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観戦と遊び

父がオリンピックのサッカーの試合を観ていた。
それはもう近所迷惑になっているんじゃないかと、不安になるほど盛り上がっていた。
僕もサッカーの試合を観るのは好きだが、こうもやかましい人がいると楽しめないので、そそくさと自分の部屋に退散し、うっすら聞こえる父の声から試合の状況を把握していた。

それにしても父は楽しそうである。
応援というより、ほとんど罵声であり、一見怒ってるように見えるが、なんだか楽しそうである。
「観戦」とは「戦いを観る」って意味だろうけど、あの様子じゃむしろ「観て戦っている」が正しいと思う。

実際、父は画面を観ているだけだから「戦ってはいない」のだが、「戦いを楽しんでいる」のである。
そして画面の中の選手たちは、実際にこのクッソ暑い中「戦っている」わけだが、「戦いを楽しんではいない」。
楽しんでいないというとなにか語弊があるが、楽しんでいるというより、もっと本気のところのやりとりであり、楽しむという言葉はどうも似合わない。
選手たちにとって「楽しい」とは、後にやってくるものである。
しかし、観戦者にとって「楽しい」とは、観戦しているその時、今現在である。
これって結構面白い構図だと思う。
「戦い」を楽しむには「観る」くらいの距離感が丁度いいのかもしれない。

また、父は思うがまま気持ち、感情をその時、その場で表している。
それって当たり前のようで、なかなかできぬことである。
人は何かを発するというのは、基本、外の誰かに伝えるためにやるわけだが、その外へ出した瞬間それは社会性を帯びてしまう。
人は常に外の周りを多少なりとも意識して、何かを発しないといけない。
極端に言えば、自分の中というのは常にブレーキがかかった状態である。
これを自分のために、自分を発するという状況はなかなかないし、その状況がない中で行うのは難しい。
そんな中、「応援」という形態は、遊び手にとってとても心地よいものだ。
「応援」という形態に乗っかることで、自分の感情を、自然な形で発することができる。
また、テレビくらいの応援の距離感が丁度いいだろう。
その「応援」がたとえ罵声だとしても、それは選手に届かないのだから、なにを気にすることなく自分の内を発することができる。
心配するのは近所迷惑くらいだろう。

こんな感じで父の観戦の姿を思い出しながら、「観戦」を一つの遊びとして捉えて、その遊びの構造を考えてみた。
テレビ観戦とは、ついつい声を出してしまう魔性のような力があるように思う。
そして、声を出せるということは、結構面白いことでもある。
今後も近所迷惑にならない程度に、観戦を楽しみたいものである。

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