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かごめ ep.1

   第一話 かごめ、かごめ


 綾音は春を迎えた。今度一学年進級する、ということは、この高校で初めて後輩ができる、ということだ。実感はまだあまりないけれど、布団の下に襞が綺麗になるようスカートを忍ばせながら、綾音はときの経過の早さを思った。
 この山深い学校は鳥籠みたいだ。電鉄の通っている駅までは遠いし、活動を観に行くとなったら乗り次いでいかないといけない。なんでもあるようでいて、将来が約束されているようでいて、綾音たちは広大な敷地の内部で放し飼いにされている。それが不満だとか、漠然と不安だとか言いたいわけじゃない。ただ、ときどき考えるだけだ。この場所の異質さを。
 ――綾音、文芸部に入ったの?
 すべての学科が終了して、放課となった頃合い、綾音は澪南に部活はどこに決めたのかと問われたから、正直に答えた。すると、それまでの談笑ムードがぱたりと失せ、澪南は眉を顰めた。
 ――文芸部は辞めておいた方がいいよ。なんでも、曰くつきらしいから。
 澪南は怪談の類にいつも興味津々で、そういった情報は誰よりも早い。綾音は友人の忠告を真に受けることはなく、志望を変えずに文芸部へ入った。
 あれから、もう一年。真相のほどは相変わらず分からないけど、澪南が口にしていたよくない噂はすっかり学年中、あるいは学校中に広まっていた。おかげで部員は綾音のほかに一人もなく、顧問の佐々井先生もまったくお飾りで、黙々と部室で読書に耽ったり、思い出したように文章を綴ったりしているしかない。
 仲間の存在を求める瞬間は少ない。一人の方が気楽だ。だけれど、どうしてそんな噂があるのか、そこはどうにも気になる。
 新しく鳥籠に収まる新入生たちも、いずれは話を耳にするはずだ。万が一文芸部に入部してくれる人がいても、それを忌避して辞めてしまうかもしれない。どんな人が来るかにもよるが、綾音にはどうなろうと問題なかった。自らの居場所はきっと変わらない。
 スカートの襞が思うようにいったところで布団を被せ、早々に眠りに就く。女学生には寝押しが肝心。


「新入部員、入らないな」
 いつもどこか気怠そうな雰囲気の佐々井から、綾音は部室の鍵を受け取る。毎日の恒例、そして、文芸部顧問である佐々井が現状果たしている唯一の役割、鍵の受け渡し。部室へ顔を出すことも、あれをしなさい、と指示を出すこともない。部員が綾音一人だからではなく、おそらく大勢いたとしてもこのスタンスは同じなのではないか。
「熱心に募集していませんからね」
 吹奏楽部や合唱部、バレーボール部などは新しい子たちを取り込もうと、ビラを配り、体験入部を推奨し、部活説明にも余念がない。文芸部は綾音しかしないから、こういった活動をするとしたら綾音自身が動かねばならないけれど、彼女にまったくその気はない。そもそも部室は手狭で、たくさん来られても窮する。ないとは思うけど。
「いや、一人か二人くらい入ってもいいような気がするのだが……まあ、そのうち現れるかな」
 それだけ言うと、佐々井はまた仕事に戻る。綾音はこの先生が嫌いではない。感情表現が苦手な綾音は、どの先生とも上手くいくとはあまり言えない。ただ、この佐々井とは普通に接せられる。気を遣わなくていいからかもしれない。
 部室に辿り着き、解錠する。しんとした室内の左右には本棚が並び、雑多にあらゆる本たちが収まっていた。著者名順、あるいは出版社順に整理することも考えたが、部員一人では容易に実行へ移せない。
 椅子に腰掛け、文庫本と原稿用紙をなんとなく机の上に出してみてから、綾音は頬杖をついて窓の外を見つめた。澪南から、噂のあらましは大体耳にしている。綾音たちが入学する直前の冬、この学校で生徒が一人死んだらしい。自殺だと推測されたことと、そして閉鎖的なこの学校の立地条件から、大きく報道されることはなかった。先生たちも多くを語らない。はっきりしていない部分が少なくないせいで、生徒たちの間でああでもない、こうでもないと囁き交わされる今を招いた。
 その死んだ生徒が、綾音が来るまでのたった一人の文芸部員だった、ただそれだけの話。綾音の一つ上だから、順当に行けば今頃その人は部長という肩書をもらっていたはずだ。
(どんな人だったのだろう)
 いろんな人から伝え聞いても、その全体像がどうにも浮かび上がってこない。それだけ大人しく、個性が乏しい少女だったのかもしれない。
(どんな本が好きだったのか、どんな創作をしていたのか……)
 それらを知る手掛かりは、この部室に残されていない。誰と仲がよかったのかも今のところ分からない。ただ一人、もしかしたらその少女を詳しく把握している可能性のある存在なら、心当たりがある。
 耳鳴りでもしそうな部屋で粛々と読書をし、たまに思い出したように原稿用紙と向き合った。普段空いている時間にしていることとなんら変わりないのに、この部屋で行っているうちは部活動と銘打てる。今日も少しずつ室内が夕陽色に染まっていく。
 唐突に、がらりと部室の扉が開いて、人影が一つぬっと入り込んできた。平素の仏頂面の佐々井が、口だけで「おう」と呟いて、特段の説明もなしに向かい側の席へ腰掛ける。鍵の受け渡ししか顧問としての仕事を果たしてこなかったから、部活動中に姿を見せるのは前代未聞だ。綾音は驚きの声こそ上げなかったものの、瞳を大きく見開いて佐々井をまじまじと見つめた。
「なんだよ、そんなに見つめるなよ。照れるじゃないか」
 と、まるで照れていなさそうに言う。でも、その一言で、綾音は狭い室内に男女二人きりであることを意識する。頬が熱くなりそうなのを、無関心を装って振り払った。
「先生に訊きたいことがあるのです」
 佐々井は相変わらず口端を軽く持ち上げて、常に見ない綾音の様子に満足しているみたいだった。だが、続けて綾音が告げた名前を聞くと、一瞬表情を曇らせた。「瀬尾かごめさん、ってどんな人でした?」


 食堂と寮の間にある噴水脇でご飯を食べていたお昼のことだった。綾音の横に駆け寄ってきた若松澪南が、呼吸を整えてから喋り出す。周りに人なんてほとんどいないのに、声を潜めて。
 ――例の人の名前、分かったの。
 澪南は、それは噂の類が大の好物で、一度気になったら究明せずにはいられない性質なのだ。たとえそれがどんなに不謹慎な行動だったとしても、気づけないほどに。
 ――例の人って、文芸部にいたっていう人の話?
 ずっと走ってきたはずなのに、澪南はすぐに正常な呼吸を取り戻した。さすがは陸上部。
 特別、強い興味はないと突っぱねることはできた。それくらいで澪南は気落ちしたり、綾音を見限ったりはしないだろう。だけど、彼女は入学して最初にできた友人だった。互いの状況が少しずつ変わっても、大切にしなければ、という思いは胸にくすぶっていた。……あるいは、状況が少しずつ変わっていたがために、か。
 ――そうよ。瀬尾かごめさん、って言って、随分と物静かな人だったみたい。本好きで、成績はそれほどよくなかったそうよ。
(私に似ている……)
 綾音は少し居心地が悪くなってきた。あまりにも合致する部分が多い。第三者からすれば「似た者同士」と断定するだろう。だけど、澪南は決してそうとは言わない。ほんとうに、二人を結びつけて考えることがないようだ。
 ――学校も文芸部を廃部にしたらいいのに。綾音、ほかのところに移ったら?
 綾音は迷っている素振りを一応見せてから、ありがとう、と告げる。でも、ほかに取り柄もないから。それに、小規模の方が性格的に落ち着くの。
 誰かが入部する可能性を匂わせてみても、実際には文芸部の部員はずっと綾音一人のままだ。だがとりあえずは、澪南も引き下がることにしたらしい。
 ――なにかあったら、言うのよ。
 なにか、とは果たしてなんだろう。一年が過ぎても綾音にはよくも悪くもなにも起こらない。


「瀬尾かごめさん、ってどんな人でした?」
 最終下校を促す鐘の音が遠くで聞こえる。机を間に挟んで向き合ったまま、綾音と佐々井はその均衡を崩さない。やがて佐々井は短く息を漏らすと、やおら席を立って窓辺に寄った。校舎から寮へ引き上げていく生徒たちの波を見送っている。
「いい子だったよ」
 それだけ呟いて、綾音の視線を受け止めた。「もう下校時刻だ。続きはまた今度な」
 これ以上引き出せない、とこの場では判断した。だけど、きっぱりとした拒絶もない。いつになるかは分からないけれど、ちゃんと話してもらえるときは来るのではないか。綾音はそう感じ、素直に部室を後にした。
 校舎はすっかり生徒たちがいなくなってがらんとしている。自らの足音しかしない不気味な廊下を急ぎ足で渡り、敷地内に隣接している寮を目指した。
 噴水の向こう側、校舎と平行になるようにして学生寮がでんと構えている。造りも新しい方で、快適に暮らせそうなのが外観からも伝わってくる。この高校は全寮制で、一年生から三年生までの全員に一部屋ずつ与えられている。休みに日にどこかへ出かけるのは自由だが、日常生活の大半がここの敷地内で完結してしまう。綾音は次第に慣れていったものの、入学当初は学校生活と私生活の境界線が曖昧なことにかなり戸惑った。
 鳥籠、という言葉がいつも思い浮かぶ。人生の中で三年間なんてあっという間なのだろうけど、ここに囚われている三年間はきっとどこで過ごすものよりも濃密なはずだ。
 最終下校の時刻から少しで夕飯の頃合いとなる。学生寮の一階にある広い学生食堂で揃って食事を摂る。綾音は荷物を自分の部屋に置くと、隣の部屋の戸を叩いた。澪南の部屋だ。しかし、反応はない。
(まだ戻ってきていないのかな)
 念のためもう一度戸に手を当てようとしたとき、「あ、綾音」と声がした。澪南と、同じ陸上部の本田美波、東七瀬、春川麗華も一緒だった。綾音が「こんばんは」と折り目正しく挨拶をすると、軽い調子で「こんばんは」と返してくれる。三人とも一学年先輩、最高学年の三年生だ。
「じゃあ、澪南。お疲れ」
「お疲れ様です」
 三人は自分たちの部屋へと去っていく。陸上部はほかの運動部に比べると穏やかな雰囲気に見え、綾音はもし足が少しでも速かったら陸上部を選んでいたのに、とときたま考える。
「綾音、お待たせ。ご飯食べに行こうか」
「うん」
 そんな想像をするのは、いつも部活後の澪南の表情が随分と爽やかだからだ。


 遅れて行ったためか学生食堂の席はあらかた埋まっていて、お盆を手にしたまま綾音と澪南は立ち尽くした。きょろきょろと辺りに目を配っていると、「あそこ、空いている」と澪南が一方を目線で示す。ちょうどさっきすれ違った陸上部の先輩三人の隣が空いていた。綾音が頷き、二人はそちらへ向かった。
「お隣、いいですか」
 澪南が如才なく声をかけると、三人とも顔を綻ばせた。「どうぞ、どうぞ」
 澪南が春川麗華の隣に座り、綾音は本田美波の隣だった。麗華の向こうに東七瀬がいる。
 いただきます、と食べ始める。澪南はよく食べる方で、部活の後が特に顕著だ。文芸部でカロリーをほとんど消費していない綾音の分のお米もおかずも食べてしまう。代謝がいいからか、たくさん食べるわりに澪南はずっと痩せている。
「若い、って感じがするね。澪南の食べぶりを見ていると」
 麗華がしみじみと呟く。高校での一年の差は傍から思われるよりも大きい。
 綾音は黙々と箸を動かして咀嚼しながら、先輩たちを観察した。澪南からいつも話を聞いていたから、ほとんど会話したことがなくても彼女らを把握している。春川麗華は陸上部の部長で、だけどどこか抜けているところもある、愛される存在だ。感情を如実に映し出す大きな瞳が特徴。
 本田美波は髪を巻いていて、喋り方も仕草も甘く、ふわふわとしている感じ。三人の中では最も女の子らしい女の子だ。短距離を走るときだけ、常になく機敏になる。
 東七瀬は聞き上手で、今も麗華と美波が話すのを頻りに頷いて先を促している。時折儚げに睫毛を伏せるが、ここぞというときの肝っ玉の据わり様は、部内で一番だそう。
「この間の実力試験、どうだった? 私、二年はほんと順位落としたから、そろそろ巻き返さないといけないのよね」
「私は微妙だったかな。七瀬はまた学年一位獲れそう?」
「いや、どうかな。まぐれだったと思うから」
「まぐれで一位にはなれないよ。すっかりこの一年くらいで順位上げたよね」
「でも、麗華は部長やっているし」
「まあ……でも、陸上部の部長って、ほかの運動部に比べると弱い気がする。どこまで加点してくれるか、どうか」
「ほんとにこの学校、試験ばっかり。推薦が懸かっているからしょうがないけれど」
 黙々と顔を俯けながら、綾音は食べ続ける。
(どこも話す内容は大体一緒だ)
 その意識を遮るように、澪南の声がした。「綾音」パッと彼女の方を見やると、ある一点に視線を注いでいた。「揚げ出し豆腐、食べないの」
 綾音があげる、と言うが早いか、澪南は箸を即座に伸ばして、あっという間にそれを口の中に収める。目を細めて頬張る彼女の成績に、綾音のそれは遠く及ばない。先日の実力試験もさぞや水をあけられたことだろう。

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