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遊びと仕事の違い / 収束点の位置

遊びの興味のあるメンバーと遊びについて話し合う「遊びを語り会」。
その第二回が開催されました。
その話し合いの中で個人的に一番興味深かったテーマが「遊びと仕事」についてでした。

話し合っているメンバー3人は成人済みで、それぞれの仕事をしています。(自分はだいぶ特殊ですが)
そうなるとやはり仕事の話が多くなります。
大変なことも、辛いことも、逆に面白いことも、嬉しいこともあります。
そんな仕事というのは遊びの目線から考えると何者なのでしょうか。

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遊びという言葉も広くて曖昧なものですが、仕事というのもまた同じく大きいもので、お金のためだったり、生きがいだったり、職種や個人によって全然違うものになります。
そういう意味では仕事と遊びというのは明確に分けられるものではないでしょう。

その事実を抑えつつ、それでもやはりこの2つの言葉にはそれぞれ違った特徴があるという事実について考えたい。
重要なのは遊び目線における仕事についてなのだ。
正しい仕事の捉え方を目指すわけではない。
仕事というのを一種の遊びとして捉えてみたいのだ。

この話を考える時、「遊びのサッカーと体育のサッカー」一番に頭に浮かんだ。
友人とグラウンドで無邪気にボールを追いかけて、蹴りあったサッカーと、 体育の授業でするサッカー。
同じサッカーという言葉でまとめられるが、その自分という遊び手の楽しさは全然違うものになっていた。
そういう経験は、誰しも違う形で感じたことがあるのではないでしょうか。

体育のサッカーというのは仕事ではないが、この例は遊びと仕事の関係をわかりやすく表したものなのではないかと思う。
この具体例をもとに違いを考えてみると、大きな違いは「収束点」ではないかと考える。
サッカーという行為が一体何に、どこに収束されていくか。

遊びにおけるサッカーの収束点は「プレイヤー」だ。
プレイヤーが楽しいか楽しくないか、それが重要なのだ。
プレイヤーという軸があり、その周りにボールだとか、友人といった要素がある。
プレイヤーが要素に対する影響は、そのプレイヤー自身に収束されていく、それが遊びだ

逆に体育におけるサッカーの収束点は「学校」だ。
もう少しはっきりさせるなら「体育の教師」だろうか。
いわゆる体育の評価点に収束されていく。
体育の授業にそんな大袈裟なこと考えるかと疑問もあるかもしれないが、もちろん人によってはそんな収束点なんて無視して、気ままに楽しく、自分の収束点で捉える人もいるし、そもそもサッカーが上手いに人は体育の評価点なんて気にしなくていいのだ。
それはつまり、体育の収束点以上に、自分の収束点が中心をさらに小さく捉えているのだ。
そういった個人個人の姿勢は置いておいて、体育のサッカー自体の収束点はその個人の外側なのであるのには変わりはない。
それは個人の収束点の評価が悪い、良いは直接的には関係ないのだ。

この構図こそまさしく仕事と遊びの関係を表しているように思うのだが、どうだろうか。

遊びと仕事というのは、遊びと社会とも言えるだろう。
その二つの大きな違いは収束点がプレイヤーの内側にあるか、外側にあるかが大きな影響を与えている。
そして、遊びの中に仕事という要素はあり、仕事の中に遊びという要素はある。
つまり、仕事を楽しむ上で大事なのは、仕事における収束点を理解することと、その中で自分の収束点をいかにうまく置くことができるかではないかと思う。
この構造をごちゃ混ぜに考えず、きちんと整理することが何より大切だ。
一番恐ろしいのは内と外のズレだ。

そう思うと大人になればなるほど、仕事、つまり自分の外の収束点についての動きが多くなる。
社会に生きる以上、それは逃れることのできないことだろう。
しかし、忘れてはいけないのが社会の前に、自分自身があるということである。
社会というのは個人を一人一人向き合ってくれることはない。
それはしょうがないし、というかそうでないと逆に困る。
自分自身を見ている人は、自分自身であるということ。
そしてそれこそ「遊び」という言葉が近しい存在だ。

そういう意味では遊びは社会とは方向性が逆なのだ。
逆というと全く違う風に聞こえるが、そうではない。
積み立てると掘り起こす。
進む方向が違うのだ。
もっというなら社会と逆方向であることで社会に貢献しているのだろう。

遊びと仕事、社会、内と外の収束点。
ここから今度は「遊び」について着目していくと、より「遊び」というものの属性がはっきりしてくるのではないかと期待している。
やはり遊びというのは面白い。


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