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思考


現状に満足していない。ただそれだけがはっきりとわかっている。満足するためには何をすればいいのか。どう動けばいいのか。そもそも私はどうなれば満足するのか。満足って、何? まるでわからない。

18時に全部が白紙になって、21時から映画『何者』を観始めた私はドの付くMらしい。何が面白くて当日中に直球の題材を取り扱った映画を観ようと思ったのだろう。でも、なんというか、観てよかった。大きく得たものは特にない(そもそもすでに観たことがある)けれど、よかった。それが約1週間前。

あまりの情けなさに呆然としている。もう一度挑戦するにはあと一年。他の手もあることにはあるけれど、現実的に考えてほぼないと言っていいと思う。現状に満足していないと言いながら、理想のステージに立つためにまたもう一年頑張らなければならない現実に途方に暮れている。私って何がしたいんだっけ。なんで今こんなことになっているんだっけ。私文章書くの好きだったのに、なんで今書けないんだっけ。何をすればいいのかもわからないのに、焦ったって仕方がないのに、そこに行き着くまでの時間がかかり過ぎることを憂える。


私は「好きを仕事にしたい」のではなくて「好きを仕事にしている人になりたい」のかもしれない。その場所で生きていくために必要な力を鍛えることよりも、その場所に行くためのステップを早く駆け上がることしか考えていない。好きなことをしているだけだから、と言って過酷な世界で満面の笑みで煌めく推しに対して、すごいなぁとか素敵だなぁとか考えるよりも先に、強烈な対抗心が芽生える。そんな努力したこともないのに。

恋愛や結婚等、20代半ばとして差し掛かるライフステージの階段に今は全くもって興味が持てなくて、その分「好き」が好きで、「好き」に触れている時間、これを生業にしたいと思う。図書館戦争を読んで「好き」を生業にしたいかもしれないと初めて思った高校生の自分。そのときから、「好き」の先には自分の未来がある、……ような感覚をずっと持っている。きっと、こんなのなかった方が良かった。なかった方がもっと純粋にエンタメを享受できた。ライブを観ても舞台を観ても本を読んでも音楽を聴いても、いつだって、「これに言葉で関わりたい」に辿り着く。だから、もうその感情なくしてエンタメに触れられる自分が想像できない。夢を諦めきれないというより、夢を諦めるのが怖い。「好き」の先にはいつだって「やりたいこと」があった。だから「やりたいこと」がない自分はきっと、「好き」がない人間になる。

ここに好きな人とか、恋人とか、少し飛び越えて子供とか、そういう別ジャンルの人生の軸?みたいなものがあれば違ったのかな、とも考える。仮に今恋愛的な意味で好きな人が目の前に現れたとして、運よく結ばれたとして、じゃあもういいや、仕事は仕事、って、なるのかな。

こんなの全部予想で、自分で想像しうる予想なんて当てにならないことは十分学んできたつもりだけれど。でも怖い。生きていくお金をもらうために仕事をしながら、趣味は趣味で楽しむ、という割り切った生き方をしている自分が、全く想像つかない。ていうか今読み直して「こんなのなかった方が良かった」って流れるように文字を打ち込んでいる自分にゾッとした。

年が明けて以降、暗いことばかり書いている。……という文を毎回書いている気がする。だけどもうこの際沈めるところまで沈んでやろうかと思う。底の底まで沈みきったら上がるしかなくなると知っている。沈むことに飽きるタイプだとも自覚している。てかそもそも私は今までだってそうやって、地中から地上へ蘇ってきた(ゾンビ?)。こうなったら気が済むまで考え込んでやる。んなこと言いつつもう
一年やるしかほとんど解決策はないと思うので、ネットの海に放り込む文章だけでも丸裸になりながら、その時々に合わせて浮いたり沈んだり盛り上がったりときめいたりたまに下がったりしたい。この段落あたりから何だか勢いに任せてヤケクソ気味にだんだん明るくなっているあたり、私らしいなと思う。


自分で書いていながらマジで意味のわからない文章。
ここまで読んでくれたあなたへ、ごめんね、ありがとう。


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