かごめ ep.5

   第三話 夜明けの晩に、鶴と亀が出会った


 毎年秋に行われる芸術祭が先週終わり、そこを一つの区切りに、三年生は部活動から身を引く。一年生の吉田栞は、まだずっと先に待っていると思っていたものがいきなり目の前に現れた心地がし、涙ぐんだ。
(最後まで絵梨花先輩の歌声はほんとうに素敵だった……)
 透き通るようなソプラノ。情感がこもる瞬間は漏れなく鳥肌が立つ。栞は先週の模様を思い返しながら、恍惚と余韻に浸った。部員が多くない関係もあって、ピアノの伴奏をこなしながら歌も歌う八十島絵梨花は、その披露の間中紛れもなく主役だった。
 そういうカリスマ性のある存在が欠けてしまっても、栞は歌うことが好きだから合唱部を続けるつもりではあるが、心にぽっかりと隙間ができたのは否めない。栞自身が絵梨花のようになっていければ世話ないけれど、一足飛びにたどり着ける境地ではない。
 合唱の前には演劇部の出番があった。例年、誰もが知っている有名な作品を披露しているそうだけど、今年は趣が違った。完全オリジナルストーリーで、一人の三年生が内容のほとんどすべてを作り上げたという。――内容はなんとも言えないものだった。想い人との死別を引きずっている男の人が、彼の暗さを明るく照らすような女性と出会い、惹かれ合っていく物語。あらすじだけならそれに尽きるが、かつての想い人は実は自死を選んでいて、その理由はなんなのか、そして生きること、死ぬこととはなんなのか、という重いテーマも込められている。やがてハッピーエンドに至るものの、観ている者にいろんなことを考えさせる渾身の舞台だったと、栞は深く感じ入った。
 奇妙な学校だと思っていた。厳密には今でもそう思っている。栞はこの学校についていい評判しか聞かず、入学が決まったときは将来への道筋が立ったと喜んだ。春から実際に通い出してみて、確かに広大な敷地の中で近代的な校舎と豊かな自然が溶け込んでおり、申し分のない環境ではあったけれど、しかし、生徒たちがどうにもほんの少し様子がおかしいのだ。そのおかしさを栞は上手く説明できない。ただ漫然と日々を送っているような、一方で変なところでこだわりを見せることもある。もうすぐ冬を迎える。もしかしたら一年生らも学校の雰囲気に染まりつつあるのかもしれないと、諦念めいた考えを抱いていた。
 そんな折だったからこそ、先日の意表を突くような舞台は、抱いていたおかしさを思い出させると同時に、だけどみんながみんな染まっているわけじゃないと、認識を新たにさせた。そういう意味でも大きな意義があった。


 全寮制のため、一日の始まりも終わりも寮内にて迎える。朝、定められた時間までに、建物の一階、噴水前に学年ごとに整列。全員揃っているか点呼を行い、週替わりの当番が連絡事項を伝える。終わったら朝食となるが、朝寝坊してしまった生徒は寮監に叱られ、罰を科される。原則禁止されていることではあるけど、生徒たちは共闘を組んでちゃんと起床しているか確かめ合い、罰を逃れようとする。
 食事は三食、食堂で摂る。メニューは豊富だ。休日・祝日は、朝だけパンが支給される。お昼以降は外部から取り寄せるか、自分たちで作るしかない。
 部屋の掃除、衣類の洗濯は生徒自身でしなければならない。夜、学習時間と決められている一時間はほかの人の部屋を訪ねてはならない。相応の理由がない限り、外出許可は容易に得られない。……などなど、こまごまとしたことはまだまだ存在する。とにかく、規則正しい生活を心がけねばならず、常に他人を意識しないといけないため、息が詰まるようだと感じる生徒も少なからずいる。
 今日もまた一日が始まる。栞ははす向かいの部屋の戸をそっと叩き、中へ呼びかけた。「美津紀、起きている?」
 少し待っても返事がない。栞は、今度は強めに戸を叩いた。するとようやく渡邉美津紀の眠たそうな顔が覗いた。「おはよう、栞」
「おはよう。そろそろ噴水前に行かないとまずいよ」
 言い聞かせている傍から、廊下にはぞろぞろと歩く人の姿。
「ありがとう。顔だけ洗ってくるね」
 一旦部屋の中へ消える美津紀を、栞は今日も綺麗だと感じる。寝癖がついていても寝ぼけまなこでも、大人っぽく整っている彼女の容貌が大きく損なわれることはない。中身は高校一年生相応なだけに、その相違がかえって魅力になっている。
 なかなか美津紀が出てこない。顔を洗うだけだと言っていたのに。栞はさっきからずっと焦っている。点呼の時間に遅れたら面倒くさいことになる。仕方なく部屋に入って美津紀を呼んだ。
 すると、美津紀は寝床に身を横たえて、二度寝の体勢に入っていた。
「美津紀!」
 毎朝こんな調子だ。


 移動教室の移動先にたどり着くまで、なんでもない話を交わす。美津紀はときどき、両手で抱えている教科書やノートを右から左に軽く振るような動きを見せる。栞はそれを目にする度、無意識の癖になっているのだろうと捉える。
 美津紀を毎朝起こすのに苦労する理由。見た目の影響もあるだろうけど、いつも落ち着いていて大人びていると感じられる理由。無意識の素振りの理由。大げさなことではない。だけど、彼女にはこの学校において破格の特権が与えられている。
 通常、栞たち学生は、卒業を迎えるまで学校の敷地内から出ることを許されない。家族や親戚との面会も、来てもらわないといけない。危篤だとかよっぽどの事態にならない限りは、敷地の外へ出たいと申し出ても首を横に振られてしまう。それは入学の際の条件の一つでもある。広大な土地に造られているため、確かに閉塞感はそれほどないのだが、とはいえ誰もが鳥籠の中で雌伏の時間を送っていると考える瞬間もままある。
 だけど美津紀は、在校生でただ一人、頻繁に外出することを許されている。授業が終わり、それぞれが部活や委員会の活動に散る中、彼女だけはそっと校舎を抜け出して、ある場所へと赴く。
「学校の外って、どんな風に映る?」
 決められた席に腰掛け、担当の教師が現れるのを待つ。美津紀はひょいと首を傾げてから、ああ、と得心がいって話し出した。
「そんなに遠くまで行ってないから、外出している感覚はそんなにないけど。それに、入学前に散々あちこち見てきたでしょ?」
「まあ、そうだけど」
 閉じ込められていると、見え方が違うような気がしたのだ。
 美津紀はゴルフをずっとやってきていて、高校進学後もプロを目指して続けるつもりだった。ちょうどここからそう遠くないところにゴルフ場があり、生徒たちが部活動をしている最中、練習に励んでいる。学校側から特例を与えられるくらいだからきっと並じゃない実力の持ち主なのだろうが、栞には詳しいところは分からない。休日に、大会に出場するために遠出するケースもしばしばある。栞はいつも「どうだった?」と訊いてみるけれど、美津紀から返ってくる答えは「いい感じだった」とか「今一つだった」という程度で、具体的な成績は教えてもらえなかった。栞の方でも、踏み込んで明らかにする気もなかった。
 美津紀は特別だから、という空気が透けて見える。進む方面が決まっている彼女は、多くの同級生にとって、進学の妨げにならない存在だ。だから、みんなから自然に接してもらえる。利害も打算もない関係が、少し羨ましい。
「もっと上手くなりたい」
 見据えているものがまるで違う。教師が教室に入ってきて、波が引いていくようにだんだんと静けさに包まれ出す。
(私も特別だったらよかったのに……)
 この場所で自然体を手に入れることは存外難しい。


 冬が深まりつつある。始業前の早い時間帯は、校舎が静けさの中に沈んでいた。吐く息が白くなるこの季節、より無音が耳に響くようになっている気がした。靴音高く歩くことがなんとなく憚られて、栞はそろそろと廊下を渡っていく。
 目当ての教室が近づいてきて、旋律が確かに聴こえてくるのが分かった。さっきから微かにピアノが奏でる音色が耳に届いていた。誰が弾いているのかすぐに感づくものがあって栞はそちらへ向かい、はっきり聴こえるようになると弾き手の正体に確信を抱いた。
 失礼します、と囁いてから戸をそっと引いたとき、目に飛び込んできたのは思いもかけない光景だった。ピアノに向かい、音を奏でていたのは栞自身の予想した通り、元合唱部の三年生、八十島絵梨花だった。けれど、旋律に合わせ、広い音楽室を自在に舞っている少女がいて、それは栞のよく知らない顔だった。知らないが、強く惹きつけられる踊りで、栞は胸の高鳴りを覚えた。
(誰だろう……絵梨花先輩のご友人かな)
 男の子みたいに髪を短くしていて、背は低い方だ。しかし、舞っている最中の彼女の動きはダイナミックで、小ささをまるで感じさせない。
 しばらく惚けたみたいに眺めていたが、絵梨花がたった一人の観客の存在に気づいた。「栞。いつからそこに?」
 絵梨花が弾き止めたことで、もう一人の少女も動くのを止め、栞を一瞥してからしゃがみ込んだ。彼女は薄っすら汗をかいている。
「すみません、ピアノの音が聴こえてきたものですから……その、とてもよかったです。お二人の――」
 栞は、今しがたまで目にしていたものを表す言葉を見出すのに窮した。
「共演していたの、私たち」
 ねえ、莉奈、と絵梨花が笑みを向ける。すると黙り込んでいた莉奈が、うん、と笑みを返した。少年のような眩しい笑顔だ。
「合唱部の後輩?」
「そう。一年生の吉田栞さん。将来有望な後輩なの」
 思いもかけない言葉がもたらされ、栞は首を竦めた。
「私は平岡莉奈。はじめまして、だよね」
「はい、はじめましてです。吉田栞といいます」
「あなたは、なにが得意?」
 え、と栞は間の抜けた声を発する。
「あなたもピアノが弾けるの? それとも、歌う方がいい?」
「ピアノは……そんなに弾けません。簡単なのだけで。歌は好きです」
「それなら、歌って」
 栞はまたも間の抜けた声を出す。歌って、とはどういう意味だろう。思わず絵梨花を見やると、彼女は満面の笑みを浮かべていた。莉奈がとても優れた提案をしたみたいに。
「絵梨花がピアノで、私が踊り、あなたが歌う。三人で合わせましょう」
 どうしようかと逡巡する暇もなく、もう巻き込まれている。馴染みの音色に誘われてしまった時点で、こうなる運命は決まっていたのだ。気持ちが定まった栞は、朝の夢みたいな光景の一部に、自らもなる。


 時間を忘れて歌うことに没頭していたせいで、始業前の予鈴が鳴っていることにすぐ気づかなかった。いけない、もうこんな時間、と絵梨花が掛け時計を振り仰いで、椅子から離れた。
 感想を共有し合うこともできないまま、三人はそれぞれの教室へと駆け出していく。途中の階段で三年生の二人とは別れ、栞は横目で遠ざかっていく後ろ姿を確かめた。
(また、こんな風な朝が訪れるかしら)
 絵梨花と莉奈は卒業後の進路を決めなければならない大事な時期。そんなに自由が利くとは思えない。だけど、これきりになってしまうのは栞にとってひどく寂しい。
 教室にそっと戻ると、ほかの同級生たちはみな席に着いていた。栞は小言を告げられてからしおしおと自分の椅子に腰掛けた。悪目立ちしたのは嫌でしかないけれど、さっきまでの満たされていた時間を思い返し、あっさりと前向きな心持ちに傾いた。
「なにしていたの?」
 担任教師からの話が終わると、美津紀が寄ってきて問うた。
「ちょっと、音楽室に行っていてね。絵梨花先輩と――あと、平岡莉奈先輩って知っている? たぶん、ダンス部の方。もう引退しているとは思うけど」
「平岡莉奈? さあ、誰だったかしら」
 栞はあの卓越した身のこなしを目の当たりにして、彼女はダンス部所属だっただろうと見当をつけてみたわけだが、美津紀は少しも思い出すところがなかったらしい。栞も自分で言いながら、確かに今までまったく見かけた憶えがなかったと、首を傾げる。
「ねえ、あの噂聞いた?」
「うん、聞いた。どうしてそんなことするのだろうね」
「もう二年が経とうというのに。……瀬尾かごめさんの死の真相を明らかにして、犯人を見つけ出すなんて。探偵気取りなのかな」
「でも、ちょっと気にならない? ほんとうに自殺だったのか、そうではなかったのか」
「だけど、誰かが手を汚したなんて考えられないわ」
 近くの席でひそひそと囁き交わしている話が、栞と美津紀の元にも届いてくる。栞は眉根を寄せて、ため息をつきたくなる。二年前のちょうど今頃、当時一年生だった女生徒が自ら命を絶った話は、入学してそう時間の経たないうちに誰にでもなく教えられた。いろいろな尾ひれがついていたように思うが、最近それに関する噂がよく出回るようになっている。なんでも、文芸部所属の二年生が調べ回っているそうだ。どういうきっかけで始めたのか皆目見当がつかないけれど、そんなことしなければいいのにと、栞は感じる。
 ふと視線を戻すと、美津紀としっかり目が合った。美津紀も同様に考えていたらしく、肩を竦め、苦笑いを浮かべた。
「もしほんとうに手を汚した人がいるのなら、今もこの学校にその狼が潜んでいることになる」
「え……」
 視線を儚げに伏せ、美津紀は急にそんなことを言い出す。
(美津紀まで噂を信じているというの――?)
 栞は意外に思う。
「既に卒業している可能性もなくはないけど」
「……殺したいほど誰かを憎む感情が分からないし、そういう感情を隠して過ごしている女生徒がこの学校にいるなんて、とても考えられない」
 性格が合う、合わないはいくらでも存在する。栞だって親しくなる人、そこまででもない人が存在し、現に美津紀とは一番近い関係を築いている。
「ねえ、文芸部の先輩に、実際のところどこまで明らかになっているのか、訊きに行かない?」
 栞は目を瞬く。まさか美津紀がそんなことを言い出すなんて。
「そんな、事故となんら関わりのない私たちが行って、話してくれるわけないでしょ。それに、美津紀はゴルフが忙しいじゃない」
「行ってみないと分からないわ。ゴルフも、これから雪深くなる季節だから、しばらく校外での練習はお休みになるの」
 ね、とかわいらしく首を傾げ、目を細める。美津紀の言う通り、行ってみなければどんな答えが返ってくるか見当もつかない。
(ほかでもない美津紀が希望しているのだから、仕方ないか)
 栞はあっさり観念した。

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