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ワクチン禍の怒りを、通り越して

いつも、ものごとに対してあまりジャッジを下さない、割と何でも、「どっちでも良くね?」な私が、新コロワクチンのことに対しては去年なぜあんなに主張したのか と、久しぶりに会った友人に聞かれた。

そう、確かに、中学生の時は「フォロー」というあだ名が付くくらいに、あまり善悪で分けることを好まない、対立したがるどちらの肩も持つような、超平和主義者で。

ものごとって、そんなに単純に正邪分けることができるものじゃない というのは当然のことで、どっちもどっちだし、それ以前に、割とどうでもいいと感じることが、けっこう多くて。

そんな私が、なぜあんなに怒ったのかと。

そう聞かれて、そういえばなんでだろうと、自分でも考えた。

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いや、、、多分、いきなり怒ったわけでもない。

それ以前から、実はややキレていた。笑

何でもかんでも、あまり深く掘り下げず、根本的な部分を無視して、インスタントに片付ければいい というような全体の雰囲気や、そういうコマーシャルを、真に受けて動く人たちに。

特にそれが、体のことに対してだと、とても悲しくなる。

前世は病気で死んだんじゃないかと思うほど、健康って本当にかけがえのないもので、大切なものだという思いがいつもある。今日も健やかに私を生かしてくれている体に、敬意や感謝の気持ちが湧く。

そして周りの人たちにも、自分の体を大切にしてほしいし、健康でいてほしい。


だから、怒ったんだ。

こと今回のこのワクチン(と呼ばれているもの)に関しては、どこをどう切り取っても、何も「いい」と思える部分がない。もうびっくりするくらいに、ない。

通常であれば何でも、いい面も悪い面もある というのが普通で、そのどっちの側面をより重視するかで、選択は変わるよね、という感覚になるものなんだけど。

そういう感覚が、一切起こらない。

自分が偏っているのかもしれない、ということも考えて、肯定派の人の発信物もたまに読んでみるけれど、浅いものや無理矢理な理屈を切り貼りしたようなものばかりで(というかもはや理論が破綻しているものばかりで)、納得できるものが見つからない。

まぁ職場の人たちは、意気揚々と3回目接種に向かっているけれど。。。周囲の状況を見るに、3回目は今月・来月あたりがピークなのかな、、という感じ。

そして、去年そうだったように、そのピークからだいたい3ヶ月目以降に、体に何かしらの症状が出てくる人がちらほら現れ始める。(でも、その時点では誰も、ワクチンとの因果関係を疑わない)

今年の夏あたり、また様子見かもしれない。


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昔「フォロー」だった私には、そんな自分自身を通して、学んできたことがある。

分断が起きないように、とか、両方の立場を考えて とか、最初からそんな、俯瞰したような優等生思考でいる必要はない。

というか、そうしていることが何よりも、自分自身に対する裏切りなんだと、気づいてきた。

一旦は感じたままに、例えそれが、自分自身の偏った部分から出てきたものであったとしても、「怒る」プロセスって、すごく大事で。

怒りを感じたなら、不快を感じたのなら、そういうのって、平和の名のもとに、知的と冷静を気取りながら抑圧するべきものじゃない。

一旦は、怒る。

それを、自分に許す。

怒りを過ぎたら、必ず頭は冷静に、淡々としてくるから。

そこで初めて、正確に俯瞰できて、反省するところはして、建設的な方向に向かって、考えていける。

去年の怒り爆発wを通り越して、最近は、気分的にここらへんの人が、多いのではないだろうか。

怒りは起爆剤であり、情熱の源であり、そして、自分の本性の在りかを知る、灯火でもある。

繰り返すけれど、だから「怒る」って、本当に大事。


見つけたこの灯火を頼りに、より深く自分とつながって、進んでいけそう。

今そんな人が、きっと増えてきている。

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