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遊びを知るために遊ぶ

遊びを考えるとき、何か面白いものを作ろうとすればするほど作れなくなる。
遊びについて考えれば考えるほど、遊びを見失う。
遊びを考える上で「遊び」と「面白い」と「楽しい」という言葉はなるべく使わない方がいい。使っちゃうけど。
それくらいこの言葉に意味くらい曖昧でデカすぎる。
学校の中で起きた事件に対して、「犯人は学校の中にいる」と言っているくらい不毛だ。

それよりも日常に目線を向けた方がいい。
日常のものには意識していなくとも、ある程度理解している。
そういう手触りとか、感覚的に把握できるものから始めるといい。
そしてそれを分析していくわけだが、その時にその日常のものを大きく崩してみるといい。
言うならば、それで自分自身がまず「遊ぶ」のである。
例えばそれらを切り刻んでみるとか、描いてみるとか、違うところに持っていくとか。
そうやって当たり前を崩したとき、生まれる違和感や気づきが遊びのカケラである。
それは崩したとき、始めたわかったりする。

そしてそもそそも自分自身がそれで「遊ぶ」ために工夫するということ自体が遊びのデザインの重要な部品になる。
遊びを作りたいなら、まず良き遊び人ならないととつくづく思う。

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