見出し画像

溢れる想い 十一話

 夏の暑さから少しずつ抜け出しつつあった。このまま冬が来ないのではないかと憂慮していたけど、ようやく解放されるようだ。

 紅葉の季節。色を変えた街の木々たちが、秋の訪れを教えてくれる。何よりも説得力のある形で。
 おれは、この日しかないと思っていた。秋の入口。木々たちの衣替え。自分の新しい一年が始まることを告げる、特別な一日の直前。十月の後半におれの誕生日がある。誕生日に四人で集まる約束をしている。でも、おれはその約束を破ることになりそうだ。
 四人じゃなくて。もう、変わりたい。おれは、自分の誕生日を、他の誰よりも好きな相手と過ごしたい。前田怜奈に祝ってほしい。おめでとう、と笑顔を見せてほしい。それだけだった。それは、たった一つの大きな願い。叶えるためには自分から動かなければならない願い。
「前田」
 昼休みに、たまたま一人で教室にいたのをチャンスと捉えた。
 彼女は窓際で、うん? と首を傾げる仕草を見せる。
「今日の放課後、話したいことがあるから、体育館裏に来てほしいんだ」
「放課後……?」
「そういうことだから。待ってる」
 今は余計な質問を挟まれたくなかったから、返事も聞かずにその場を去った。大丈夫、彼女はきっと来てくれる。おれの話を聞くために。
 運命の時間を迎えるまでは、かえって一つのことに集中できていたと思う。どんな言葉を紡いで、どんな風に今までの想いを曝け出そうか、つまり前田のことしか頭になかった。
「ちょっと、水野君。今日、なんか上の空じゃない? 大丈夫?」
 顧問の早雨先生に注意された。部活は、まるで集中できていなかった。なんとなく、今までの経験だけでボールに反応し、無為な時間だけが過ぎた。
 ただ、上野が遠くからおれに視線を向けてくるだけで、何も言ってこないのが不思議だった。いつもの彼女なら、何かあったの? と訊きにきてもおかしくないのに。

 部活が終わると、おれはそそくさと部室を後にした。待たせるわけにはいかない。絶対に、先に体育館裏に行って、彼女を待っていなければならない。
「水野君」
 部室を出て体育館を横切り、出口に達したところで呼び止められた。今度は早雨先生ではなく、上野だった。彼女はまだ、運動着姿のまま。着替えずにおれを待っていたらしい。
「何? 悪いけど、急いでるんだ」
 ちょっと言葉がきついかもしれない、と思考の端で思ったが、仕方なかった。
「私、どうして夏の大会で水野君が精彩を欠いてたのか、分かった」
 そのまま通り過ぎようとしたけど、自然と足が止まった。
「ごめんね、私、水野君が怜奈に話がある、って言ってるところを聞いちゃったの」

 廊下の角に、上野はいたのか。
「聞いたからって止めるつもりはないよ。でも、背中を押すつもりもない」
「何が言いたい?」
 うん、と彼女は頷く。「ただ、水野君の想いを知ってることを打ち明けときたかっただけ。知らん振りして、隠しているのは悪いと思ったから」
「そっか」
 おれは一歩、体育館裏へと足を踏み出した。「ありがとう」
 それから、一度も振り返らなかった。上野はどんな表情をして、遠ざかるおれの背中を見送ったのだろうか。

「おまたせ」
 前田が笑顔で現れた。髪は、結ばずに流している。入学式の日に、初めて出会った日と変わらない黒髪。ふわりと、香る。
「悪いな、急に呼んじゃって」
「ううん、いいよ」
 前田もバカじゃない。何のために呼んだのか、とっくに気づいているはずだ。だとすれば、彼女はもう答えを考えてきているのかもしれない。今だけでも、頭の中が覗けたら。そんなくだらない空想に耽った。
 結果はまだ出ていないけど、いずれにしても、二人の間が大きく変わることは確かだ。そうなったとき、おれはこの日をどんな風に振り返るのだろうか。どんな風に記憶し、それは大人になっても憶えているものだろうか。
 言おう。
「好きです」
 それを言うためにこの場を設けたのだ。ずっと、抱えていた感情を。
「ずっと、入学式の日に出会ったときから、好きでした」
 ゆっくりと、言葉を口にしていった。
 前田は、やや驚いたような顔をしていたが、まだ何も言葉を発していなかった。
「おれと、付き合ってください。お願いします」
 頭を下げた。前田が何かを言うまでは、上げないつもりでいた。
「水野君――」
 ようやく、彼女が喋りだしたから、おれは頭を上げて、その表情を窺った。
 なんだか、複雑な表情をしていた。
「ありがとう。とっても嬉しい」
 だけど、と逆説の言葉がついて出る。ああ、ダメだったのかと、おれは絶望しかける。
「だけど、ちょっと考えさせてほしい。ごめんなさい。明日、またこの時間にここで、ちゃんとした返事をするから。それまで待ってくれないかな?」
 快諾されたわけではないけれど、拒否されたわけでもなかった。宙ぶらりんの状態だったけど、おれは首を縦に振るしかなかった。
「分かった。また明日、ここで」
「うん。ごめんね」
 遠くの方で、雷の音が聞こえた。一雨、来るかもしれない。

「おーい、水野さーん。聞こえてますかー?」
 屋上から見える空は、あくまで青かった。昨夜の雨の気配を感じさせないほどに。
「聞こえてるよ」
「お前、なんかボーっとしてないか。何かあったのか?」
 大志が心配そうにおれの顔を覗き込む。今日も、コーヒー牛乳を片手に。
「……」
 おれは迷っていた。前田に告白したことを言うかどうか。結果が昨日の段階で出ていれば、言っていてもよかったのだが、返事を保留にされてしまったことで迷いが生じた。
 それに、やっぱり大志に言うのは悩ましい。彼が、前田をどう思っているのか測れないし、一方で、前田も――。
「何もないって」
「そうか?」
 納得がいっていないようだったけど、おれはひとまず、黙っておくことにした。いずれ、話す日が来るだろう。
「それより、インフルが治ってよかったな。文化祭は残念だったけど」
 ああ、と彼はため息をつく。「ほんと、クラスのみんなをやる気にさせといて、早々と戦線離脱とか、申し訳なかったわ」
「何を言ってんだよ。お前のおかげで上手くいったんだぞ。みんなもそう思ってる」
 大志は何も言わない。
「ほんと、あの頃はやばかったな。あんなに大勢、いなくなるなんて」
 ある意味、忘れられない文化祭になったな、と続けた。正直な感想だった。おれは罹っていないのだけれど。
「確かに、忘れられないな。でも、あのタイミングで罹っておけば、しばらく再発する心配はないらしいぜ」
「え、じゃあ、おれは危ないってことか。はあ、罹るときは大勢の方がよかったかもなー」
 クラスの不在者が一人だけなんて、寂しいではないか。それを考えれば、あの時期に大量の罹患者を出したのは、寂しさの点ではよかったのかもしれない。――なんて。
 ほんとうは、誰も罹らないで、平穏な学校生活を送れる方がいいに決まっている。でも、あんな普通ではない状態も悪くはなかった。そのおかげで、おれは前田とお化け屋敷に行けたのだし。
「もうすぐ、お前の誕生日なんだっけ?」
 大志が何気なく漏らしたその一言に、おれは後ろめたさを感じる。ごめん、その集まりは実現しない。おれのせいで。
「忘れてたくせに」
 でも、現実では別のことを言った。人間は、思っていることを隠して、反対のことを平然と言えるようにできている。
「悪かったな。お詫びに、とびきりの誕生日プレゼントを用意してやるよ」
「ああ、何をくれんだよ? 逆に恐ろしいな」
「何でだよ、おれがそんなに恐ろしいものをプレゼントしたことあるか?」
「――っていうか、もらった憶えがない気がする」
 そこに、昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴る。もうすぐ、午後の授業が始まってしまう。
「よし、教室に戻るか」
「ああ」
 おれたちは立ち上がる。
 階段を下りて、教室が近くなったところで、上野を見つけた。廊下に、一人で立ち尽くしている。おれに気づくと、じっと見つめてきた。明らかに、おれに用があったことが窺える。
「大志、先に行ってていいよ」
 大志と別れて、おれは上野の傍に寄った。二人で、向かい合う。上野は、無表情で唇を結んでいた。その顔も、普段と違った美しさがあるように思えた。
「返事、とりあえず保留にされた」
 切り出したのはおれからだった。
「そう、なんだ」
「今日の放課後、返事を用意してくるって」
「ふーん、そうなんだ」
「前田から、何も聞いてないのか?」
 おれが訊く。
「うん。水野君だって、島津君には言ってないんじゃないの?」
 まあ、その通りだが。
「……じゃあ、私からは何とも言えないね」
 今日、部活は休んだら? と背中を向けながら彼女が言った。なんで? と訊き返すと、
「だって、どうせ今日も集中できないでしょ? 怪我するよ」

 悔しいけれど、それは否定できなかった。

 それでも、部活には行った。ズル休みはしたくなかった。それに、体を動かしている方が、余計なことを考えなくていいのではないかと思った。あまり、上手くいかなかったけど。
 そして、また誰よりも先に部室を後にして、体育館裏へと足を向ける。昨日とはまた違った緊張感があった。結果が絶対に出ることが分かっているから。
 最初、前田がどんな表情で現れるか。それで測れるかもしれない。でも、昨日の感触だと、判じるのは難しいだろうか。
 体育館裏は、告白のスポットになっている。ウチの学校の生徒は、ほとんどがここで想いを告げている。おれは、ここで想い人を待ちわびているかつての影たちに思いを馳せた。成功した人も、ダメだった人も、心臓を高鳴らせて待っていたのだろう。おれも今、その一人になっている。
「おまたせ」
 昨日と同じ台詞で、前田が角から姿を見せた。その表情は明るい――ように見える。少なくとも、何か答えを出したようだった。
「水野君」
 二人で、向かい合う。前田は、背は低い方ではないけど、こうして並ぶと小さく感じる。やはり、女なのだと改めて知る。丸みを帯びた肩も、柔らかそうな唇も。それは女の証。
「ごめんなさい」
 前田は、ゆっくりと頭を下げた。少しの間を置いてから、顔を上げた。
「私、水野君とは付き合えない」
 前田の声は透き通るようにして耳に届き、おれの内側の深いところまで及んだ。言葉の意味が、かなり遅れるようにして把握できるようになる。
 おれとは、付き合えない。
 一瞬で、頭の中が真っ白に染まった。何もなかった。空白、空虚。答えが、浮かばない。
「でも、水野君にそう言ってもらえて、ほんとうに嬉しかった。だから、これからも友達でいてほしい」
 よろしくね。何も言わないおれに、前田は右手を差し出す。機械的に右手を出して、握手を交わした。やっぱり、柔らかい。
「また明日」
 それだけだった。言うべきことを綺麗に言い遂げると、彼女はおれに背中を向けた。
 おれは最後まで一言も発さなかった。発せなかった。
 また、雨が降ったらいいのに。おれの悲しみも全部、押し流してくれたらよかったのに。
 そんな望みも空しく、空はあくまで晴れ渡っていた。


 次の日が休日で助かった。おれは一日中、家から出なかった。ほとんどを部屋で過ごして、たまに思い出したように泣いた。泣き疲れると、眠った。眠りは深くて、目が醒めたとき、途方もない時間が経過したような錯覚に囚われた。
 考えていることは一人についてだけど、たくさんのことだった。これからのこと。差し当たり、四人で集まるという約束はどうなるのか。おそらく、白紙になるのだろう。おれのせいで。たとえ前田が「いい」と言ってくれたところで、おれは行けない。耐えられる気がしない。
 前田とは、遠い関係になってしまうのだろうか。せっかく、あんなに傍にいられるほどになったのに。積み重ねることはとても難しい。でも、それを崩すのはこんなに容易い。
 彼女は今、何を考えているのだろう。おれを振ったことをどう振り返っているのか。それとも、おれのことなんて何も考えていないかな。
 おれの想いに応えてくれなかった。つまり、彼女はおれに恋愛感情を抱いていなかったわけだ、少なくとも。そして、ひょっとしたら、誰か想いを寄せている人がいるのかもしれない、ということだろうか。
 では、どうして返事を一度、保留したのか。最初に、体育館裏に呼び出した時点で、告白されることは分かっていたのに。答えを準備する時間はあったと思うのに。なぜ、彼女は――。
 彼女に好きな人がいない、と考えてもいいのだろうか。それは性急か。
 まあ、どうであれ、おれの恋は終わったのだ。もう関係ない。諦めない、と強く言いたいところだけれど、しばらくそんな熱い感情は湧いてきそうにない。
 おれにはバレーがある。バレーに本気で打ち込もう。今までももちろん本気だったけど、もっと本気で。
 バレーがあってよかった。何も残らないところだった。

「そっか、ダメだったんだ」
 上野が部活前の開いた時間に、そう言ってきた。彼女が平気で話しかけてくるくらい、自分が回復したのだと理解する。
「ああ。分かる?」
「なんとなく。二人の雰囲気を見てると」
 というか、付き合い始めたら、もっと親密そうにしてるよね。上野はおれを見ないで言う。
「しばらく、話す機会もなくなるかもな」
「――私とは仲よくしてよね」
 口調が、寂しげだった。

「するに決まってるだろ。喧嘩別れしたわけじゃないんだから」
「うん」
 よかった、と彼女は微笑む。
「とりあえず、バレーがんばるよ。おれにはバレーがまだあるから」
「その意気よ。全国を目指してね」
「目指そう、の間違いだろ。女子も行けるって。死にもの狂いで努力すれば」
「そうね」
 頷く。
 顧問の早雨先生が体育館に入ってきて、部活が始まる、という雰囲気に辺りが変わる。
 今日から、本気。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?