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雑草が地球を救うのではないか?

「草刈りせえよ!」

野菜をくれたり、遊びにきてくれたりする近所のおばちゃんに、たまに言われます。
私は、「てへぺろ」とやり過ごします。
しかし心の中では、「ん?なんで草刈りするのかな?」と聞いています。
仮に発言したところで、返ってくる答えは想像がつきますが。

私は、植物で地面をカバーするというのは、人が生活するうえでも非常に合理的であり、快適な環境づくりに役立つんじゃないかな、と思っている人間です。

お家をぐるりと囲んで、うじゃうじゃ生えています。スズメノカタビラ、カラスノエンドウ、エノコログサ(猫じゃらし)、クズ、コニシキソウ、タンポポモドキ、カタバミ、ゼニゴケ、オヒシバ、得体の知れない草も数多く。
そして冬になると一斉に枯れます。


草刈りしよう!と積極的に思わない理由


草は土壌の流出を抑制し、雨水や大気の汚染物質を除去し、二酸化炭素を酸素に変える働きもあるという報告もあります。

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一般個人宅のたかが知れてる敷地面積で、雑草から起きる植物遷移は観葉植物や外来樹、植林状態に比べて少なく、生態系に影響はほとんどないという報告もあります。

河川などなら豪雨があってもいきなりの氾濫などを起こしにくい状態を作れると思います。

毎年、河川で地域活動としてやっている雑草のこまめな草刈り行事や税金によって行政で行われている大規模草刈りは、刈られた草は集積され、センターでエネルギーを使って燃やされるだけで、非常にもったいないなぁと感じています。
うまくシステムに組み込めば治水やヒートアイランド対策に役立つのに、と。
そしてこれらの刈られた草は田畑に活用すれば、微生物が謳歌し、野菜が育つ土壌に蘇るのに、と。

私はたまに、はるラボ畑(自分の家の前にこしらえた家庭菜園実験のための畑)用に、コンテナに草刈りした草を入るだけもらって帰ってきます。
はるラボは2020年5月に始まりましたが、何もなかったところに真砂土を置いて、草をこれでもかってくらい積んで蓋して、1年かけて草の力で畑に再生しました。しっかり野菜が取れだしています。従業員は私のみ。パートで近所の子どもたちがわんさか入ってくれます。報酬は野菜です。

雑草が生い茂っている耕作放棄地を、人は荒れ果てた景色呼ばわりします。

私には宝に見えて仕方ありません。うぉー あのセイタカアワダチソウとかめっちゃ欲しいな、と。

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グリーンを増やそうと環境を気にする一方で、せっせと草刈りをするのはなぜなのでしょう。多くの人は、自分のテリトリーに雑草が生い茂っている状態はとてもストレスのようです。

野菜は良いが、雑草は敵だと。

雑草によって、虫たちは自由に暮らせるという事実を知っているのにも関わらず。

「グリーンカーテンや苗木はエコでいいですよ、植物を増やしましょう」って言ってる割に、目の前にある、特に悪さもしない草たちをどうして躍起になって引っこ抜いてるのか?
雑草という草は存在しません。草花たちの、「人間こそが雑草よねぇ、何ほざいてくれちゃってるのかしら」という声が聞こえます。

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見た目の問題?

見た目が不快で草取りする上位になるのかな、と想像しますが私は雑草をかっこ悪いとは全然思いません。多様で神秘的でゴイスー!!って思います。
むしろコンクリートで固められた土壌や、小石を敷き詰められた敷地を見ると、人工的で無機質で面白みがなく、そんなのは都会で見飽きたわ、と思います。
そんな都会ですら、今はビルの屋上でも緑化運動の取り組みが活発に行われているというのに。
あと、芝生は美しいとされて、多様な植物が自由に生い茂っている庭はNGという世間の感覚が、おもしろいなと思います。
政治や教育、社会システムなどを如実に映し出しているというか。

害虫がうつって迷惑?

自分の敷地内で生やしている分においては、せめて勘弁してほしいな、と思います。我が家においては、幸いうるさく言う人には今の所出逢いません。ありがたい環境です。
建物同士が隣接して密だったり、もしくは田畑をやっている隣人、とかがあったとしたら直接的に被害が出る、と非難の声が出るのはあり得ますよね。
そういうことで、地方移住をディスる声もあるようです。

私としては、自然から離れすぎると、人間という動物としての感覚を忘れそうでこわいです。そういう息苦しい環境をかえたくて、東京から岡山県に移ってきたのでありました。

そもそも、素人ながらに自然栽培で野菜づくりにチャレンジしている立場から考えると、本来の自然を無理やり歪めて慣行農法を繰り返し行うことの方が生態系が歪み、耐性のついた害虫がでるのではなかろうか、と心配します。
本来の自然の姿は、とても強く優しく、合理的だと感じています。
草だけで作る菌ちゃん先生農法(吉田俊道さん)から教わった野菜づくりは、虫食いも少ないのです。

囚われた社会通念だけで生きていたら、きっと私もこんなことは呟かなかったんだろうな、と思います。

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だらしない?危険生物が寄ってきて危ない?

何をもって美しいと感じるかは個人の自由であり、美意識は侵害されるものではないはずです。私はこの時代においての、本当の豊かさというものを実感してきているところです。

我が家はまだ新しく、幸いにして、雑草を放置したらいつの間にか2mの木になってた、とか蛇がとぐろを巻いていて危険だ、とかいう状況ではありません。
しかし様々な種類の攻撃性の高い蛇だって、結局自分たちの都合で自然をぶっ壊しまくる人間が呼び寄せてしまった結果だと思います。本来、適切な距離を保って共生していたはずです。動植物ともに外来種がはびこるのも、ちょっとずつの当事者意識のなさの応報だと思います。

自分以外の生物にもう少し寛容になれないものでしょうか、と自戒を込めて。

私はそんなことよりも、水道の水を出しっぱなしで食器洗剤をダバダバ流してたり、使い終わった揚げ油を台所で流し捨てたり、車のエンジンをつけたまま長いこと車内を空にしてたりすることについては、誰も何も思わないんだろうか、と憤慨してしまいます。
そういうことをやりながら、各地域が無料配布するゴーヤの種とかをもらいに行ったりする行動は実に矛盾で人間らしいな、とも思います。

生活をするうえで支障が出る部分だけは、引き続き手入れするつもりだし、みんなそうなれ、と言うつもりはこれからもないですが、せめて自分と家族だけは必要のない殺生はしない、と決めています。

多感な子どもたちを前に私がこんな姿勢を示しているものだから、一番上は、過激な動物植物愛護者になっているようでw、シロツメクサを無邪気に引っこ抜く一番下の赤ちゃんを叱りつけていたりして、それはそれで複雑な思いですが。

今ある常識は、幻かもしれません。 このささやかな反抗もまた、いつかの時代の常識になり、いつかの時代の非常識になる
のでしょうか。

そんなことも、子どもを持ってから考えられるようになったことの1つです。
小さな人たち、私に思考を与えてくれて、本当にありがとう。

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