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ヴィーガン?ビーガン?あの会話をきっかけに

あれは今年の1月のことだった。正月気分が過ぎ、コロナの報道に気を重くしながら通常業務に戻りつつある頃、夫と仕事の合間に家で昼食の唐揚げを食べていた。あらゆる価値観が変わる時代がきたねぇとボンヤリ話していたことを思い出す。

そして何気なく次に目にした動画、中田あっちゃんのyoutubeを二人で観たのだ。終わったあと、話のテーマは食の枠を超え、社会や教育や、歴史や、自分たちの暮らしのビジョン、すごくいっぱい話し合った。唐揚げは完食していたけれど、全然味がしなかった。あれが私にとって、好んで食べた最後のお肉だった。

https://youtu.be/CBz76aGCDPo

結果、とりあえず緩やかなヴィーガン(実際はペスカタリアンというのか?魚や魚介は食べる。)になったことを話したい。

「これだからヴィーガンは」、とバッシングされる原因について考える

完全に主観だがヴィーガンは宗教色が強い。人に価値観を押しつけをする一部の層の存在により、敬遠される傾向にあるのではないだろうか。デモ行進で二極が押し合いへし合い、みたいな。私の当時の印象は、ヴィーガンといえば過激派。偏った意識高い系。偏った健康志向。だった。

「動物がかわいそう。私たちの健康のために。」

ヴィーガンになるのがそういう理由だって、全然いいと思うし、私自身動物は大好きだし、子どを育てている上で正しい栄養を追求したいし、それらの動機もゼロじゃない。

しかし、私たち夫婦が中田のあっちゃん動画から切り取った真実は、

・肉は人間にとって栄養素的に必須じゃないかもしれない。
・世界には飢餓で大人になれない子どもたちがたくさんいる中(地球上で9人に1人!)、実は全人口を十分に救える量の穀物が生産されているにも関わらず、それらを家畜に当てがっていること。美味しいものを食いたいという一部の層のために。
・そしてその畜産業から出る温室効果ガスは自動車業界を上回り、さらに広大な牧場をつくるのに森林伐採が今も行われている。

ということだった。

自分で行き届く範囲で動物の世話をし、いつか絞めて食えるならそうしたい。そういう環境に住みたい。もしくは、相応のお金を払って、ちゃんとした環境で育てられた家畜をいただきたい、とはっきり思った。

ちゃんとした環境とはどんな環境か。
ファクトリーファーミングの動画を見たことがあるだろうか。あれをしかと見て、毎日肉を食えるだろうか?

動物たちは、信じられない環境で産み落とされて、無理やり生かされて死んでいく。かつて昔の牧場や鶏小屋とはほど遠い光景だ。虐待の恨みつらみを溜め込み、過酷な環境で生かされ惨殺された動物たちの肉は、魂レベルがすごいことになっていると思う。
その肉は、栄養学的に栄養があって、おいしいのかもしれない。しかしその呪いみたいな魂を食べて、自分のエネルギーとし、それで子育てしたり、仕事したりしてるわけで、それを続けていたらその人に、その周辺に、負の力が働くのではないだろうか、とそういう視点でも、私は怖くなった。

ファクトリーファーミングで働いている人たちは、ヒドイ人?

彼らだって家族を食わせるために、仕方ない?

いやいや、そんな単純な問題ではない。
従事者は、毎日動物がうめき苦しむ声を聞きながら惨状の渦中におり、きっと何かが狂っていくんだろう。命を工業製品として扱いスイッチをオフにして労働し続けるんだろうと想像してみるが、需要がなければそもそもそんな地獄絵図はないはずだ。
少しでも安くて簡単で美味しい食べ物が食べたい、と買い物をしている一人一人に責任があるだろう。

これが大量生産大量消費の実態なのだな、と。

余談だが、パーマカルチャーをやっている人が、可愛がっていたヤギが病気で亡くなって、家族全員で弔って土に還したという話をしていた。しかしインタビュワーの「買い物はどうしていますか?全て自給自足?」という質問に対し、
「肉は買います。飼っている動物はかわいそうで殺せないのでね。ははっ」というセリフがあって、あちゃぱーこれは本物じゃねーな、と思った笑 

私は子どもを産んでから、パーマカルチャーのように、人も地球の役に立てるという小さな希望というか、人間の存在意義を知りたいために自然の一部となり身をおく暮らしにも憧れている。
だから切り取ってしまって申し訳ないが、そういう一部の発言の矛盾もまた、マジョリティにツッコまれる原因の一つになっているなと思うことを伝えたい。(パーマカルチャーとは、人と自然が共存する社会をつくるためのデザイン手法。)せっかくの素敵な印象や、貴重なお話が台無しになってしまうこともあるのだな、と。

「もったいない」は、そこかしこに散らばっている

日本人の歴史から考えても、狩猟採集民族だった頃は、毎日肉は捕れなかったはずだ。農耕民族になってからも魚を摂取する頻度の方が高く、肉は今ほど食べていなかったはずだ。家畜として鶏や牛やヤギなんかを飼いだした頃からは、お祝いの時や、動物たちが卵が産めなくなったり乳を絞れなくなったり弱ったりしたら、絞めていたはずだ。

だとすると、栄養素的に今の食生活はかなりおかしいと思う。
戦争後からだ。
敗戦国になってから、食は健康寿命を短くするシステムに。日本人の考える力を奪うかのごとく、砂糖、白米、パンなど白いものがたくさん登場し、肉食はより身近なものとなり、つまり欧米文化にまるっきし体を変えられて、不健康に向かっていったのではないかと想像する。

私たち夫婦は、他者はもちろん、子どもたちにヴィーガンを一切強要しない。給食だって除去食を希望せず、人からいただいたものは、ありがたく完食する。外食にもたまに行くし、その時には子ども達に好きなものを食べさせる。だから「意識低い系のビーガン」(私クラス、「ヴィーガン」「ヴィ」とか発音できないし)ということになるのだろうか。

しかし、とにかく岡山は野菜と米と豆がうまいのだ。「お肉食べたい」と子どもたちは特に言わない。心身ともに今の食事に満足してくれているようだ。

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「肉がなくても美味しいね」じゃなくて、「これが、美味しいね」に変わりつつある。家族全員、今年になってからますます健康になっている。
長女と夫はもともと体が強い方じゃないのだが、喘息の発作も長いこと出ていない。旬のものと発酵食をふんだんに取り入れ、調味料も伝統製法のものを使いシンプルに。代替肉も不要だ。大豆ミートは、添加物やら倫理観やら何か違う問題が孕んでいる気がする。なので料理はいつも引き算で考える。
それもこれも、新鮮な野菜と穀物を簡単に手に入れることができる田舎に移住したことが大きい。この選択は、我が家には吉と出ている。

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「特に子どもの成長期には動物性タンパク質が必要で、生き物を殺めて食うのは人類が生きていくうえで仕方ない」という声も聞くけれど、人間の体ってまだまだ分からないことが多いらしい。だとしたら、やはり先人たちが何を食べて命を繋いできたか、ということを指標にしたい。

食から始まる社会との付き合い方


ここまで書くと「魚だったら殺していいのか、化粧品や医薬品やそれこそ今回のコロナワクチンでどれほどの動物が実験に使われたのか知ってるのか」とか色々聞こえてきそうだが、私は原始的な生活に戻りたいわけでもないし、今は家族全員からきし元気だが、この先薬に頼ることだってあるだろう。日焼け止めやお化粧はなるべく動物実験をしていないとうたっているものを選び、したい時にする。つまり繰り返すと意識低い系だ。

今の私ができることは、何事も「もったいない」をとなりに置いておくことだけだ。できるだけ小さい単位で、小さい動きで、衣食住をまかないたい。つまり地産地消でいたいのだ。私たちの腸には、100兆以上の細菌が絶妙なバランスで生きているが、そのバランスを変えるのには3週間はかかるらしい。
そして何割かは、幼児の時に獲得した菌でできていて、外部から違う菌が増えると、脅かされそうになるから守ろうと必死で戦っている。
死ぬまで、それは変わらないそう。旅行して下痢するのは、そういうことだろうか笑

あと夫は、魚を食べる理由として「魚は哺乳類からだいぶ遠い」というおもしろいことを言っていた。距離にすると哺乳類だとか四つ足だとか、どこから遠いの近いのと分類するのかは難しいところだが、理論は置いといて、感覚で人間に近いものは、共食いにあたる、という意味だろうか。

そして、面白いことにそんな思考になっていくと、sns、特にクラブハウスなんかで出会う人たちの層がどんどん変わっていくというか。
私たち夫婦はリアルではまだまだマイノリティな方なのだろうが、クラハにいくと、実践者、見識者がいっぱいいてとても興味深いし、この方向で良いのだと自信が持てる。手仕事や料理の幅もますます広がる。
すごい時代になったもんだ。

しかしその一方で、このpcもスマホも、どこかの誰かを犠牲にして買い物し、発信しているという事実を忘れてはいけないな、と思う。

あの日から私たち夫婦は、当事者意識の荷物を持たない今までの列車を降りて、どうやら違う列車に飛び乗ったようだ。まさか中田のあっちゃんがきっかけの1つになるとは笑

あの日の夫との会話をきっかけに、この感覚を大切にしてちょっとずつオフグリット(=社会に張り巡らされた網目を解く)実験をしていきたい。

読んでいただきありがとうございました。
いつもの締め方。
買い物は、投票だーーーー! うおー

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