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卒業式

 君たちは卒業していく。何度も僕は君たちが卒業していく姿を眺めるだろう。人の生にも季節がある。若い君たちが、今いる季節は春のちょうど真ん中だ。講堂で行われた卒業式典がやがて終わろうとしている。僕が引率してきた三年二組の生徒たちは、卒業証書が閉じられたファイルを抱いて、最後の一人の名前が呼ばれるのを待っている。それぞれが自分のために用意してきた卒業式に臨むための顔をしていた。彼らの中には、人生でこれが最後の卒業式典になる者もいるだろう。式典とは不思議なことに、特段彼らは昨日と今日とで実質的には何も変わらないはずなのであるが、今日を境にして、明確に彼らは変化していく。人は成長していく、しかしそれは漸進的な営みでは決してなく、あるときをきっかけに大きく変わったり、ともすればずっと全く変わらない時期を過ごすものもいる。その変化の機会に自発的に向き合うものもいれば、今日この日のように、外発的に受け止めるものもいる。彼らは変わりつつある生命の表情をしていた。変わらないものももちろんいるかもしれない。しかし彼らの多くは、今日こそが変わる日であると思っているはずだった。卒業証書の授与が終わった。最後に校歌と国歌を歌い彼らは講堂を後にする。
 高校の卒業式ともなると、中学校までのように卒業式の練習はしない。大学受験が終わって、束の間の晴れやかな期間を、惜しむようにクラスメイトと過ごし、いつの間にかこの日を迎えるのだ。高校の最後の時間は一番短い。担任である僕も彼らにとっての惜しむらく思い出のうちの一つになるのだろうか。この式典が終わった後、教室に戻り最後のホームルームがある。彼らの前にたち、何かを伝える時間があり記念写真を取って終える。何を伝えるか毎回悩んでいた時もあったが、数年前からいつも同じことを伝えることにしている。

教室に向かって廊下を歩いていると、担任を持っていたクラスの生徒のうちの一人が声をかけてきた。クラスの学級委員をつとめた若槻だ。身長は百七十センチくらいで僕より少し低い。入学してきた頃は、今よりもひとまわり小さな躯体をしていたが、テニス部に入って特に二年生でレギュラーになってからは身体も発言もしっかりするようになった。比較的コミュニケーションを取ってきた生徒だった。
「先生、スーツあんまり似合わないね」
「そんなこと言いますが、卒業したら今度は君たちがスーツ着たりするんですよ、大学の入学式とか」
「げ、嫌だなー、ほらネクタイって苦しそうじゃん。ぐえーってならないの?」
「ぐえーってなるに決まってるじゃないですか。でも大人はそれを顔に出さないから大人なんじゃないですか」
「僕はやだな。ぐええってときには思いきり、ぐえーって顔したいじゃん、ほら、でも今つけてるネクタイってパチンって止めるタイプのやつじゃん、ちょっとかっこ悪いし」
「そんなことはないですよ、ほらホームルームをはじめましょう」
若槻はにこにことして、はーいと言って教室の中に入っていった。彼もまた僕のことを惜しむらく思い出のうちの一つとして思ってくれているのだろうか。明日からは生徒は皆、異なる日常にそれぞれが進み、その中には教師である僕は存在していない。このクラスの中でも比較的聡い若槻なら、それが分かっていたのだろう。今交わした言葉の続きが、少なくとも数年後に、もしかしたら一生で最後の会話であるかもしれないということが。
 ドアをくぐり、クラスを見渡した。生徒たちは席についたら、最後の時間が始まることを知っているようで、誰一人として席につこうとせず、心なしか、自分の席から遠いところに集まって、卒業証書をぶらぶらと持って話をしていた。あたかもその紙が大事なものではないかのように誰かに見せつけるように。そして、誰もがその最後の時間を自分ではじめようとしたくないのだろう。しかし季節がとまることはない、時間というものは、誰のどんな時にも平等に前に進む。

「ホームルームをはじめます。」

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