狭間カフェ

人は死ぬと、天国と地上の間にある<狭間カフェ>に送られる。
そこは美しい晴天が広がっており、雲が近い。心地よい風が吹いていて、訪れた魂はどこか懐かしい感覚に覆われる。天まで届きそうな樹齢三千年の巨大な楠の下に建つ三角屋根の小さなカフェ。
この店の店長、春宮は困っていた。ある男性客が閉店間際になっても帰ろうとしないからだ。何か理由があるのか、と声を掛ける。
「おかわりはいかがですか?」
「じゃあ、オススメを」
「では、メモリーコーヒーなどはいかがでしょう」
「どんな味ですか?」
「天国で取れた豆とお客様の大切な記憶を一つ、ブレンドさせて作っております。
本来天国に行くと地上での記憶は薄れていきますが、このコーヒーを飲むと選んだ記憶だけは生まれ変わっても心の片隅で覚えていられるのです」
「素敵ですね。それでお願いします」
「かしこまりました。では、目を閉じて一番大切な記憶をイメージしてください」
男は目を閉じ想像する。
途端に頭のてっぺんから、白く光る小さな球体がふわふわと浮かび上がり、春宮はそれを優しく両の手で包んだ。少々お待ちくださいと言い、カウンターに入り、お湯を沸かす。
フィルターにコーヒー粉を入れた後、ガラス瓶に入れていた球体を取り出し、フィルターの中に入れる。すると小さくパチンと破裂音がし、球体はキラキラと輝く金色の粉に変わった。沸騰したお湯を注ぐと店内は優しい香りに包まれた。
「お待たせいたしました」
目の前に出されたコーヒーを一口飲むと、男の目から涙が溢れた。
「美味しい。一生忘れたくないなぁ」
「どなたかお待ちですか?」
「話せば長くなりますが」男は静かに語り始めた。

彼の名は山本孝宏、二十六歳。広告代理店に勤務している。
彼には付き合っている彼女がいた。専門学校で出会い一目惚れするも、友人止まりでいた。卒業後、偶然同じ会社に就職したが、奥手だった彼は社会人になっても告白する勇気が持てなかった。そんな中、彼女から告白され付き合うことになった。嬉しかった彼は彼女との結婚を真剣に考えていたが、契約社員であったため正社員になってプロポーズしたいと思い、精力的に仕事をこなしていった。その努力が認められディレクターに昇進したが、以降仕事量が急激に増え残業が多くなり彼女との時間が取れなくなっていった。
 それから半年が経った頃、彼女の誕生日が近づいていた。カフェ巡りが好きだった彼女は最近、職場近くにオープンしたカフェに行きたいと話していたので、彼はその店に予約を取った。連日二十二時以降まで残業することが日常化していたが、約束の日は定時で帰ろうとかなり詰め込んで仕事をこなしていた。しかし当日、定時を過ぎても仕事は終わらなかったため、やむを得ず彼女に先に向かうよう伝える。急いで終わらせようとしたが遅くまでかかりそうだと判断し、彼女に電話をかけた。
「ごめん、もう少しかかりそうだ。今日は帰っていてほしい」
「……楽しみだったから残念」
悲しそうな声で一言告げると、一方的に切られてしまった。明日ちゃんと話そうと思い、仕事を終えアパートに帰宅した瞬間、胸に激痛が走り呼吸が苦しくなる。そこから後の記憶は覚えていない。

「過労死ですか?」
「だと思います」
「辛い思いをされましたね」
「急なことだったので……あの、彼女がここに来た時のために待たせてもらえませんか?」
「“来た時のため”とは?」
「先程、別の客からこのカフェの“ルール”について聞きました」
「あなたを追って来るかも、と?」
「自意識過剰に見えるかもしれませんが、彼女だったら有り得ます。お願いです、ここで待たせてください」
「待つのは構いませんが、ここにいられるのは亡くなってから四十九日目の日が沈むまでです。それを過ぎるとあなたは消えてしまいます。その日までに彼女さんが現れなければ強制的に追い出します」
「わかりました。それと、ルールについては彼女には黙っていてもらえませんか?」
「申し訳ございませんが、それは出来ません。対象者にお伝えする事もルール内の一つですので」
そこを何とかお願いしますと、土下座をし始める彼に困った春宮は、わかりましたと渋々了承した。
その日の夜から彼は二階の空き部屋で就寝することになった。来た当初は呆然としていたが、日に日に明るくなっていき、日中はコーヒーを飲んだり彼女の惚気話を延々と話したり、客と世間話を楽しんだりしていた。しかし二十日経っても三十日が過ぎても彼女は現れなかった。四十日が過ぎ、「来ないならそれが一番いいよな」と明るく言う彼だったが、どこか寂しそうにも見えた。
ついに四十九日目になり、お昼を過ぎた頃一人の女性がやって来た。
「山本君」
 最初はドアの前で呆然と立ち尽くす彼女だったがすぐに涙でいっぱいになり、嗚咽をあげながらゆっくりと彼に近づいて行く。彼も目を潤ませながら彼女に近づき抱きしめる。彼女の背中を優しくさすり、席に着かせた。自身も向かいに座ると春宮にオーダーをする。
「彼女にメモリーコーヒーを」
「かしこまりました」
春宮は彼女にメモリーコーヒーについて説明し、記憶を受け取った後その場を離れた。落ち着きを取り戻した彼女は静かに口を開いた。
「ここは天国なの?」
「いや、ここは天国と地上の狭間だよ。死者が天国に向かう前の休憩所らしい」
「そっか、じゃあ私死んだのか」
「自殺したのか?」
「うん。どうしても、山本君に会いたくて」
彼は少し複雑そうな顔をして、そうかと一言言うと黙ってしまった。彼女も彼の様子に何と言えばいいのか言葉を探している様だった。
「お待たせいたしました」
静けさを破る様に春宮が二人分のコーヒーをテーブルに置く。
「飲んでみて」
彼に促され恐る恐る口にすると、美味しいと笑顔を見せる。春宮は、どうぞごゆっくりと言い再びカウンターに戻った。
「急にいなくなって、ごめんな」
「怖かった。医者は過労死だと言っていたけれど、本当は自殺なんじゃないかって。昨日の喧嘩があなたを追い詰めたのかなって」
「それは違う!君のせいじゃない。医者の言う通りだ。心配かけたくなくて黙っていたけど、ここ半年ぐらい全然帰れていなかった」
「何でそんな無茶な働き方……」
「……正社員になりたくて、無理しすぎた」
「私がもっとちゃんと、あなたを見ていれば……」
「君のせいじゃない。お願いだから自分を責めないでくれ」
また涙を零す彼女を見て、よしよしと優しく頭を撫でる彼。
「あの日約束守れなくてごめんな」
俯いたまま首を横に振る彼女。
「私の方こそごめんなさい。最近山本君との時間が無くなっていって不安だったの」
「じゃあ、お互い様ということで」
「うん」
「ずっと言いたかったことがあるんだ」
「何?」
「誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
ようやくお互いの気持ちを伝え合う事ができ、二人の間に穏やかな空気が流れる。時間を忘れ大切な思い出を語り合う。気づけば西の窓から朱を帯びた日差しが降り注ぎ、まるで二人にスポットライトを当てている様だった。
「山本さん」
春宮の呼びかけに、彼はそろそろ行こうかと席を立つ。つられて彼女も立ち上がる。
「会計を済まして来るから先に外に出ていて」
ドア付近まで来ると、彼はそう言って彼女を扉の前に立たせた。彼女はここで待つと言ったが、いいからと彼に促され渋々了承する。早く来てよと言い、ドアを開け外に出た瞬間背後から声が聞こえた。
「愛してるよ」
彼女が振り返ると今までいたはずのカフェは消えていて、辺りはだんだんと真っ白な空間に変わっていった。
「彼は来ませんよ」
彼女の背後から声を掛けたのは春宮だった。
「四十九日前、山本さんはこのカフェに来ました。そして、ある対象者だけに適用されるルールについて知りました」
「ルールって?」
「“自殺者は天国へ行くか、地上に戻るか選択しなければならない”」
「え?」
「あなたはまだ死んでいません。正確に言えば仮死状態です。彼はその事について知っていました」
「待って、意味がわからない」
「喧嘩別れしたことを悔やむ彼女が自分を追って来るかもしれないと。そうなった場合、あなたを地上に戻そうと考えていました」
彼女は春宮が発する言葉、意味を理解しようと全神経を集中させていた。
「このカフェには二つの扉が存在します。あなたが今くぐってきた扉は“地上に戻る方”です」
「嘘でしょ」
「彼は私に、ルールについてあなたには伏せておいてくれと頼みました」
「……」
「しかし自分自身で選ぶことに意味があるのです。水野さん、特例として再びあなたに選択権を与えます。どうしますか?」
「うぅ……わぁぁぁぁ!!」
 その場に崩れ落ちた彼女はただただ泣き叫び、喉が枯れて声が出なくなった頃、春宮が静かに口を開いた。
「水野さん、メモリーコーヒーで選んだ記憶はいつのものでしたか?」
「山本君と初めて出会った時」
「彼も同じことを言っていました。そしてその記憶を一生忘れたくないと」
「……」
「お二人が同じ記憶を持ち続けるということは、お互いがお互いのことを忘れることは決してありません。生まれ変わってもその記憶がきっと、再会へと導いてくれるはずです」
 だから永遠の別れではないのですよ、と春宮は微笑んだ。彼女は顔を上げ、真っ赤になった瞳で春宮を見る。じゃあ、その日を楽しみに生きてみてもいいかな、と言いよろよろと立ち上がった。
「地上に戻ります」
「わかりました」
 春宮がパチン!と指を鳴らすと真っ直ぐに続く光の道が現れる。
「この道を歩いて行くと辿り着けます」
 こくんと頷くと彼女は一度も振り返らず歩き続け、やがて霧の中に包まれていった。

 店内に戻った春宮はお気に入りのカップにコーヒーを淹れ、ほっと一息ついた。一口一口ゆっくりと味わって飲んでみる。苦い。いつもよりほんの少しだけ。
「明日からまた頑張るか」
 そう呟いた彼の心はじんわりと広がっていく温かさを感じていた。

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