村に移り住み、彼らの生活を描くことをしてきました。険しさや苦しさにフォーカスするのではなく、等身大の彼らの生活。例えば漁に使う網を繕う姿、船を複数人で押し出して海に向かおうとする人々の姿、村をのぞむ景色、広く青い海岸線、そのものをそのままに鮮やかな色彩で表現し続けました。そして描き暮らすことのその生活を楽しんでいたようにも思います。

デンマークの絵画は、思想そのものよりも、彼らのその生活にこそ重要な点があり、生活に根付く考え方こそが、実に実直で、だけれどもしみじみとこの世界の美しさを再認識させてくれるところに大きな価値を感じました。それらの絵を見たときに私は、その景色を見たことはないのですが、どことない懐かしさを感じたのでした。

パリのルーブルに行けば、美の頂点をのぞむことができますし、ローマからバチカン市国のバチカン美術館に行けば、美の原点をのぞむことができます。ウィーンの美術史美術館に行けば、それこそ贅を凝らした煌びやかな作品をのぞむことができます。

しかし、それらは「豊か」とはやや離れたものだと思うのです。もちろんエネルギーの豊かさという点では、ありあまるはずなのですが、それらの芸術は、ときには死を伴う苦しみや、偉大なものからの影響、何か偉大なものを追い求める姿勢が見えていて、一重に豊かさとは結びつかない。

だから僕は絵画の中に豊かさを見つけるのであれば、例えばそれはデンマーク絵画に描かれた、等身大の我々の生活、目の前にあるだけの自然を、自分の見ている景色と同じだけ描くということこそが豊かさなのだと思うのです。
この企画展を観た後で、自分用のマグカップがとてつもなく欲しくなったことをよく覚えています。



豊かさとはなんでしょうか。

これを私たちの間で明確に取り決めることはできません。そういうものなんだと思います。

高級な腕時計に豊かさを感じる人もいれば、お茶漬けをかっこんでいるときに豊かさを感じる人もいれば、室内に持ち込まれた一輪挿しのある景色を豊かと思う人もいますし、大切な人と暮らすことを豊かと思う人もいるでしょう。

豊かさを考える上で大事なのは、ここで紹介してきた考えを借りてくるならば、感受性をひらいて自分が本当に大切にしたいものをまなざして、それを自分の暮らしの中で愛でて、その瞬間にこそ専心し、生きてていくことなんじゃないかなあと思います。

僕は最近のおうち暮らしで、ああ銭湯が好きだ、ってことに改めて気がついて、世の中が落ち着いたらゆっくりしに行きたいなと思っています。ラブ・お湯。



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