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罰を免れていることが真の罰であるという話

昨日、友達が家に来て一緒に酒を飲んだ。その時どうやら俺はこのようなことを言ったらしい。

言ったらしいというのは、酔って詳細をよく覚えていないということであり、また常々思い、時々口にしていることでもある、ということ。

例えば、恋人と破局して、別れ際「私はあなたを忘れない、自分の決めた道に進む」とご立派な決意表明をしたとする。或いはされたとする。どちらでもいい。どちらかが、もしくは両方がしたとする。だが、その決意表明をした本人はそうは言ったものの離別後の孤独に耐え切れず、自分の言葉を裏切り、進む歩みを止め、適当なやつに甘え、元の木阿弥になってしまったとする。それで誰が一番キツいか。戻ってしまった本人だと思う。そいつはきっと一時の安寧を得る代わりに、自尊心が欠落する。そういう自分を誤魔化すために次々と他人に甘える。人を乗り換えるようにして生きていくことになる。ポンポン乗り換えられているうちはまだいい。いつか都合のいい相手なんていなくなる。そうしたらおしまいだ。

これは恋愛に限った話じゃない。例えば誰かを欺いていた場合。その嘘が最後までばれず、利益をせしめたとして、結局誰が一番つらい思いをするか。それは利益を得た本人だと俺は考える。小さな視点で見ればうまくやれたかもしれない。でも「嘘がばれなかった」という成功体験は確実に脳を蝕む。別の誰かにまた嘘をつき、自分を偽ることや逃げることを覚えるようになる。自尊心は肥大し、自己認識の誤差は広がり、そのさらに先にはジワジワと真綿で首を絞められるような緩慢な滅びが待っている。

嘘や卑怯が暴かれ裁かれたとしたら、それはむしろ幸せなことだ。ずっと裁かれることなく、後ろめたさを抱えながら無様に生きて孤独に死ぬことこそが本当に惨たらしい終わりだ。この世界の神様はとても意地が悪い。自分に背いたものを決して許さない。だけど、許さないからと言って罰を与えるとも限らない。罰とは救済の意味を持つからだ。

これを回避するためには自分自身に罰を与えれなければならない。冒頭の例に戻ると、恋人と破局し「私はあなたを一生忘れない、自分の決めた道に進む」と決めたなら、その宣言どおり、孤独や虚無に耐え、喪失の苦しみを全て受け止め、適当な他人で誤魔化そうとするのではなく、自力で乗り越えること。これこそが救済に繋がる。失恋という喪に服す期間を経なければ、永遠に失恋の喪失は受け入れられないままだ。

まあ要するに、俺が失恋して虚無ってるのを慰めに友達が来てくれたという話なのである。昨夜は部屋でガブガブ酒を飲んだ挙句、「散歩しようぜ!」ということで夜の池袋を徘徊し、メイド喫茶の呼び込みのお姉さんに冷やかしで声をかけ、セブンイレブンでトイレを借りようとしたら「うちトイレ貸してないんですよ」と言われムカついて建物の横の茂みで放尿し、友達の元カノが昔住んでいたというキャバクラの寮を女々しく見学しに行ったりしました。いい年して何やってるんだろうな。

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