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友達という概念について哲学してみる

最近やたらと哲学という文字を使っているが、実際問題、何が哲学で何が哲学でないのか、知らない。

哲学のクラスを取ったとこがあるけれど、教授におすすめの映画を教えたらそれが教材として使われ始めたので、たぶん私が思う哲学は哲学なのだろうと思う。
(数年後、その教材を巡って教授と大学側が揉めたと耳にしたが、体調が悪かった私には何も行動を起こせなかったことを今もたまに思い出して胃がキュッとなる)

私は非対面で営業系の仕事をしており、かつては店長兼販売員もしていたくらい接客を長く続けている。
学生の頃は親の知り合いのお子さんの家庭教師と、田舎すぎてかろうじてコンビニがあったのでそこでバイトしていたので、ともかく、接客一筋だったことに今気づいた。

たまに会う人とか、その場限りの関係性はとても気楽に対応できるし、仕事という枠組みの中で取り組んでいる作業のようなものだと思っているので、どうにかこなせている。

ところが、休憩に入ったり仕事が終わったりすると途端にぎこちなくなってしまう。
余程のことがない限りは自分からアクションをしない。
私の場合、基本的に意識していないと人里離れた山奥状態に心身共に勝手に行ってしまうようだ。

小学生の高学年になるまで学校が終わってから遊びに行ったり、休みの日にも友達と会ったりするという時間を多くの人が持っていることを知らなかった。
親の仕事の都合で学区外の隣の市の保育園で育ち、人間関係が苦手な親の都合でだいたいいつも孤立して生きてきたという影響もあるのだろう。

小学5年でクラスの女子から無視をされるという状況があったことは、私が一人でいる状況を自覚させた。
なんで無視されていたのかは忘れたが、そもそも常に単独行動していたので、そういう空気読まない感じが気に触ったのかもしれない。
無視されていたけれど、個人的にいつも親切にしてくれる子がいて、その子とはプライベートでもたまに会ったりしていた。
嫌われることが多いけれど、特別に好いてくれる人もたまにいたのだった。

基本的に空気を読まないし、読めていないこともあるし、読めていても自分の気持ちを優先するのできっと永遠にあの輪の中には入れないだろうと今でも思う。

そして、これからも堂々と生きていくのだ。
友達という輪に縛られずに、自由に孤独に気ままに。

基本的にはフレンドリーな外国人みたいな感じなのだ。
仕事でも海外の人とやり取りすることが多く、気が合う人には外国人の人が同じくらいいる。
距離感が合っているのかもしれない。

昔通っていた英会話スクールの先生からも言葉のセンスが本場の人と同じで、性格も本場の人と変わらないね、と言われたことがある。
先生は日本が好きで日本にいるけれど、先生より本場の外国人みたいだよ、とのことだった。

大阪にある、前世らしきものが見てもらえるカフェでみてもらった時、直近はアメリカ人の学校の先生だったらしい。
なるほどね、と思った。
ちなみに大阪の前世が見られる人は、本人も言っていたけれど『ただ見えるだけ』とのことでした。
妙なことは何も言われなかったし、土日に行けばケーキも食べられるらしい。
平日だったので、ケーキがなくて残念だった記憶が有る。
今も営業しているのだろうか。

あった。
カフェローデストン
YouTube始めてたみたい。
10年前くらいに行ったので、YouTubeの奥さんの雰囲気変わってて時の流れを感じた。

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