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箱のなかのわたしと 『橋からの眺め』

私の名前には、「視野を広く持てる子になるように」という願いが込められていると知ったのはいつだったか。
その時は、けっこういい名前だな、と思って気に入っていた。

今でも自分の名前は好きだ。聞き取ってもらいにくい名前だけど。
ただ、「視野を広く持つ」のはかなり、かなり難しい。「井の中」から出られて、大海に行けた!と思ってたら池ぐらいだった、の繰り返しである。

特に私は「自分の世界」を大事にしてそこに閉じこもるタイプだ。「自分の世界」が壊されるのではないかといつもびくびくしている。

だから他人事だと思えなかった、『橋からの眺め』。アーサー・ミラー原作の演劇で、主人公は1950年代のアメリカに暮らす男性、エディー。

エディーは常に怯えている。かわいい姪キャサリンがどんどん自立していくのを、イタリアから来た移民のロドルフォがキャサリンに近づくのを。
どうにもならないことでひたすら悩み自棄になっていくエディーとその顛末が描かれる。

「マンボックス」という表現があるが、エディーはまさに男らしさを体現しそれに囚われているような、男らしさと恐怖の間で引き裂かれているような男性だ。演じる俳優も体格のいい人で、腕っぷしのいい彼が椅子を持ち上げたりテーブルを叩いたりすると迫力がある。というより恐怖。

周りを恐怖に陥れながら、エディーは箱の中で必死に自分の世界を守ろうとしていたんだろうか。
エディーを家父長的で人種差別的だと非難することもできるだろうけれど、私には他人事に思えなかった。自分の今の生活が、誰かに、何かに脅かされるのではないか? その恐怖が憎しみに変わるのは私には十分あり得そうで怖い。

エディーの憎しみは移民に向けられる。橋からの眺めに期待を抱いて来た移民と、その光景が恐怖に見えるエディー。その差は絶望的だ。

結局エディーは、自分で自分の首をしめる形になってしまう。箱の中で窒息してしまう。
井の中で生まれるんじゃなくて、自分で自分を井の中に追い込んでるのだ、と気が付けるのは外に出てから。
「自分の世界」に固執なんかしてない方がいいのかもしれない。


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