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舞台に、花は咲き乱れ(六)

 そしてときが少しずつ流れ、暑さが緩やかに大人しくなってきた頃、秋の舞台が目前に迫ってきた。ほんとうに聴衆の前で演技するのだと思い、緊張感は日増しに高まってきた。十分すぎるくらい準備を重ねてきたはずなのに、まだ安心に届かない。
 失敗が怖かった。演劇はたくさんの人が関わる。個人競技ではないから、あたしの失敗は、劇全体の印象を損なわせる。そして、みんなに迷惑をかける。それが怖かった。ときには逃げ出したくなった。
 観ている側の際はそれでよかった。いろんな人のプラスの様子が一つになり、圧倒的なエネルギーになっていると感じられる瞬間に立ち会えると、幸せになる。この舞台を観にきて心からよかったとそう思えるのだ。
 好きな場所のそちら側へ。だけど、そこには仲間たちがいる。苦楽をともにした先輩方や、憧れを同じくした同級生たち。その存在を信じ、前を向くしかない。不安でも怖くても足が震えてしまっても舞台に立たなければならない。
 本番の前日、いつものようにミナちゃん、芽瑠と帰っていたら、偶然小百合と会った。小百合は三浦のミナちゃんと一緒だった。
 舞台の準備が忙しくて、この夏はちっとも遊べなかった。久しぶりに顔を見られて嬉しいが、今の精神状態を思い合わせると複雑な心地。
「久しぶり、小百合」
「うん、花音」
 ところが、小百合の方でもなにか悩んでいる風なのが見て取れた。自分の不安はどこかへ一時的に去った。いったいどうしたのだろう。
 杞憂であればいいけれど。

          ●

 わたしたちが積み重ねた時間はどれくらいだろう。いろんなことを話した。いろんな思い出を作った。笑い合った、泣き合った。だけど、わたしの方が花音をずっと見つめてきた。実際には瞳で、あるいは心で。思いを寄せて。花音がわたしを見つめるよりも。
 だから、気づく、分かる。些細な表情の変化が。言おうとして言わなかった言葉が、言ったけれど本心ではない言葉も。
 電車の方向が反対側になるため、わたしと花音の二人きりになった。ミナちゃん二人と芽瑠は三人で仲よく同じ電車に乗り、さっきそれを見送った。わたしたちが乗るべき電車もその後で来たのだけど、ホームの椅子に腰かけたまま乗らなかった。じっくり話し合えたらとどちらも考えている。
 駅は静謐な佇まい。今日もたくさんの人たちをその深い懐で受け入れてきたその役割をもうすぐ終えようとしている。そこに残ったわたしたちはきっと珍客。もうしばらくだけ、ご容赦ください。
「花音、緊張してる?」
 花音はわたしに会って不安そうな影を遠くへ押しやったけれど、見逃さなかった。本番は明日だ。入りたいと願ってやまなかった演劇部の晴れ舞台についに上がれる。それは喜びでもあり、そして重圧でもあることだろう。
「うん、ちょっぴり」
 花音が笑っている。
「ほんとうにちょっぴり?」
「うん、ちょっぴりも言葉を失くすくらいちょっぴり」
「なにそれ」
 わたしも笑う。相変わらず駅は静かだ。
「楽しみなはずなんだ。だって、舞台に上がれることを夢見てたのだから」
 だけどね、と声を落とす。ようやく落としてくれる。「だけどね、三年生たちは最後の秋の舞台だし、もしわたしが間違えたらって思うと怖くなる。舞台の出来栄えを損なわせてしまうかもしれない」
「花音はまじめなんだよ。自分らしくいられれば大丈夫だって」
「まじめなのは小百合でしょう。――それより、小百合こそさっき不安げな顔してたけど、なにかあったの?」
 数日前から翡翠ヶ丘の生徒たちが訪れて、本番の舞台でリハーサルを行っていた。今年は旭山に招く年だからだ。実際に演技しているところは当日まで隠すものだが、リハーサルの前後では互いの部員らで交流していた。そこで翡翠ヶ丘の演劇部部長・小坂井いのりさんや、青山かさねさんなどの姿を遠くから目にした。
 わたしはその場に出ていかず、ずっと物陰に隠れていた。人見知りしていたわけじゃなく、なんとなく、今回の劇にわたしが関わっていることを花音に話したくなかったからだ。それは別に、脚本の下書きとなった小説の主人公のモデルが花音だったため、というわけではないけど。ただ、なんとなく。
 でも、今日ここで会ってしまったのもなにかの縁だ。やっぱり、わたしはちゃんと花音に明かさないといけない。今さらになってその感情が湧いてきた。
「わたし、ずっと黙っていたことがある」
「小百合がわたしに隠しごとなんて、珍しい」
「あのね、わたし――今回の劇の脚本を務めたの」
 しばらく花音は口を引き結んで反応がなかった。驚きはあるようだが、それよりもなにかを深く噛みしめているみたい。わたしは一抹の不安を覚えた。花音は、黙っていたことを嫌がるかもしれない。
 少しして、花音が口を開く。
「そういうことか」
 納得している風だった。そんな返しは予想外だった。
「どうして腑に落ちてるの?」
「ちょっと前から、小百合が、旭山の演劇部の事情にずいぶん詳しいな、って思ってたんだ。ミナちゃんが所属しているにしても」
「そ、そんなに話してたかな……?」
「話してたよ。葵さんのことをよく喋ってたし、最近では瑞希さんのことも」
 言われてみれば、わたしはかなり彼女らの演技に熱を上げていた。うっかり花音に感想を漏らしていたとしても不思議ではない。
「そっか、そういえば葵さんは文芸部にも一応入ってるんだっけ。そこでつながりができたのね」
「うん……わたしが書いた小説を葵さんが読んで、これを脚本にして舞台で演じたい、って言ってくれたの」
 あの日の、夢みたいな光景がありありと思い出せる。あの日からわたしの身の回りが落ち着かなくなった。
「へえ、そうだったんだ。――もともと楽しみではあったけど、より楽しみになってきたな。小百合が脚本を手掛けているんだったら」
 あまり注目されても委縮してしまう。でも、誰よりも花音には、注目してほしいとも願っていた。
「嬉しい」
 ぽつりとこぼれたひと言は、頬を赤らめた花音の口から発されたもの。
「嬉しい?」
「だって、小百合も演劇に関わってくれたから。嬉しいよ。舞台には立たないの?」
「それはないよ。葵さんにも勧められたけれど、わたしなんかが演技できるわけないし」
 葵さんは背が高いわたしに、舞台映えするだろうって言ってくれた。それは買いかぶりに違いないけど、だけど、そう言ってもらえたのは喜びだった。
「葵さん、葵さん、って」傍らの花音が頬を膨らませていた。「そんなに素敵な人なの? わたし、妬いちゃうかも」
 一瞬、耳を疑った。行き過ぎた願望が幻聴を聞かせたのではないか、と。
 ところが、花音の瞳を覗いて表情の色を確かめると、その発言が幻ではなかったみたいだと窺えた。
 それってどういう意味、と尋ねようとした刹那、間の悪い電車が音を立ててホームに入ってきて、花音は立ち上がってしまう。
「そろそろ帰ろう?」
 仕切り直して、後でどういうつもりで言ったのか訊きたい気持ちはあったが、だけど、今日はその気持ちを抑えることにした。自分の思いたい風に思えばいい。
「うん」
 明日は本番。花音はわたしの脚本を楽しみにしてくれているけれど、わたしだって、花音が舞台上でどんな演技を見せるのか楽しみにしている。
 車体が揺れたとき、わたしの右手が花音の左手にちょっと当たった。そのままぎゅっと握ってしまいたかったのを我慢したのは、理性の抗いかもしれない。なんて、稚い感情。

 翌日はあいにくの雨だった。朝からしとしとと降りしきって、演劇部の部員たちはみな恨めし気に空を見上げる。
 秋の舞台は学校が休みの日に行われる。朝から準備を始めて、お昼過ぎに開演となる。両校の生徒たちや保護者など、毎年大勢の人が見にやって来る。伝統として受け継がれてきたものだから、注目度は高い。
 お昼前には翡翠ヶ丘の演劇部が姿を見せた。衣装や小道具は事前にこちらへ運んでいるから軽装。表情には、どこかやってやろうという気迫が漲っていた。
 今年演じられるのは『赤毛のアン』と『海のプレリュード』。後者はわたしが書いたものだ。校門に立て掛けられている看板には、原作者の名前として「中田小百合」が大きく出ている。花音に昨夜伝えられなかったとしても、ここで絶対に明らかになっていた。小恥ずかしいけど、うん、やっぱり、ただただ小恥ずかしい。
「どうしたの、硬い顔して」
 本番を控え、楽屋で寄り集まって待機していた。わたしにそう問うてきたのは三年生の貴子さんだ。今日も翡翠ヶ丘の面々が到着したときの立ち合いには、部長の葵さんではなく彼女が出向いた。そういう対外交渉をそつなくこなすポテンシャルが彼女には備わっているけれど、部長はやはり葵さんだな、という感じがする。この、それぞれで役割分担できている形が自然なのだ。
「わたしの話が、こんな大事な舞台で披露されてほんとうによかったんでしょうか……?」
 翡翠ヶ丘みたいに名作をやってもよかった。オリジナルにしてもぽっと出のわたしが書いたものじゃなくてもよかった。今さらながらそんな思いに囚われる。
 しかし、貴子さんはそんな心配をあしらうように鼻で笑った。
「なに言っちゃってるのよ。――わたしね、いつも葵に、ちゃんと仕事しろってうるさく言ってるんだけど、彼女が真剣な表情でこうしたいって言ってきたら、必ず従うようにしてきたの。部長だしね」
 終わりの言葉は、少しおどけた風に。「葵が突然、知らない一年生の小説を引っ提げて、今年の舞台はこれで行きたいって言ったときは面食らったけど、反対する気は起きなかった。だって、葵の目がまっすぐだったから」
 それに、と貴子さんはさらに言葉を継ぐ。「それに、わたしも読ませてもらって、その一年生の作品がとてもいいな、って素直に感じられたから、これが最善の策なのよ。ね、原作者さん」
 言われているうちに、だんだん目を合わせられなくなってきた。正直な言葉をもらっているのだろうが、なんだか言わせたみたいできまり悪い。貴子さんには敵わない。
 演劇部に入るつもりはなかった。脚本を執筆しようなんて夢にも思わなかった。葵さんに見出されたのは運命の悪戯と言えばそれまでだけど、でも、この運命を引き寄せた一因に、心のどこかで演劇というものを意識していたことがある気がする。そして意識させられたのはほかでもない、花音という存在――。
 貴子さんと葵さんの関係に抱く憧憬は、自分と花音の関係に重ねることができるだろうか、という願望に通じる。
 ふと、思い出すもう一つの光景。そういえば、リハーサルのために翡翠ヶ丘の生徒たちが訪れていたとき、合間に葵さんと向こうの部長である小坂井いのりさんが親しげに話していた。背が高くボーイッシュな葵さんと、それを上目遣いで見つめる、いかにもお嬢様らしい容姿のいのりさん――その絵がどこか神秘的ですらあって、いつまでも眺めていたいと思ってしまったのだった。

          ◯

 告白するのは愛か罪か。いずれにしてもあたしには縁遠くて、雲霞の向こうに目を凝らすようだ。
 健気な乙女が泣いている。肩を震わせ、はらはらと涙を落としている気配がする。人の涙は胸の内に漣を起こす。その感情は本来とても熱くじわりと広がるものだからだ。
 決定的な瞬間に立ち会ってしまった自分の間の悪さが恨めしい。なにかを知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない。
 スカートをぎゅっと握りしめる。それにしても、さっきから胸中を落ち着かなくさせるものはいったいなんだろうか。憐憫? 同情? 違う気がする。
 朝からしとしとと降っていた雨は、この結末を暗示していたのかしら。

 順を追ってあったことを思い出してみる。まずは、劇に臨んだ。
 最初に舞台に上がったのはあたしたち、翡翠ヶ丘高校。披露したのは『赤毛のアン』。世界的にも有名な作品だから、聴衆の反応はいいみたいだった。どんな人がどの役を演じるのか、好奇の目が注がれる。
 あたしはこの日を待ち望んでいた。焦がれていた。『桜の園』を観た日から、いつかあんな風に演技できる日がくるのを渇望し、その思いだけで翡翠ヶ丘の門を潜った。
 一年生から役がもらえるとは考えていなかった。最初は裏方などで手伝いをして、来年以降チャンスを掴めれば、くらいの気持ちだった。ルビー・ギリスになれたのは運がよかった部分もある。
 あたしは普段なにもない少女だ。どこにでもいる一人の高校生。特別なものなんてどこにも見当たらない。それを変えたかったわけではない。あたしはあたしだ。自分らしさを失ってまで特別な存在になりたいと望んだりしない。ただ、あたしが演技に惹かれたのは、きっとそこでなら表現できるからだ。あたしの内側にあるみんなが知らないあたしを、ほかの役に仮託して表現できる。自分ではない何者かになる瞬間は、狂おしさ、そして劇薬。
 確かに、緊張で委縮していたのは否定しないけど、小百合に話せて少しは心が軽くなったし、それに、なによりずっと憧れていた場所なのだ。できることまで放棄してしまったら、きっと立ち直れないくらい後悔するに決まっている。
 逆に考えればよかった。いのりさんやかさねさんと同じ舞台に立てる喜び、それは一度きり。
 いのりさんとかさねさんは、それぞれアンとダイアナの衣装を身に纏い、とても可憐だった。美術部の人たちがこちらのリクエストに応えて、期待を遥かに上回るものをしつらえてくれた。素敵だ。とにかく、メインの二人は華がある。
 平素は眼鏡をかけているあたしは、舞台ではコンタクトレンズ。見た目からまずは変えていこうとするのはどこか少女じみた行いだが、そういえば、あたしはまだ少女だった。自己暗示をかけられるのならば縋りたい。
 正直、眼鏡でもコンタクトでも映り方はそう違わない。
 むしろ、気持ちの作用が見えるものを異ならせる心地がした。光を当てられたステージ。いつもよりも輝いている仲間たち。暗がりの客席、鉄砲席にぼんやりと浮かび上がる小百合の顔。表情の細かい動きまで確かめている暇はないが、一念にこちらへ眼差しを向けているだろうことは感じる。胸が熱くなる。
 胸は熱く、だけど、頭はいたって冷静に。演技の基本。
 そして、あたしたちの『赤毛のアン』は、万雷の拍手で終幕を迎えられた。頭を下げながら降りかかってくる拍手と歓声に鳥肌が立った。いつまでもこの歓喜の海に浴していたい、そう思ってしまうほどに。
 頭をゆっくりと上げ、湧き立っている客席の中に親友の顔を見つけ、目を見交わした。初めて遠くてもその表情の色を読み取れて、頭の冷静さをついには手放した。

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