見出し画像

それぞれの「遊び」の付き合い方

先日、「遊び」に興味を持つ3人でお話をする機会がありました。

1人はだっきーさん。
発達心理学から遊びを捉えている方で、今は障害者の福祉支援の支援員をやられています。

もう1人はゆーだいさん。
ゆーだいさんの方は教育から遊びを捉えている方で、今は保育士として活動されています。


お二人は以前から個々で関わりがあり、遊びについてお話してきたのですが、今回はだっきーさんから3人でお話してみないかとお誘いをしていただき実現することができました。

---

3時間ほどみっちり遊びについてお話しましたが、3人とも同じ「遊び」について興味を持ちながらも、3人とも違う「遊び」を扱っているようにも思いました。
これは以前からお二人とお話している時から感じていましたが、自分の注目している遊びというものは、遊びの中の一部分と言いますか、遊びの接し方、遊びとの付き合い方が違うのです。
ですので、お二人からのお話は自分の見ている遊びとはまた違った角度からの遊びであり、それはとても良い刺激を与えてくれました。

ゆーだいさんの遊びの話は、教育というバックグラウンドが大きくあり、実際に保育の仕事をしている中で感じている教育での遊びの扱い方の問題や、遊びの可能性などを教えてくれます。
自分の子供、学生時代の時、特になんの疑問も持ちませんでしたが、所々で遊びを大人が奪い去っている場面はあったように思う。
子供の遊びを守ること、大人の遊び方の捉え方を正すことは社会的にもとても重要なんじゃないかと思う。

だっきーさんはより記号的に遊びを捉えている印象で、人は遊びから始まるといった生きる上での根源的な力であるというもと、遊びを観察している。
だっきーさんが関わっている障害者の方たちにこそ遊びが重要であり、遊びを通して人や社会を関わっていく手助けとなる。
普通、無意識のうちに遊びを学び、進んでいく。
それが困難だからこそ、丁寧に遊びを捉えていくことが大事であり、無意識に過ぎ去っていく遊びの現状にも注目し、向き合っていかないといけないのだと思う。


そういう2人の遊び観があるからこそ、じゃあ自分の遊び観はなんなのか、どう付き合っていきたいか考える。
僕は遊びの構造というものが好きなんだと思う。
これは曖昧で、簡単に見えるわけでもないし、色々な要素から影響を受け合って出来上がるものだ。
故に遊びの構造など、解き明かすなど到底できないことだと思う。
だからこそ、僕は遊びの構造を紡ぎたい。
紡ぐことで遊びの構造というものを証明したい。
それが僕がしたい遊びの付き合い方。

正直言って正義も悪も興味はない。
もっとその先の新たに広がる遊戯空間がみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?