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努力は無敵か?

〜年もやってるのに...

スポーツや勉強をはじめ、様々な場面でよく耳にする言葉がある。「〜年もやってるんだから、それくらいはできるよな?」確かに筋は通っているかもしれないが、中々重い言葉である。言い方を少し変えれば「お前はあれだけ努力していたんだから、これくらいできて当たり前だよな?」とも取ることができる発言であり、このことはその背後に「努力は必ず結果に結びつくはずだ」という一般論が存在することを示唆する。努力したからといって相手の期待に沿うことができるまでに上手くなるとは限らないために、多くのケースにおいて、このような決めつけは大きなプレッシャーと自己否定を産みがちである。

しかし、時には外部の人間のみならず、自分自身もその努力に高すぎる期待をかけてしまうことがある。それはなぜか?世の中に「努力によって考えられないような成果を出した例」が五万と転がっているから。そして、「努力は自分を裏切らない」という言葉が、様々な解釈を伴って流布しているから。だからこそ、とりあえず長くやっておけばこれくらいにはなるだろうという根拠薄弱な見込みを立ててしまうのだ。だから、他人に冒頭で述べたような心無い言葉をかけられた時、心の中でつい答えてしまうのだ。 「うるせーな。俺だってもうちょっとやれると思ってたわ!」

頑張った年数はスキルに比例するのか?確かにある程度そうだとは思う。しかし、そのグラフは一般に思われているよりも遥かに緩やかで、かつ個人差があるような気がする。歳を重ねれば重ねるほど上達することは間違いない。ただ、自分が、もしくは他人が期待していたほどのレベルに達することができるかと言われれば、必ずしもそうではない。伸び代には上限があるし、一口に「頑張り」と言っても、そこには様々な度合いがある。

軽視されがちな「才能」

そもそも、努力すること自体も才能の一種である。このことは質・量ともに同じであり、「結果の出る努力は誰にでもできる」わけではない。だからと言って「自分には才能がない、努力なんて無駄」だと決めつけてしまうのは早計だ。やってみないとわからないのだから。

能力的な才能が乏しかったにも関わらず、一流と呼ばれるまでになった人々を目にすることもある。ただ、彼らはそれをカバーするだけの熱意を持ち、その地位に辿り着くまでに気が遠くなるような時間を費やしていることが多い。つまり、「努力の才能」があったと言える。(そもそも個人の能力に関しては自己申告制なので、本当はめちゃくちゃ能力としての才能があった可能性もある)また、熱意を持てることも才能の一部だ。能力はあったがこの点に欠けていた人たちは、しばしば「消えた天才」と呼ばれたりする。いずれにせよ、こうした人々は極めてレアな存在である。自分がその一人であるのだと無条件に信じるのは難しい。

個人間の才能に比較的大きな差があるという話は、ゲームでよく見られる「スキルポイント」システムと似ているような気がする。得られるポイントの数には上限があり、人によってその値は違う。才能豊かな人=スキルポイントを大量に持っている人は、一つのスキルをマックスまで極めることもできるし、複数に十分なポイントを振り分けることも可能だ。その逆もまた然りである。

自分を含む多くの人には、何かにおいて練習を頑張るだけで超絶上手くなるほどの才能はない。だから、努力に対する期待は控えめに。そして、他人に対しても過度に望むことのないようにしたいものだ。ある程度やり切った後にやはり向いていないと思ったら、きっぱり止めてしまうのも一つの手ではあると思う。なんでもすぐに諦めてしまうのはもっての外だが、自分に対する過度な妄信も避けたいところである。

自分なりに頑張ろう

一番不健康なのは、努力しているのに全然上手くならない。やっぱり自分はダメ人間だと思ってしまうこと。実際、努力したって大して上手くならないケースの方が世の中多いものである。それでも、最終的にはいずれかの道で努力しなければならなくなるのだろうなとは思う。たとえ上達する見込みがあまりなくても、である。しかし、それだけで一流になるのは難しいというだけであって、誰でも努力すればある程度の結果はついてくる。結局、努力に裏切られた!と感じるのは自分の期待値が高すぎたせいに過ぎないのではないだろうか。

タイトルを書いた時点で結論は決まっているようなものだけど、「努力は無敵じゃない」というのが個人的な見解であることを記しておく。それでも、努力はする価値があるし、なんでもやってみなければわからないことには変わりない。そういうわけで、これからも少しの進歩を喜びつつ、「控えめに」努力していきたいと思う。



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