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わたしたちの恋と革命 ep.7

 降りたことのない駅でそわそわと待っていると、前方から芽衣が歩いてきて、軽く手を振った。詩の胸に、一気に安堵感がやって来る。
「おはよう」
「おはよう。もう、改札前って言ってたじゃない」
 待ち合わせの時間よりも少し早く着いた詩は、最初は改札前で待っていたのだが、知らない男に話しかけられて、待つ場所を変えたのだった。
「え、ナンパ? 大丈夫だった?」
 詩は首を傾げる。
「ううん、新手のナンパだったのかな……人脈を広げたいから、名刺交換して欲しいって言われて。名刺持ってないって言ったら、じゃあ名前と連絡先を教えて欲しいって言われて」
「ナンパでは……?」
「答えないでいたら、どこから来て、どんな人とこれまで会ってきたか滔々と話されて」
「若い人だった?」
「若かった」
「かっこよかった?」
「顔は、まあ。話し方とか距離感とか、違和感だらけだったけど」
「へえ、怖い。なにごともなくてよかったね」
 思い返すと、誘われていたというよりも、変な絡まれ方をされただけのような気もする。ただ、芽衣の言う通りなにごともなかったからと、詩は気持ちを切り替える。
「今日、ほんと暑いね。芽衣、七分丈で暑くないの?」
 梅雨が明けて、あっという間にうだるような暑さが続くようになった。芽衣は秋冬もののトップスに、フレアスカートを合わせている。
「わたし、肌あんまり出したくなくて。冷房も苦手だし」
 あ、と芽衣がなにかを思い出したみたいに呟く。「この駅、ペデストリアンデッキだ。いいね」
 カタカナの意味が分からなかった詩は、曖昧に笑っておいた。
 大通り沿いを並んで歩いていく。駅の近辺は家電量販店や飲食店が軒を連ね、歩いて行くにつれ、だんだん企業のビルや住宅の割合が高くなっていった。左右をぼんやり観察しながら、見慣れない風景だけど、どこかの街とそう違わない、と詩は感じる。
「茉白ちゃん、緊張してるかな」
 目的の建物が見えてきたとき、芽衣が言った。
「どうだろ。緊張してるところ、あんまり想像つかないけど」
 茉白は知り合ったときからいつも堂々としていて、プレッシャーとかとは無縁そうだ。
 サッカーコートや水泳施設が併設されている体育館が、今日の目的地。いかにも真新しい綺麗なその建物で、これからバスケットボールの地区予選が行われる。運動神経抜群の茉白は、現代日本文化研究会(またの名を若草同盟)立ち上げ後も、可能な限り運動部の試合に出ていた。茉白が加わったところで、チーム戦だから、試合には勝てたり勝てなかったりするのだが、少なくとも言えるのは、茉白がいないと必ず一回戦で負ける。
 三人で話しているときに、茉白が今週末、試合に出る予定と聞いて、芽衣は一度プレーしている姿を見てみたいと言い出し、詩も誘われた形だ。芽衣が言い出さなければ思いつきもしなかったことだが、確かに一度くらいは茉白の実力がどれほどのものなのか目にしてみたい。
 詩は学習面もそうだが、スポーツに関しても至って普通だ。得意とは絶対に言えない。だけれど、別段運動音痴ではない。つまり、目立たない。誰もがそう思うように、スポーツが得意な人は羨ましいと感じる。
 芽衣はスポーツ全般が苦手だ。瞬発力も体力もなく、球技におけるボールの扱いも不得手で、水泳に関しては恐怖心を抱いている。でも、授業で見学に回ることは一切なく、苦手なりになんとかやってみようと前向きに取り組んでいる。いつかできるようになるかもしれないと夢見ているわけじゃなく、目の前のことと真剣に向かい合えない人はきっとなにも果たせないだろうと信じているからだ。身近な茉白はもちろん、スポーツが得意な人を心の底から尊敬している。先天的な能力もあるにしても、努力して獲得した成果だから。
 二人は建物内に入ると、客席に腰を落ち着けた。コートを見下ろせる位置に設えられていて、眼下では選手たちがウォーミングアップに励んでいる。
 芽衣に肩を叩かれ顔を向けると、ある一点を指差していた。そこには、仲間たちと和やかに談笑しながら、時折シュートを放っている茉白がいる。詩は目を見張った。茉白の見慣れない表情に、見慣れない格好。少し前まではこれだけが彼女の日常のすべてだったのかもしれない。
 なんとなく想像してみる。
(わたしと……わたしたちと出会っていなかった茉白。みんなの目を引いて、土日は運動部に駆り出されて。それ以外の時間は――)
 そこで、詩ははたと気づく。出会う前の茉白がなんでもない時間、なにをして過ごしていたのか。有名だから顔と名前は一致していても、普段どうしているかなんてまるで気にしたことがなかった。
 男子みたくボールを扱う茉白は知らない人みたいで、距離以上に遠くに映る。
「茉白ちゃん、かっこいいね」
 隣で芽衣が呟く。そうだね、と詩は同調する。
 どうして三人でいることを選び続けているのか、茉白の真意は分からない。深い考えはないのかもしれない。ただ、一緒にいたら面白いと思ったから、それだけかもしれない。
(全部を知ろうとは思わない。その人の全部を知ってしまったら、その人への興味をきっと失う。でも、茉白のことをもうちょっと知りたい。もうちょっと知ってもいいんじゃないかな)
 アップの時間が終わり、それぞれの選手がベンチに集っていく。もうすぐ試合が始まるのだ。詩は胸の中で「がんばれ」と唱えた。わざわざ応援しに来たのだから。
「こっちまでドキドキしてきた」
 芽衣は両手を組んで、祈るみたいにしている。
 一瞬の沈黙で張り詰めた空気は、ジャンプボール直後の歓声で解き放たれた。


 試合会場の近くのファミリーレストランで打ち上げするけど、というバスケ部の誘いを断って、茉白は詩と芽衣と合流した。電車に乗って学校の最寄り駅まで行き、結局いつもの喫茶店「樹上の庭」で一息つくことにした。「打ち上げ、行かなくてよかったの」詩の問いに、「反省会じゃなくて、祝勝会だったらまだしも、ね」と肩をすくめる。
 疲れはここにたどり着くまでにいくらか抜けていた。試合の情景をまざまざと憶えている。だんだんと敗北へ流されていき、それをどうしようもなかったことが目にも明らかで、悔しさはあまりなかった。
(たぶん、部のメンバーだとしても、そんなに悔しく感じなかっただろうな)
 前半は茉白中心に得点を重ね、一進一退ながらリードを奪っていたが、後半からきっちりマークされるようになると、茉白はほとんどボールに触れもしなかった。反対に、ほかのメンバーは得点の機会が多くなったわけだけれど、どうにも決めきれず。
(まあ、こんなものでしょ)
 今日は暑い日だった。冷たいカフェオレがなによりもおいしくて、何杯でもいけそうだった。
「茉白ちゃん、ほんとかっこよかった。スポーツ得意って聞いてたけど、あんなに上手いなんてびっくり」
 今日の最大の収穫は、プレーしている姿を芽衣と詩に観てもらえたこと。茉白のせいで負けたわけではないから、比較的いいところしか観られていないはずだ。
「勝てれば一番よかったんだけどね」
「しょうがないよ、チーム戦だから」
 素直に称賛してくれる芽衣の隣で、詩はなんの感想もなさそうにアイスコーヒーを啜っている。じっと見つめると、堪えきれないように笑った。
「え、なに」
「詩はどう思った、わたしのバスケ?」
 詩は一つ頷いて、
「かっこよかった。惚れ直した」
「わたしに惚れてたの?」
「いや、恋に落ちた、かな」
「大丈夫、詩ちゃん。なに言ってるの?」
 それからしばらく、冷たい飲み物を静かに堪能していた。店内はいつもの如く、ほかのお客さんはいない。居心地のいい沈黙が辺りに満ちている。沈黙が苦じゃない関係を、三人はいつの間にか築けていた。
 唐突に、詩がその波紋のない湖に石を落とした。
「茉白って、誰かを好きになることってあるの?」
 その唐突さにむせたのは、茉白ではなく芽衣だった。
「詩ちゃん……?」
「いや、変な意味じゃなくて――当たり前なのかもしれないけど、今日も茉白はいつもの茉白で、バスケは想像以上に上手かったけど、試合中に悔しさとか焦りを表に出していなくて……」
 茉白がほんとうのほんとうに盲目的になる瞬間って、どんなときなんだろう、みたいなこと考えちゃって――詩の言葉が、茉白の胸の湖にじわりと波紋をもたらす。忘れて、と付け加えて、冗談にするみたいに詩は笑った。
 どこの部活にも所属していなかったことも、革命を望んだことも、詩と芽衣をそれに誘ったことも、あるいは関係しているのかもしれないし、関係ないのかもしれない。
 詩の言葉は茉白の心の深い部分に残った。ずっと残っていくことになる。

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