四季、放送室にて ep.1

     少し肌寒くなってきた初秋 放送室にて


『……始まりました』
『始まったねー! あ、私、声大きいから、なるべく抑えないと迷惑かも』
『大丈夫だと思うよ。……私、今日、楽しみにしてたんだ』
『私も。そういえば、まだ自己紹介してなかった気がする。えっと、二年の伴菜摘でーす。伴っていう珍しい苗字は、伴う、と書きます』
『鎧坂敦子って言います。同じく二年です。声が小さくて聴こえづらかったらごめんなさい。……私たち、二人とも珍しい苗字同士だね』
『ほんとにね。こういう場ではインパクト大だから、すぐに憶えてもらえるかな』
『そうだといいね』
『それにしても、ほんとに嬉しいなー。あっちゃんと一緒にできるなんて。もー、待ち遠しかったよ』
『そうそう。私、楽しみなのと緊張とで、昨夜はほとんど眠れなかった』
『緊張するよね。なにか面白いこととか、ためになることを話せるわけじゃなく、ほんとにいつもの二人のトークをするわけだからさ』
『うん。普段聴いてて、この二人はこんな感じなんだー、とか、雰囲気いいなー、とか、そういうのが分かるだけでも楽しいから――』
『そうだね』
『仲のよさが伝わったらいいかな、って思います』
『それじゃあそろそろ、一曲おかけしましょうか』
『そうですね。……すごく迷った』
『迷ってたね。でも結局、二人の好きな曲ならこれでしょって、決められたよね』
『うん。今はもう、この曲以外にあり得ない』
『準備ができたみたいです。――それでは聴いてください。ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」より、「私のお気に入り」』


     *


 混雑している朝のホーム、すぐ目の前を歩く少女の制服に目を留めて、かわいい、と思った。続けて、どこの学校だろう、と思いそうになって、心の中だけで苦笑いする。つい他校と自分のところの制服を比較してしまったのは高校時代の悪い癖で、かく言う現在の私は私服で大学へ通う大学生だ。だから、かわいい、と思うに留める。
 ホームには階段やエスカレーターを目指す列ができていて、誰もが急いでいるはずなのに列は遅々として進まない。おかげで目の前の少女をよく観察できた。目が醒めるような白のセーラー服。三つ編みお下げの髪型がまたよく似合う。こういうシンプルなセーラー服に憧れた。まさに女子高生、という感じがして。でもほんとうは、お互い、ないものねだりなのは知っている。隣の芝生は青く見える、とは言い得て妙で。私の通っていた高校のブレザーが憧れられる瞬間もあった。
 ようやく階段にたどり着いて、前の人たちが下りてゆくのに合わせて慎重に足を踏み出す。これだけたくさんの人がいてもなんとなく秩序が保たれるのは、日本人の特性ゆえだろうか。気づいたらずっと前にいてくれた少女は隣の列へ流されていて、残念ながらどんな顔立ちなのかは最後まで確かめられなかった。
 大学生になって迎える、これが二度目の春だ。池袋駅の混雑具合にもようよう慣れてきた。大学生のノリ、とかはこういう性格をしているから相変わらず分からないけど、友達はできた。なっちゃんもいるし。
 改札を抜け、周囲と歩調を合わせるようにして急ぎ足でしばらく進むと、地上出口に出られる。春らしい一陣の風が吹きつけて、朝の匂いを嗅いだ。今日もここから始まる。誰かと制服を比べ合うことはできないが、懐かしむことは許されている、そんな今。平日の朝、池袋駅西口はまだ大人しやかにしている。こういう一面を垣間見られるから、朝はいい。
 劇場や商業施設の間をとぼとぼと歩いてゆき、やがて大学名を冠した通りに出る。赤煉瓦敷きの綺麗な通りで、左右にはいかにも学生向けと思われるお店が並ぶ。ただ、知っているようなつもりになっているけれど、私はそのほとんどに足を踏み入れてみたことがない。交友関係も行動範囲もごく限られているからかもしれない。卒業するまでにはもっとこの辺りについて詳しくなっているかな。
 さっきから見知った顔がちらほら、見え始めていた。ずっと先、今まさに大学の正門を潜ろうとする人物は、あまりにも見憶えがあり過ぎる。なっちゃんだ。見つけただけで心が弾んだけど、周囲を憚って大声で呼べない。元来、私は臆病者だから。早く追いつけるようにと足を速めた。
 なっちゃんは、本名を伴菜摘といい、高校からの同級生だ。高校に入学当時から委員会を同じくしたことがきっかけで、すぐに仲よくなった。人見知りしてしまう性格の私にとって、出会って間もなく打ち解けられたのは珍しかった。それだけ、本能的に、この人なら大丈夫と頭が理解していたのかもしれない。
 学力も似通っていたため、同じ大学の同じ学部を第一志望に据え、そして見事に揃って合格した。新しい環境での生活には不安が付きものだけど、なっちゃんがいると分かってその不安は軽減された。
 気の置けない間柄ではあるが、私となっちゃんは対照的なタイプの人間だ。引っ込み思案の私に対して、なっちゃんはとにかく前向きで、ものごとに積極的。あと、声が大きい。それなのにどうして仲よくなれたのか、と不思議がることもできる。そういう二人だからこそしっくりいったのか、と腑に落ちることもできる。その分析に答えを求めるのは、たぶんもう少し先でいいのだろう。
「なっちゃん」
 正門から入ってすぐ、一階に演習やゼミなどを行うための小教室がある建物へと吸い込まれたなっちゃんが、声に反応してパッと踵を返す。私の姿を認めると、いつもみたいに微笑んだ。
「あっちゃん」
 慣れ親しんでいる呼び名なのに、大学生になってから「あっちゃん」が少しだけこそばゆく感じるようになっていた。そこまで強い感情ではないから、改めてと彼女に頼んだことはない。
 人の少ないキャンパスで、私たちの話し声だけがよく通る。廊下にさりげなく響く。まるであの日のラジオみたいだと、やはり私は思うのだ。


 お昼休み、二限の講義には親しい友人が見当たらないため、一人で学食に向かった。いくら私でも全力で探そうとしてみれば友人の一人や二人見つかるとは思うが、そこまで誰かと食べることに固執したくない。
 ここの学食はけっこうおいしい。ほかと食べ比べる機会はめったにないものの、栄養バランスがしっかりしていて、味付けもそんなに濃くない。及第点、よりももう少し評価できる。
 券売機で一つを選び、学食のスタッフに渡す。それほど待たずして運ばれてくる料理を受け取り、教会みたいな造りの大部屋に入った。大部屋の中には木製の長机がずらりと並んでいて、私は初めてここを訪れたとき、『ハリー・ポッター』のワンシーンを思い出した。ハリーたちもこんな感じのところで食べていたな、と。
 適当に空いている席を見出して腰掛けた。三、四人で食事を摂っているひとがほとんどだが、一人も別段珍しくはない。カリキュラムの編成を個人個人でできる分、仲のいい誰かと一緒になれない瞬間はどうしてもでてくる。高校までは考えられないことだった。
 高校時代、私はお昼休みが楽しみで仕方なかった。授業に真面目に取り組めない生徒だった、というわけではなく。学校で過ごす一日のどんな時間よりも楽しみなのがお昼休みの時間で、そう思えるだけのなにかがあったのだ。
 ――……始まりました。
 ――始まったねー! あ、私、声大きいから、なるべく抑えないと迷惑かも。
 ――大丈夫だと思うよ。……私、今日、楽しみにしてたんだ。
 今でも自分たちの回の内容は、大まかだが憶えている。緊張していて、話すことも「いつもどおりを心がけよう」としか決めていなくて、頭が真っ白になりそうだった。それなのに、終わってからもどんなやりとりをしたかちゃんと憶えていた。
 私が通っていた高校には「校内ラジオ」という習慣が存在した。自薦、他薦、さまざま入り乱れてできた二人組か三人組が、ただただ放送室で会話し、それを全校に流すだけ。昔から続いているらしいけど、誰がどのような理由で始めたのかは定かじゃない。しかも、そんなあやふやなものが連綿と現在まで受け継がれているのが不思議でしかない。
 謎に包まれたその「校内ラジオ」が私は好きだった。そのために高校三年間通った、そう言っても言い過ぎではない。よく知っている人や、ちょっと知っている人、あんまり知らない人の、普段通りなのだけど、でも少しだけ聴いている人たちを意識している言葉のキャッチボールが、なんだか好きだったのだ。
 覗いてはいけない部屋を覗いてしまった後ろめたさ、あるいは、この人たちはある程度リスナーの反応を計算してやっているのかもしれない、という勘繰りなど、楽しみ方はそのときどき。女子校だったから憧れの先輩の声も聴けた。それから、憧れの「後輩」も――。
 食べながら在りし日の思い出に耽っていたが、ふと目の端に見慣れた横顔を捉える。前髪を上げて形のよい額を露わにしているなっちゃんが、おぼんを持って今まさに食堂に入ってきたところだった。この時間空いているならお昼に誘えばよかった。今日は偶然、一限の前に会って話したけど、お昼はどうかとかはそういえば訊かなかった。
 すると、なっちゃんの後ろから三人の女性が並んで入ってくる。身を寄せ合って、いかにも仲睦まじげに言葉を交わしながら。私はしばらくその人たちをそれとなく観察した。観察してみてすぐに分かった、どうやらなっちゃんはその三人と知り合いで、直前の講義が同じだったのだろう、それで一緒にごはんにしようとなったのだろう――だけど、その中にあってなっちゃんは違和感でしかなかった。会話に入ってはいるけど、なっちゃん以外の三人で目を見交わしていることが明らかに多い。それに、なにより、格好とか、服装とか、言ってしまえば身に纏っているオーラからして、なっちゃんはどこまでも馴染めていなかった。
 私は目を伏せた。自分の友達をこんな風に評したくない。そしてそう感じたところで、どうするつもりもまた、私にはないのだった。
 華やかで、お洒落で、パッと目を引く容姿で――なっちゃんは、ほんとうはああいう子たちと友達になりたいのかな。やめておいた方がいいと思う。私と友達でいるのが分相応というもの。
 高校生の頃、憧れていた後輩がいた。正しくは二人いたから、後輩たち、だが。その二人は私に限らず、校中のほとんどの女生徒の心を掴んでいた、咲き誇る二輪の花だった。彼女たちの一挙手一投足に注目が集まる――そんな漫画みたいな話が、かつてほんとうに存在した。
 二人は仲がよかったから、ラジオもきっと一緒にやるだろうと踏んでいた。しかし、期待に胸を膨らませている私をいなすようにその機会はなかなか訪れず、ついにそれが実現したのは、私が卒業した翌年だった。
 人伝にどんな様子だったのか尋ねてみても、どうにも明瞭としない。私の人脈ではそれが限界だった。二人は、今、どうしているだろう。
 もうなっちゃんの方は見ていなかった。黙々と料理を平らげてゆき、次の教室移動のために食堂を後にした。


 その日の五限は通年の演習の初回で、教授がこれからの予定について簡単に話すと、残りは生徒たちの自己紹介の時間となって、和やかなうちに終わった。教授が教室を出てゆくと、かっこよくていかにも飲み会の幹事をやってくれそうな男子が「早めに終わったんで、せっかくなんで飲みに行きませんかー?」と呼びかけた。周りはノリよく、即座に参加をアピールした。
 通年、だから、一年間ずっと、このメンバーでやってゆく。みな同じ二年生で、この演習には、来年から始まるゼミのお試し版みたいな意味合いもある。もしかしたらこの中の何人かは、またゼミで再会するかもしれない。
 私は少し迷った。知り合いはいないでもないけど……という感じ。週に四日アルバイトを入れているのに、今日に限ってはなし。六限も待っていない。断る理由は確かにないが、適当に拵えることはいくらでもできる。そんな風に逡巡していると、「鎧坂さんは、どう?」とさっき呼びかけていた暫定幹事に問われた。
 こちらは彼の名前を知らないくらいだからお互い初対面。一応、少し前の自己紹介で名前を告げていたけど、彼みたいなタイプの人に憶えられていたのは意外だった。……だから、というわけではないけれど。
「じゃあ、せっかくだから」
「よし、行きましょう」
 ――……私たち、二人とも珍しい苗字同士だね。
 ――ほんとにね。こういう場ではインパクト大だから、すぐに憶えてもらえるかな。
 私もなっちゃんもめったにいない苗字とあって、それにまつわる悩みは共通していた。
 結局、バイトがある、という人と、六限がある、という人がそれぞれ出ただけで、三十人近くいるメンバーのほとんど全員が参加することに。キャンパスをぞろぞろと出て、連れて行かれるままに通りを歩いてゆく。こんな人数ですぐに入れる飲み屋なんてあるのかと思っていたら、幹事の彼の知り合いのお店が近くにあるそうで、連絡したら席を用意してくれたという。こういうことに、ずいぶんと慣れているらしい。
 池袋駅近くまで歩いて、東京芸術劇場のすぐ向かいにあるバーに入った。店内は薄暗くって、サックスの音が印象的な音楽が頭上から降ってくる。みんなは平気な顔をしているように見えるけど、私はだいぶ気圧されていた。こんなお店、大学生が来るものかしら。
 店の奥が仕切られていて、そのスペースを貸し切りにしてもらえたらしい。全員入れないことはないが、窮屈さは否めない。私は鞄を抱きしめるみたいな格好で、ちょこんと端の席を選んだ。名前を呼んでもらえたくらいでほいほい付いてきたことを、飲み会が始まる前から後悔していた。
 そこからなにがどうなっていったのか、はっきりとは思い出せない。ぼんやりと飲み慣れないお酒の杯を重ねて、でも気持ちよく酔えなくて。同性の子とはけっこう話せて、なんとか今後一年やっていけそうだな、と思う一方、異性からは言葉をかけられることもまるでなくて。幹事の彼も再び「鎧坂さん」と呼んでくれることは、ついぞなかった。
 不明瞭になってゆく視界の中で、かわいらしい同期の女子たちを見つめる。男子からちやほやされて、愛想のいい笑顔を輪の中心で咲かせているのは、いつだって彼女たちみたいな女子だ。私じゃなかった。ずっとそれでいいと思ってきた。日陰者、とまでは言わないけれど、私は私。マイペースに自分らしく生きてゆける、そう思っていた。
 それなのに、今胸の内に巣食っている説明できない感情はいったいなに。
 飲み会はお開きとなり、二次会へ移行する流れがこちらへ来る前に、私はそっと抜け出した。やけに混んでいる電車に揺られ、住んでいる街に帰ると、人通りのない道で不意に泣けてきた。寂しい、とやっと自分の感情に名前を付けられた。私は寂しいのだ。大学に行って、一人で帰ってくるときには決して覚えなかった感情。喧騒から、たくさんの誰かに囲まれている状況から抜け出したときの方が、ずっと寂しい気持ちにさせられると、このとき思い知った。
 手の甲で目元を拭うようにして、通りの途中にあるコンビニに入った。甘いものでも買っていこうかと思いついて。だけど店内をうろうろした挙句、私を甘やかしてくれるものをなにも見出せなくて、手ぶらで店を後にした。


 図書室へと続く幅の広い階段を上っていたら、頭上からなっちゃんの声がして振り仰いだ。会っていなかったのは一週間もない。それなのに、ずいぶん久しぶりな気がした。なっちゃんは私と目が合うと、にんまり笑う。つられるようにして、私の口も笑みの形を作る。
「空き時間? ちょっと、近くの喫茶店で甘いものでも食べない?」
 ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」のヒロインに憧れていた。正確を期すなら、今も憧れている。歌を歌って、いつでも前向きに生きてゆく彼女の姿勢に心震え、ああなりたいと思ってしまった。でも、その憧れは誰にも言えなかった。だって、その思いを繰り返し述べれば述べるだけ、自分に備わっていない部分を声高に伝えることになるから。人は、自分にはないものを持っている他者に惹かれる。
 その憧れを伝えられたのは、今も昔もなっちゃんだけ。
「ごめん、次の時間までに課題やらないといけないから……また今度、行こう」
 うん、分かった、と一瞬だけ残念そうな顔を浮かべてから、なっちゃんは頷いた。その一瞬は、私に後ろめたさを抱かせるには十分な時間だった。
 じゃあね、と手を振り合って別れる。互いに背を向け合って歩き出し、離れてゆくそれぞれの足音がなんとなく聞こえる。聞こえなくなったところでそっと首だけ巡らしたら、やっぱりなっちゃんの姿はもうなくなっていた。
 あのヒロインになれるのは、私とかなっちゃんでは絶対にない。なっちゃんが仲よくなろうとした娘たちでもなければ、先日の飲み会でちやほやされていた娘たちでもない。私は、本物のヒロインを知っている。
 高校時代、伝統的に受け継がれてきた校内ラジオよりもずっと謎だったのは、とある後輩二人の美しさ。かわいい人は学校という箱の中で一定数、確かに存在するが、あの二人はその枠を超えていた。ぞっとするほどに美しいのだ。
 あの二人のラジオがどうだったろうと想像し出すと、止まらなくなる。夢にまで見るくらいだ。今日はいよいよ二人の出番、その直前までの高揚感を確かに抱えているのに、いつも始まる少し前で目が醒めてしまう。どうせ夢想だったとしてもいいから、見せてくれればいいのに。
 一学年上だったことが恨めしい。三年生になるまで二人のラジオが実現しなかったことが心底、恨めしい。
 自分はこういう人間なのだと絶えず言い聞かせていても、やっぱり憧れの存在はいて。憧れの存在がいるということは、そうなりたい、変わりたいと心のどこかで望んでいる、そのなによりの証拠。
 なっちゃんといるのは居心地がいいけど、もしかしたら、ちょっとだけその居心地のよさが厭わしくなったのかもしれない。
 あっちゃんでいるのは気が楽だけど、もしかしたら、私はそろそろ「敦子」になりたいのかもしれない。
 細く息を吐き出して、とりとめのない思考の巡りに終着点を見出した。変わりたくても、人が劇的に変わるには日常という檻はあまりにも頑丈。
 そして。
 高校に咲いていた二輪の鮮やかな花、アヤメとチエは、今どうしているだろう。

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