子どもと舞台芸術のある生活・人生を考えつつ、スーパーボールをすくう時間に

子どもと演劇について考える会に行ってきた。
和やかな、かつ慌ただしい時間の流れる会だった。
それは参加しているお母さんたちの「普段」の時間だった。

お母さんと舞台関係者の両輪で、走っている先輩方。
話を聞きながら「分かってなかったな私」と様々に思い知っていった。
その感情を説明するなら、圧倒的に「子どもがいないから分からない。不自由さを共有した気になってはいけない」という子どものいない罪悪感?のようなもので、
それを(勝手に)感じている自分に気がついた。
(思えば保育園での仕事でもそうだった)

でも、分かっていないことを分かることは良いことという確信はあったので、
親でない今の身だけど、親でない今の身だからこその「なにか」を実行したいという思いが募った。
ものすごく募った。

「なにか」は話の中で具体化していった。
具体的には稽古場でのシッターシステムを実現したい。
子どものいる人が定期的に話をする「場」を設けていきたい。

そして「舞台関係者相互ネットワーク」のテーマが出た。
保育士資格取ったからといってサクッと実現できるわけではない。
実現するにはクリアしなければいけないことが多い。
同じ思いをもってくれる人はいるのかな。



「子どもを諦めなければよかった」

「舞台を諦めなければよかった」

どっちも悲しすぎる。

そんなことを感じないような「社会」を夢見るけどそれは壮大すぎるからせめて、そんな「業界」にしたいと強く強く思う。でも現実、あまり理解されない。
理解されないというのは、それを話してもピンときている人がいない。
なんでそんなに必死になっているの?と言われる。
わかる。
わたしには、子どもがいるわけじゃないのにね。
でも「なんでそんなこと聞くの?」と強く思う。
この危機感を共有できないことがなぜかとてつもなく悲しい。
孤独感に泣きそうになる。

おそらく年代や男女差とかではなく
「子どもの存在する日常をリアルに感じるかどうか」なのではないか。
これは家庭に限らない。
電車で、レストランで、観客席で、職場で、稽古場で、
世界では子どもが生活していると分かること。
子どもを当たり前としていくこと。

みんなけっこう、排除しようとする。
意識的にじゃなく無意識に。
子どもは保育園や「周りの誰か」に預けるのが当たり前だと思ってる。



会社に行くと「男性の育休推進!」というポスターが貼ってある。
契約社員でも、産休がとれるらしい。

でもフリーランスの人たちがいて回っている舞台業界は、同じようにはいかない。
なぜなら「替が効かない」「唯一」の存在として、劇場にいるから。
(でもそれって社会の動きと逆行しているのでは)

あの大きく偉大な劇場でさえも、子どもがいる舞台関係者に強くあたったケースがある、らしい。

子どもは、「生活」そのものだ。
「生活」と「舞台芸術」は、実は相容れない。
舞台芸術に携わる人の多くは
「舞台芸術」>「生活」
として生きてきているのではないかと思う。
そうさせるような魅力があるし、そうしないと追求できないような果てしなさがあるから。

舞台芸術を生きがいにしてきた人に急に、生活を生きがいにしろなんて、無茶な話だ。
でも、そのうえでも、生活が優先されなければ、
産休育休の概念の薄い舞台業界は、マッスルが生き残るか、そもそも子どもと子どもをもつ人を排除していくか、どちらかしかないのでは。

産休育休の制度が無いのなら、先陣切って、「共助」していくべきなのでは、、、


子どものいる舞台関係者の知り合いは、だいたいの場合、創作の時間は自分のお母さんに子どもを預けているということを、私はあるときから気づいていた。
周りに助けてくれる家族や友だちや優しい人がいていいな。


子どものいるお母さんが、「ごめんなさい」と口ぐせのようになっているのを見ると悲しくなる。

親になった人や、自分が親になることを、本当の意味で認められるような自分になりたい。

このテーマ、考え続けるしかないと思ってる。

この先子どもをもっても、もつことがなかったとしても。

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