見出し画像

なぜ山に登るのか?「そこに山があるからだ」を平たく捉えてみる

今年は家族で何度か山登りに挑戦しているが、3歳の息子が町内の愛宕山(あたごやま)に自分の足で最初から最後まで登って降りたという、母としては成長に感動してしまう快挙を成し遂げた。

画像1


そして余談の衝撃としては、前に10キロほどの赤ちゃんを抱っこして、後ろに20キロほどのカメラ機材が入った亀の甲羅みたいなバッグを背負った夫が、何度もソロで撮影に行ってるはずなのに相変わらず山の中で迷い、めっちゃウロウロして蚊に刺されまくる、という私なら罰ゲームとしか思えない状況を清々しい笑顔で、「いい写真が撮れたー」と楽しんでいる絵である。

普段はパソコンとスマホしかいじらない、自分で持ち上げられるのは飼っている猫だけ、という未来人みたいな暮らしをしている夫が、撮影となると、アスリート並みの体力と根性を発揮することに毎回ビビる。

三児の父として、普段からその能力を小出しにしていただくことを進言する。

画像2

写真は、自分の命よりも大切なものたちにオレオみたいに挟まれて、山の中をさまよっている夫。

いつの時代も、山登りはえんやこら

イギリスの登山家、ジョージ・マロリーは「なぜ、山に登るのか。」という質問に対して、「そこに、山があるからだ。」と答えたという話は有名だ。でも私が好きなのは、周りが勝手に哲学的に捉えてしてしまっただけで、本人的には、登山家として世界最高峰に登りたかったために口にした言葉だったという、なんてことはない真実だ。

フォトグラファーに、
「なぜ、写真を撮るのか。」
と問うて
「そこに、カメラがあるからだ。」

的な返しってことか。当たり前やん。生活かかってんねん。安心しすぎてびっくりするわ。

なぜかルーツもないくせに関西弁風になってしまったが、話を本題に戻してみる。

画像5


私は父母兄の4人家族だったが、子どもの時、夏休みや冬休みの旅行は、サラリーマンの父が家族と必ず山登りをしたがった。
私はそれが、めっちゃ嫌だった。

東京の家を朝早く出て、2〜4時間かけて公共機関とタクシーで向かうのだが「今回の山はすごいぞ、どこどこ県のなんたら山だぞ」って毎回父は嬉しそうだった。
両親は全く知らないだろうけれど、私の一番の楽しみは、往復の列車で向かい合わせにして座れる座席で家族とトランプ等のカードゲームをして、駅弁を食べるということにあった。
列車では予約席じゃなかったり、席が分散されるとおかんの隣を巡って兄と熾烈な戦いがあった。おとんが人気ないことを本人が知って傷つくのがかわいそうだから、気づかれないように冷戦下でいかに早くおかんの隣に座るかというポジション争いに激闘したものだ。全部分かってしまうおとんかわいそう笑

登山道に到着すると、重たいリュックと、あー帰りたいという気持ちを背負わされて、4つ離れた兄のかかとを見つめながら、トボトボうつむいて歩くという。
いつの間にか私が背負っていたはずのリュックは親が背負っていて、だいたい三分の二くらい進んだところでついに私は泣き出して「ぎゃー帰りたい」となり出すのだった。
でも頂上までずっと励まされて、なんとか自力で登る。
そして山のてっぺんではおにぎりやチョコレートを食べて、コロッと笑顔になるのだった。

しかし今度は復路で、乳酸菌がたまりだした足が騒ぎ出しシクシクと泣きながら、「あーもう歩けない」と100パーなる。
しかしおとんの「おんぶするか」の申し出に対しては、小さい頭ながらここで背負われたら自分の負けだと思うのか、かたくなに断り、ブゥたれながらも、結局最後まで自分の足でやり切るという。

たぶん、「よくやったなぁ、えらいなぁ。」とか毎回両親に褒められたのだろうが、この経験からいわゆる達成感を得た記憶は一切なく、山登りでは、兄の汚いシューズのかかとの柄とおにぎり以外、視界には入っていなかった。

毎回、家族旅行に行ってしんどい思いをする度に、山登りなんか二度とやるもんかと思っていた。

そして、母になってもやっぱり山登りしていた。

でも、景色が全然違った。

幼い子どもの足元を気にしながらも、キラキラと木漏れ日が入ってくる木々のてっぺんを見上げ、鳥の声に耳を澄まし、ミントよりもシャキンとする空気を鼻から思い切り吸い込む余裕があるのだ。
進む度に状態が変わっていく大地をしっかりと踏みしめる足から、デトックスしているような不思議な高揚感があるのだ。

そして何より大きな違いは、私の子どもたちは山登りに関してポジティブで、弱音を吐かない。東京で育った私からすると、3歳で頂上まで独歩するとか、完全に無謀な挑戦だと思っていた。

でも、息子はやってのけた。しかも、往路も復路も泣いてない。楽しそう。何度もこけたり、急斜面を少しこわがったりはするものの、姉が「キノコだー!」と言えばすぐ触りにいくし、ドングリがあればポケットをパンパンにするし、夫が道を間違えて私が途方に暮れても、姉弟で勝手に棒切れで遊んでいる。

時間を逆算したり子どもの体力を心配して「もう今日は帰ろうぜ」と弱音を吐くのはむしろ私だけで、みんな、この時間をも楽しんでいるのだ。

画像3

なんで人は、アキレス腱を伸ばしまくりながら山登りするのか結論


普段忙しくしている私からするとこの状態は異次元すぎるが、時間が止まったような、そんな光景を振り返ることが今、とても幸せだ。

小さい姉弟が、急斜面を小鹿のようにプリンプリン飛び跳ねて駆け下りていく様をみて、

神様、ありがとうございます

ってあたたかく思う。

目の前にいる小さい子どもたちは、私の子どもの時とは、思考も機能もきっと大きく違う。
一番下の子なんて、まだ東京を知らないし、電車に乗ったらどんな顔するんだろうか、と想像する。
息子はこれを書いている今は4歳になったが、エレベーターとかエスカレーターも、まだ数えるくらいしか乗ったことないので、機会があると歩みを躊躇する。
おかしな話だが、私はそれをちょっと誇らしく思ったりする。

山川海に、子どもたちを連れ出す度に、
「遊びは、提供されるもの」だったのが、「遊びは、見つけるもの」に書き換えられていく。

山は、先生だ。私に全てを教えてくれる。
当時の父が言わんとしていることが、この歳になって分かってきた気もする。もっと早く分かりたかったが。

しかし私は、父母兄に加わって自分の子どもとやるトランプも、相変わらず大好きなのだった。

画像4


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?