冬に咲く花 ep.6

 凍える手を擦り合わせながら、階段を一段一段、登った。廊下の大きめの窓から降り注ぐ陽光が、わずかに癒しを与えてくれる。窓側を歩いて、教室に向かった。
 教室に辿り着くと、同じクラスの人たちがあちこちに数人の集団を作って、他愛のない話に興じていた。その光景は、事件以前のそれ、そのものだった。
 圭佑が逮捕されて、二週間が経った。学校は、被害者と加害者が校内の生徒だということで色めき立ったが、それもすぐに収まった。
 今では、事件について口にする者は一人もいない。まるでなかったかのように扱われた。おかげで、加害者の恋人である私は気が楽だった。
 ニュースで知ったことだが、圭佑は雪絵を殺した動機を、言い争いになって、カッとしてやった、と供述しているそうだ。いじめのことは口をつぐんでいるらしい。裕里のためだろう。番組のコメンテーターは、最近の若者は救い難いものがありますね、たいした動機もなく、殺人を犯すなんて、理解に苦しみますよ、と憤りを顕わにしていた。私はそれを見て、鼻で笑った。あんたなんかに、何が分かるのだ。理解しなくて結構だ。
 圭佑が悪者として扱われる一方で、雪絵は悲劇のヒロイン扱いを受けた。彼女の過去を紹介し、友達のコメントを添えた。「雪絵は、本当に明るい子でした」「私の相談に、いつも親身になって乗ってくれました」ありきたりな、同情を誘う魂胆ありありのものであった。
 所詮、メディアは彼らの都合のいいようにしか扱わない。圭佑の本当の部分も、雪絵の本当の部分も、知らないくせに知ったような素振りをする。
 相変わらず、寒い日が続いていた。冬の出口は見えない。冬が好きな私でも、そろそろぽかぽか陽気が恋しくなってきた。
「ねえ、亜実」
 裕里が近寄ってきた。最近、彼女の空洞が埋まり始めていた。圭佑が犯人だったことでショックを重ねて受けたが、それでもようやく笑顔を見せるようになってきた。空っぽの笑顔でなく、彼女の無垢な笑顔を。
「何?」
「雪絵が死んだのと、いじめがなくなったのって、関係あるのかな?」
 私は愕然として、彼女を見つめた。
 その表情には、認めたくなかったが、暗い陰が存在していた。本来、彼女が持ち合わせていなかったもの。
「何言ってるの、関係あるわけないじゃん」
 私は笑って、ごまかそうと試みた。
「そうだよね」
 裕里も笑った。「最近、変なこと考えちゃってさ。まだ事件のショックから立ち直れてないみたい」
 私は圭佑の言葉を思い出した。裕里の傍にいて、支えてやれ、見守ってやれ、と彼は言っていた。
「大丈夫。乗り越えるのよ。裕里は、これからも生き続けるんだから。――雪絵の分も、生きるのよ」
「うん」
 裕里はこっくりと頷いた。
 そのまま、自分の席の方に去っていった。


「石川、あんなこと考えてたんだな」
 昼休み、二本君が話しかけてきた。
「聞いてたんだ」
「ああ、おれは耳ざといから」
 私は呆れた。圭佑の後をつけたときもそうだが、彼は犬のようだ。こうまで嗅ぎ付けるとは。
「裕里と付き合わないの?」
「な、何でだよ。それは、まだ時期尚早っつうか」
「冗談よ。真面目に答えないでよ」
 二本君はふくれた。その様子がおかしくて、私は笑った。この調子では、二人が付き合うのは待たされそうだ。
「色々、あったな」
 二本君がしみじみと言った。
「本当よ。あり過ぎたわ」
「ついこの前、六人で話し合っていたのに、二人いなくなって、石川は塞ぎ込んで……」
 裕里だけじゃない。二本君も、私自身も事件を経験して内面の変化が訪れた。変わっていないのは、詳しい経緯を知らない稲田君だけ。でも、彼は変わらない方がいい。話すことは、二度とないだろう。
「二本君と私は、こんな風に話すようになって」
「それもそうだな」
 二本君はふう、とため息をついた。ため息をつくと幸せが逃げると言っていたのは、誰だったろうか。圭佑か、裕里か――雪絵だ。
 彼女が裕里をいじめた理由は、今では推測でしか考えられない。でも、彼女にも何か事情があった気がする。いじめようと思ったきっかけも、裕里を対象に選んだのも、私たちの知りえない、彼女の内面の問題が起因している気がする。
「人間関係って、」
 二本君がそう切り出したので、彼を見た。真剣な面持ちで、正面を見据えていた。
「人間関係って、こんなに壊れやすいもんなんだね。時間かけて、強くさせといてさ」
 私は再び笑ってしまった。そうだ、彼も圭佑に劣らず生真面目な人だった。
「それ、誰に文句言ってるの? 神様とか?」
 私がそう言うと、彼は正面を向いたまま、口の端を吊り上げた。
「さあ? でも、神も社会も人が作ったものだから、結局、人は人しか恨めないんじゃない?」
「人かあ」私は感心した。「語るねえ」
 二本君は満面の笑みになった。
「語るよ。――今回で、身にしみたね。人の真理に近づいた気がするよ」


 私は、私でしかない。他の人生を送ることは不可能だ。裕里も二本君も、与えられた現実をこなしていくしかない。
 圭佑と雪絵もそうだ。彼らは、そういう運命だったのだ。逃れることはできない。
 そう割り切るしかない。
 残念ながら、生きる目的を見つけてしまったため、私は現実から解放されることはしばらくない。何だかんだと理屈をこしらえて、過去と決別し、生きていくしかない。
 好ましい現実も、嫌な現実も、等しい速度で私たちは消化していく。これからも、私は現実を消化し続ける。
 誰でもない、私自身で。

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