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生産性という名の呪いについて


少し前まで、「何もしないで過ごす」ということに、私はものすごく罪悪感を抱いていた。
体力に余力があるならば、何かしなければならないと、何か身になるような、為になるような、生産的なことをしなければならないと、そう思っていた。

大好きなゲームでもそうだ。どうせやるならば同じゲームではなく、なるべく新しいものを。
あつ森でもなるべく新しい家具をゲットできるように。それが難しいなら、持っている家具をリメイクして、少しでもカタログの中身が充実するように。

昨日より一歩も進んでいない、生産性もなく、ただ無為に時間を過ごすということが、許せなかった。そんな自分が甘えているように思えて、自分で自分が許せなかった。

理想の自分というのがある。平日は仕事をして家に帰って、実家暮らしなので家事を少しでも手伝って、趣味も充実させて。
休みの日も早起きをして、普段できないことを思い切りして。
noteももっと頻度を多くして、もっと実りのある、誰かの役に立てるような、そんな記事を書ける自分になりたかった。今もなりたい気持ちがある。

けれど現実には、私は休日は8時間近く寝てしまうし(目覚ましをして早起きしても途中で昼寝してしまう)、平日は仕事をして帰ってきて、家事を少しすればもう疲れてヘロヘロになってしまう。
そして仕事中考えていた「今日帰ったらやりたいこと」が全くできずに、自分が情けなくて嫌になる。

もっと上手く時間を使って、効率よくできたらいいのに。
なんで自分は他の人のようにできないんだろう。そう自分を責めて、居た堪れなさで現実逃避にゲームをして、そんな力は残っていることと、生産的なことをしていないという事実にまた情けなくなって。
そんな負のスパイラルを繰り返していた。

ふと先日「自分のこの強迫観念に似た気持ちは、どこから来ているのだろうか」と考えてみた。
なぜ、生産性というものに私は拘っているのだろうかと。

そもそも生産性という価値観は、おそらく社会的なものだ。
人が社会を営む上で生まれた概念で、ただ本能のままに生きる生物にはないものだ。
社会がより経済的発展をするために生まれたもので、たぶん高度経済成長期に深く浸透した概念だと思う。より多く、より効率よく、より質の良いものをと。

けれど個人の人生において、そこまで生産性を求める必要はないのではないだろうか。

会社では生産性が求められる。会社は利益を上げることが目的であるし、自分は労働に見合った対価として給料をもらっている。
社会人として生きる上で、生産性を求められるのは当然なことだ。「社会」を逆さまにすると「会社」になるし。

でも会社から離れた家での、個人の生活の部分では、生産性という考えを手放してもいいのではないか。

個人として何か目的があって、成し遂げたいことがあるならば、それに生産性は伴ってくるだろう。副業、起業など、お金が絡んでくるなら尚更に。

でも、私生活の中でただぼーっとして過ごす、ということは、別に悪いことではないのでないか。
私は、何にいつも追われているのだろう?

そう思って先日、自室でいつも「何か情報を得なければ」とBGMとして流していたyoutubeの番組の再生をやめてみた。
そして、ただやってみたいことが思いつくまで、なんとなしに過ごしてみた。
先月奮発して買ったばかりのゲーミングチェアで、フットレストを出して、足を伸ばしてのんびりリクライニングを後ろに倒してみた。

ゆっくり時間が流れていた。

いいのかな、という気持ちがまだ拭えなかった。このぼーっとしている時間に、何かできるのではないだろうか、という気持ちが微かにあった。
でも、あえてその心の囁きに蓋をして、ひたすらに無為な時間を過ごしてみた。

身体が楽だった。日々の労働で疲れた足が、重力から解放されて喜んでいる。

微睡むような心地になって、でも寝てしまうと夜眠れなくなるからと、目だけ閉じていた。

急に「そうだ」と、あることを思い出し、居間に向かう。録画したいと思っていた番組の存在を思い出したのだ。
録画予約を終えて、番組表を消すと、テレビ画面をしゅたたっと猫が横切っていた。

世界ネコ歩きだ!うわ、久しぶりだなぁ。

以前は毎回見ていたのに、いつの間にか忙しさにかまけて見なくなっていた。
しかも見るときは、劇的な展開もないからと二倍速で見ていた。

リアルタイムでゆっくりと、居間の椅子に腰掛けて眺める。
ネコの目線で、ゆったり流れていく世界。
岩合さんの優しい声。穏やかなナレーション。
その時間に、どっぷりと浸っていた。

こういうことなのかもしれない、と思った。
ただ在るがままに過ごすということは、こういうことなのではと。
無為に過ごすということ、ではなく。岩合さんが撮っていたネコたちのように、ただひたすらに在る。こういう時間を過ごすことは、けして悪いことではないのだと。そう思った。

そうしたら、久しぶりにネタが思いつかない、書けないと思っていたnoteを開きたくなっていた。
そして数日後、今こうして綴っている。

誰かの役に立つか、という視線で見たら、きっとこの記事は役に立つようなものではないだろう。生産性というものとは真逆の質のものだ。
でも私は私なりの、小さな気づきを得た。ちょっとだけ、息をするのが楽になった。
その記録として、綴っておくことにします。

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