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帰りたい、帰らせろ――『とにかくうちに帰ります』

 この間、映画『アシスタント』のレビューを書いた。そのあとすぐに読み始めたのが津村記久子の短編集『とにかくうちに帰ります』。『アシスタント』のパンフレットには津村記久子が寄稿していて、やっぱり!と思った。それでなんとなく本書を手に取ったのだった。この短編集はまさに『アシスタント』で描かれていたような仕事の話で、なんというタイミングだと思った。

 本書には「職場の作法」「バリローチェのフアン・カルロス・モリーナ」「とにかくうちに帰ります」の3作品が収録されている。

「職場の作法」


「職場の作法」はさらに4つの短編にわけられている。メインとなるのはいずれも女性社員。彼女たちがこなす業務は男性社員からはやや軽んじられている。こんなことは簡単にできるだろとばかりに、時間ギリギリに書類を持ってくる男性社員、有名人をいとこに持つ女性社員に絡む男性の上司……。そのあたりの描き方は見事だ。

私も常務とは何度か仕事をしたことがあるので知っているのだけど、確かにあの人は指示が突発的で、社内で女がやっている仕事を軽んじる傾向にある。そのくせ、仕事を渡せば、期限すら示さなくても、私たちが私たちでも使えるような簡単な魔法を使って、なる早で作業を仕上げるものだと思い込んでいる。

津村記久子「ブラックボックス」『とにかく家に帰ります』p.11

私のお気に入り「ブラックボックス」には、そんな社員に反撃し、相手によってはわざと仕事を遅らせる人が出てくる。主人公がこっそり観察している田上さんは、失礼な相手には相応の態度(仕事ぶり)で応じるのだ。しかし一人の人間の「いい面」と「悪い面」、相手を美化することの問題点にもふれている、とても面白い短編だ。特にラストシーンに唸った。

「小規模なパンデミック」も、今読むとコロナのパンデミックを思い起こす(この作品が刊行されたのは2012年)。インフルエンザが流行っているのに体調が悪くても出勤する人々。そのうち会社では一人またひとりと病欠が増えていく。マスクがなく不安なまま出勤するところなど、2020年が思い出されて生々しい。

『とにかくうちに帰ります』


 そして表題作の「とにかくうちに帰ります」。大雨の中、なんとか家に帰ろうとする数人の社員を描く。豪雨のなかを歩き、コンビニでレインコートを買い、バスには乗れない。ひたすら「ああ家に帰りたい」という「それだけ」の欲求が切々と綴られていく。大雨の日に、「なんでこんなことに」と思いながら歩いたことのある人はいるだろう。そのときの「うちに帰りたい」という思いが呼び起こされ、ため息をつきたくなるのだ。この「うち」とはきっとくつろげる場所、休める場所、自分だけの場所のことだろう。古いアパートかもしれない。一軒家かもしれない。とにかく「うち」だ。登場人物はままならない日を生きながらも、それぞれがうちに帰りたがっている。さらに、そういう「うち」がない人のこともきっと想定されている。そんな気がする。疲弊したときに読みたい。鼓舞されて頑張りたいときでなく、どうしても休みが必要なのだと思うときに。

『とにかくうちに帰ります』
津村記久子 2013年 新潮文庫

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