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かごめ ep.6

 幾人もの学生とすれ違いながら、目的地を目指す。文芸部の部室は奥まったところにあるため、近づくほどに人気がなくなってきた。
(今まで、文芸部の活動に思いを馳せたことがなかった)
 栞はそうたくさん本を読む方ではないし、文芸部がどんな活動を日々行っているのか、上手く想像がつかなかった。
(女生徒の死の真相を調べているのなら、どちらかと言うと新聞部の方がふさわしい気がするけれど)
 だが、この学校には新聞部は存在しない。
 部室の前まで着く。栞と美津紀は目を見交わし、まずは耳をそばだてて、中の様子を窺ってみた。ぼそぼそと話し合っている気配が伝わってくる。あまり人数がいるようではない。入りにくい雰囲気ではどうやらなさそうではあるけど。
 心の準備を整えるよりも先に、美津紀が丸めた拳で戸を数度叩いた。室内の会話がぴたりと止む。特に歓迎されなかったようだけど、美津紀は臆せず「失礼します」と呼びかけて、いよいよ戸を横に滑らせた。
 整然と本が並んでいる本棚に埃っぽい室内、それから目に映ったのは真ん中に置かれている長机と、そこでそれぞれの作業に勤しんでいたらしい二人の女生徒だった。揃って不意の闖入者に目を丸くし、口を半ば開いているが、言葉を絞り出せずにいる。
「すみません、部活動中に。私は渡邉美津紀と言いまして、一年です」
 ちらりと視線を向けられ、栞も「吉田栞と言います」と続けた。
「文芸部の阿南綾音先輩にお話を伺いたくて、突然顔を出しました」
 美津紀もどちらが探している綾音なのか分からないみたく、首をゆっくり動かして双方を捉えている。やがて男の子のように髪の短い方が「阿南綾音は私だけど……」と小さな声で呟いた。自信なさそうな口吻とは裏腹に、瞳は意志の強さを湛えている。栞は覚えず、惹き込まれた。
「まあまあ、とりあえず二人とも座ったら」
 綾音の向かいに座る女生徒が勧める。「あ、私は若松澪南。綾音の友達。文芸部じゃなくて、陸上部だけど」
 澪南は腰掛けた二人の後輩を大きな瞳でまじまじと捉え、ふうん、と思わせぶりな呟きを漏らした。
「あなたたちが訊きたいことって、瀬尾かごめさんのことでしょ?」
 単刀直入に問われ、栞は返答に窮した。重ねて、「当たり?」と澪南が笑み交じりに首を傾げると、「そうです」と美津紀がすかさず答えた。
「ほんとうのところ、どこまで分かっているのですか?」
「なんでそんなことが知りたいの?」
「――好奇心です」
 栞は胸の内で、美津紀の言葉を噛み締めた。好奇心。確かに、かごめとはなんら接点はない。なんとなく気になっているだけだ。この学校にいた生徒が突然死を選んだ理由、あるいは、死に誘われた原因。それを解き明かそうとしている。
 栞の脳裏に、ピアノを奏でる絵梨花と、それに合わせて舞い踊る莉奈の姿が不意に過ぎった。ここにいる四人と違い、彼女らはかごめと同学年だ。かごめとはやはりまるで関わっていなかったのだろうか。かごめの死にどんな感情が渦巻いたのだろうか。間もなく卒業を迎える段に至って、そのときのことをどんな風に振り返っているのだろうか。
「あなたもそう?」
 澪南にではなく、それまで黙っていた綾音に尋ねられ、栞は目を見張りながらも、こくりと一つ頷いた。いろんな思惑が入り混じっている「好奇心」ではあったけれど。
「……まだ真相にはたどり着いていない、という点については、まず言っておかなければいけないと思う」
 綾音は大儀そうに立ち上がって窓辺に寄り、栞たちに背中を向けたまま、訥々と語り出す。あらゆる事物から隔離された世界に閉じ込められたと錯覚するくらい、今いる場所は静かだ。
「調べ始めたのは単純に、瀬尾かごめさんが私と同じ、たった一人の文芸部員だったから。とは言っても、毎日そのことだけにかまけているわけじゃない。誰が噂に尾ひれをつけたのか知らないけど、校内で囁かれている内容は故意に大きくされている」
「先輩は、かごめさんの死は自殺だと思っていますか? それとも……」
 さすがに美津紀も、言葉を濁した。
「――さっきも言ったように、真相にたどり着いていない。確固たる証拠があって、結論を導き出せたわけではない。だけど、」
 長い沈黙が降りる。誰もが紡がれる言葉を待った。誰かが唾を嚥下する音が、室内にクリアに響く。やがて綾音は観念したみたいにため息をついてから、かごめさんは自殺ではないと思う、と続けた。
 身内に電流が走ったようだった。その可能性を想像していたのに、いざ彼女から突きつけられると、大きな衝撃を受けずにはいられない。
「どうして、そう、思うのですか?」
 なんとか絞り出した声は掠れていた。
 窓の外を見つめていた綾音が、そのとき体をゆっくり一回転させた。空は夕焼け色に染まっていて、その光景を背にした綾音はどこか神秘的だった。綾音は右手で本棚を指し示し、「この部屋には、かごめさんが書き残したものは一つも残っていない――そうかと思っていたのだけど、本棚に一冊だけ、処分されずに紛れているものがあった」
 そう言われて目をやるけれど、どれも書店で並んでいるようなものばかりで、趣味の延長線上で作ったと一見して分かるものは見つからない。答えを出せないでいる生徒たちを諭すみたく、「私も最初は気づかなかった。だけど、入部してから手当たり次第に読んで、たどり着いたの」そう告げて、真ん中あたりの文庫本をひょいと抜き出した。背のタイトルも、表紙の装丁もちゃんとしている。曽我萌歌という作家の『ひみつ』。名前もタイトルも聞いた憶えがない。あまり有名な作品ではないのかな。
(いや、でも先輩は今、かごめさんが書き残したものが一冊だけ残っていると言って、そしてその本を手に取った。と言うことは)
「私も最初は知らない作家さんだな、と思いながら手に取った。それで読み始めてみたら、学校が舞台の話なのだけれど、明らかにこの学校だと分かる描写なの。全寮制なこと。女子校であること。世間から隔離されたような場所にあること、などなど。
 それで気になって、調べてみたの。そうしたら、曽我萌歌という作家はどうがんばっても出てこない。それに、奥付に製本所は書いてあるけど、出版社が載っていない。――読んでいくほどに確信した。これはかごめさんが執筆し、小さな製本所に頼んで作ったもので、さらに言えば彼女自身の実体験が元になっている。曽我萌歌という名前は、かごめさんのペンネーム」
 それじゃあ、と恐る恐る美津紀が口を挟む。「その本の中に、誰かに命を狙われていることを仄めかすような内容が書かれていたのですか?」
 綾音は首を横に振る。「いいえ。ただの、恋愛ものだった。だけど、読んでいくうちに感じたことは、生きることに対する絶望ではなくて、むしろ希望を抱いていること。明るい結末を望み、真摯に生きていたい、そんな声が聞こえてきたの」
 そんな小説を書いていた人が自殺なんてするかな。
 瀬尾かごめのことは、あまりに多くの人が知らな過ぎる。同級生ですら、彼女についてなにも語れない。だけど、偶然残っていた文章は如実に彼女の人間性を表している。
「そうだとしたら、かごめさんはいったい誰に……?」
 話の流れから当然その問いが向けられることは想像していただろうに、綾音は力なく首を横に振るばかりだった。
「確かなことは、まだ。だけど、一人だけ、かごめさんのことを気にかけている人を知っている」
 綾音は文庫本の背を人差し指でなぞりながら、その人について思い巡らす。誰何され、「文芸部の顧問でもある、佐々井先生」と答えた。
「佐々井先生は、当時たった一人の部員だったかごめさんを思い遣っていたみたいで、自ら死を選んでしまったことをかなり悔いているようだった」
 綾音が遠くを見るような眼をする。
「それから、私に対して、その佐々井先生と親しくするなと文句をつけてきた先輩がいる。――剣道部部長の毛利和美さん」
 この辺りの人間関係から、なにかを導き出せるのではないか、そんな気がしているの。綾音はたどり着いている結論まで、詳らかに話してくれた。栞と美津紀はほんの思いつきで足を運び、思いがけないほどに教えてもらえて当惑する思いだった。どうして特別親しい間柄でもない後輩に、ここまで話してくれるのだろう。来た人みんなに伝えているわけではあるまい。
 なにか裏があるのだろうか。果たして、綾音は「さて、」と呟いて、栞と美津紀を順繰りに見やった。「今提供した情報と引き換えに、協力してもらいたいことがあるのだけど。あなたたちはいい子そうだし、向かい合っているうちにそんな気分になってきてしまった」
 お願い、協力してくれるよね。綾音は囁く。
 栞は覚えず、胸が高鳴り、背中を冷たい汗が伝うのを感じた。


 わずかに漏れ入る光の気配でそっと目を醒ました。栞は夜明けが好きだ。一日が始まり切らない、なににも煩わされないこの瞬間。
 昨日のことを思い返した。綾音の話。これまでに分かっていること、分かっていないこと。導き出される事実、なにかが始まり、なにかが終わろうとしている予感。まだ靄がかかったようにすべてを見通せないけど、栞は綾音たちを手伝う気になっていた。美津紀もそう。思いがけない展開になったものだ。
 今日も早めに学校へ行こう。なんとなく、そう思う。音楽室へ足を向けたら、また絵梨花と莉奈がいるかもしれない。そういえば、あんなに強く印象に残った存在だったというのに、あれ以来莉奈に一度も出くわしていない。三年生だから受験等で登校していない日もあるのだろうか。
 身支度を手早く整えて、部屋の扉を押しやる。はす向かいの部屋に近づいていって、そっとノックした。いつも通り、室内からすぐに反応はない。まだ眠っているよね、美津紀、と思いながら、栞は呼びかけるためにそっと唇を開いた。

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