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【生い立ち1】15の家出


続けることが大事とか言いながらも
前回の投稿から時間が経ってしまった。

今回は生い立ちを少し書いてみようと思う。
(需要あるかは知らん…)

前回の投稿の方が絶対オススメなのでそちらから見てくださいな。
【挨拶代わりに夢紹介】

https://note.com/haruga45/n/n57c0e54619a2

※中学生なるまでは大して面白くないです笑
(飛ばしてね!)


ーーー死に場所を探してたーーー

小学生低学年の頃はとにかく病んでいた。
(いきなりのヘビー級カミングアウト)

ませていたのかもしれないが
低学年の頃は学校が茶番に見えて仕方なかった。

ガキ大将みたいな時期もあったし
少しの間いじめられていたこともあった。

周りに友達がいる様に見せて、
ずっと孤独だった。

1人が好きで学校終わりには焚き火をしたり木工したり木登りしたり
モノヅクリが唯一孤独を忘れさせてくれた


なんで生きているかわからなかったし
学校も家族も嫌いで死にたくて仕方なかった。

死に方を調べては怖くなって辞める日々。

自分が虫籠の中のカブトムシみたいに誰かに試験的に飼われているような感覚もあった。

家族も家も学校も何もかも嫌いって
それなりにしんどい。

たぶん世界が淡い寒色とグレーの間ぐらいにみえてた。



ーーーキラキラの小学校高学年ーーー


小学4年生ぐらいからサッカー仲間が増えて
サッカー漬けの日々に変わる。

仲間には恵まれクラスでは常に中心にいて活発な子になった。

放課後は毎日仲間と校庭でサッカー⚽️
その後は駄菓子屋にみんなでたむろして、
近所の公園で缶蹴りをして帰るというのが毎日だった。

近所の武蔵野美術大学のサークルに入っていたから美大の部室にたまに行って、作品を観たり遊んだり、卒業制作の過程を近くでずっとみていたり、
あと春とか夏に数週間美大生と寝泊まりしていたのは
自分の後の人生において結構大きかったと思う。
(これ結構でかかった)

小6になるといよいよサッカー漬けの日々。
センスがなかったから誰よりも努力していたつもりでいた。
(人生で初めての努力だった)

その合間を縫って小6の夏休みは父親とチャリ旅をしたこともあった。
徳島県の祖父母の家から東京の家までチャリで旅をした。

旅好きや、無人島に国をつくるみたいな夢はこの頃に芽生えたものだったと思う。

でも、常に友達に囲まれ、
こんなにキラキラしていても
やっぱり孤独だった。



ーーー本気の天井ーーー

中学生になった。

とにかくサッカー漬けの日々。
全国大会を本気で目指していたから、
朝練や自主練はもちろんのこと、大晦日と正月ぐらいしか休みがなかった気がする。

人生で1番本気だった。

自分の本気と向き合う、
自分の本気の天井を知る
ということが出来たのは今後の人生で役に立った。

俺はまだ本気出してないだけが通用しなくなるから。

毎日数ページ書いたサッカーノート

部活のことだけでドラマ一本いけるぐらいの、出来る限りの青春だった。
(書きたいけどきりがない)
サッカーは下手だった。

学校生活はというと
クラスの1番後ろの真ん中にいつもいたなぁ。
たまに笑いとろうとして、また寝てるやつだった。

(全然勉強してないよっていいながらテストで高得点叩き出すのがカッコいいと思っていた厨二病のはるがくんは、徹底的に授業中寝て、テスト期間部活がない日は徹底的に遊んで、夜に泣きながら勉強している絵に描いたようなバカだった)

行事ん時だけ活き活きするやつだった気がする

ちょっと悪ぶってたから少しだけはモテた笑

そんなサッカーを引退した後は燃え尽き症候群で高校受験なんて考えられなかった。

東京は結構受験戦争が厳しくてシビアな世界だったのだけれど、
サッカーがなくなった自分にとって学校に行く意味がわからなく、それどころじゃなかった

燃え尽き症候群かなぁ

(だいぶ割愛すると尾崎豊に憧れはじめた笑)

それでも周りの雰囲気にのせて受験戦争へ繰り出した。

当時、唯一誰にも負けないと思っていたものづくりの道へ進みたくて
偏差値高めの工芸系の都立高校を目指した

(井の中の蛙)

コンクールは出せば佳作には絶 入るぐらいだったし推薦をとって簡単にいける気でいた。
寝る間を惜しんで勉強したし、余裕やろって感じだった。

(絵に描いたような井の中の蛙)


ーーー校内全面戦争ーーー


だけどそう上手くいかないのがこの人生で

あることから先生と揉めて
毎日放課後、校長室に並んだ先生達と戦う日々。

口が達者だったし、
今冷静に考えても自分が正論言っていたのでイケイケだった。

「おまえは生徒の底辺」「腐ったみかん理論でいうとお前は腐ったみかん」「欠陥商品」

ものすごく暴言吐かれたので、それを全部レコーダーに録音して職員室に流したりしていた笑
(今思うと文春砲)

学年主任には胸ぐらを掴まれ唾を吐かれ貶された。

(書けるエピソードはこれぐらいでそれなりに生々しかった)

そんなことを繰り返すうちに
自分側についてくれる先生もが出てきて
学校全体を巻き込んだ校内戦争状態になった。

この時、本気になれば、離れる人もいるけど絶対的な仲間ができることを知った。

内申でコントロールしようとする先生と対立して、推薦を辞退した。

#自由になれる気がした15の夜  

推薦がほしいなら頭下げろ的なことを堂々と言ってくるレベルで
そんなお前らの推薦なんかいらねぇよ!
状態だったのだ。

(尾崎豊を履き違えているのは今になってわかる
ファンの皆様ごめんなさい)

そんなこんなで
大好きなモノヅクリもドサクサに紛れて嫌になった。
自分からモノヅクリを抜いたら何も残らないことと向き合ってはしんどくなった。

のちのちこれが響いてくる

勉強は好きでなく、部活は完全燃焼したと思っていた当時の自分にとって
高校へ行く意味がなくなった。

他校のやんちゃな子と絡んだり
女の子と遊びまくったり
被災地へボランティアへ行ったりもした。
修学旅行で興味を持った京都へ一人旅に出たりもしたかな。
美大生とつるんで背伸びしてみたり。

そんなこんなで世界がひろがると
自分が狭い世界で調子に乗っていたことに気づいた
だから環境を変えようと必死になった。

地元にいたら遊んでしまう
地元にいながら、当時つるんでいた仲間と距離をおける自信がなかったし
親元も離れたかった。
自分に自信がないものでチヤホヤされるのも嫌だった。
居心地の良さに違和感を感じはじめた。

論語かなんかに書いてあった
「15歳は志学の時」みたいなのにもかなり影響されていたのをおぼえている。

とにかく環境を変える!
誰も自分を知らないところへ行く!


ーーー尾崎豊を島流しーーー


それで周りまわって選んだのが

東京の伊豆諸島にある
伊豆大島の、都立大島海洋国際高校

ここなら、部活と勉強以外に行く価値がある。
そして、環境を変えるには絶好の場所。

そうして15歳の冬、島流しを決めました。
(願書提出期限1週間前をきっていました)


クラスメイトにはアーティストの夢から逃げたと言われ
親は泣き崩れ(言い出したら聞かないのを知っていたしね)
当時背中を押してくれたのは
一緒に戦ったサッカー部の仲間と
校内全員戦争の時に味方についてくれた3人の先生だけでした。

当時厨二病真っ盛りの日記には

2つの道があったら厳しい道を選ぶ
未来の自分に胸張れる今を生きる
その選択が正解か否かは今決まるのではなく、これからの自分が歩いて決めること

って書いてあった…
#穴があったら入りたい

卒業文集

今でも恩師の教えは生きています

そんなこんなで島に乗り込みました。

続きはまた高校生編で

#尾崎豊を履き違え
#先生に殴られいじめられ
#教育の現状を思い知ったのでした

#環境を変えたくて飛び込んだそこは
#高校最高クラスのカオス空間でした  


ーーーあとがきーーー

どんだけ自分大好きなんだよっていう文の長さ。

(過去の武勇伝語る痛いヤンキーみたい)

貴重なお時間を拙い文章に費やしてくれた方ありがとうございました。

これからも持病である不治の病、厨二病との闘病日記は続きますのでどうかみなさん暖かく見守ってください。

↓次回【生い立ち2・超絶カオスな島流し】↓

https://note.com/haruga45/n/n9cdf94b5bbbe

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