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箱に願いを(9)

 わたしの毎日は変わりました。以前の消えそうな火を頭頂に灯した蝋燭のような生き方では、おそらくなくなりました。少しずつ、心は外へと開かれていったのでした。さまざまなことに、より興味関心を抱くようになった、とも言えます。
 春海と予想以上にたくさんの深い話をし、でも、学校では特に親しい関係には変わりませんでした。けれども、ときに言葉を交わすとき、あるいは学校のどこかで目が合ったときなど、秘密めいた目配せをされるようになり、わたしたちだけの楽しみとなっていました。
 冬とはすっかり、いつも一緒にいることが当たり前になりつつありました。そこに、ついに真夏くんも加わるようになったのです。
「温泉って、染井霊園の近くのか。高村光太郎の墓がそこにあった気がする」
「東くん、なんでそんなこと知っているの。意外」
「誰かに聞いたんだったかな……。秋乃が教えてくれたんだっけ?」
「はい、わたしが前にちらっと。よく憶えていましたね」
「やっぱりか。そりゃ、秋乃の話はちゃんと憶えておくさ」
「あらあら、これはどうもごちそうさまでした」
「からかうなよな、会田」
「でも、まさか春海まで一緒になるとは、思ってもいませんでした」
「ほんとに。だけど、とっても楽しかった」
「どんな話をしたの?」
「それは……ねえ」
「それは……ええ」
「なんだよ、二人だけで分かったような顔して。ぜんぜんこっちには伝わってこないから」
 三人で笑い声を上げる、ささやかな時間が流れます。わたしたちは自然な形で、共にいることができたのです。わたしは真夏くんを好いていますけれど、それとは異なった種類の好きを、冬にも抱いています。だから、こうして三人でいられることは、過ぎたる幸せでした。
 そう、あまりに幸福が過ぎたのでしょう――。
 いつからかは分かりません。決定的な事件があったわけでは、きっとないのだと思います。それでも、気がついたらそうなっていました。わたしは心の奥底で、こんな日がやがて訪れることを予感していた気がします。あの箱を手に入れてしまった瞬間から。
 真夏くんは相変わらずわたしに笑いかけ、優しくしてくれて、満ち足りた日々を与えてくれました。しかし、だんだんと、彼が冬をじっと見つめるシーンが多くなっていったのです。ふとした刹那に、愛おしむように目を細めて、冬を捉えている彼。冬は、誰にも知られていないような存在だけど、ほんとうはとても魅力的な人で、一緒にいる時間が増えるにつれて、彼もそれに魅せられ始めたのです。わたしだって冬の内側から発するような眩しさ、人の心に入り込んでくるような笑顔が魅力的だということは知っていて、だからこそ、友達になりたいと余計に望んだのです。それは認められます。わたしは真夏くんが好きでした。真夏くんが次第に離れていく心地がしても、彼を恨む気にはなれなかったのは、彼の「浮気相手」がほかでもない冬だったからかもしれません。わたしには真夏くんも冬も恨むことはできません。真夏くんを手放したくないと強く願いながらも、でも、冬を見る彼をどうすることもできない。そういう状況になっていっても、真夏くんと別れるなんて考えられもしなかったですし、まして、冬と友達関係を絶ち切るつもりも微塵もないわたしなのでした。雨の日も風の日も、わたしはうじうじと考え続けました。どうすれいいのでしょう。わたしはどんな選択をするべきなのでしょう。眼鏡をかけているから、すべてがよく見えすぎてしまいます。明瞭に映ってしまうから、もっと世界がぼんやりと見えていたらよかったのです。そうしたら、わたしはこんなにも悩む必要はなかったのかも分かりません。そうだったらそうで、もっと苦しむ現在だった可能性もありますけれど。どんな選択をすべきか、教えてくれる存在が一つだけありました。
 吉祥寺に行こうと高田馬場駅から東西線に乗り換えましたが、中野止まりの電車でした。そこで、また乗り換えればよかったのに、わたしはなんとなく、その駅を出ました。改札口を抜けて、中野の街へ。広場がありました。キーボードを弾きながら歌っている女性がいます。向こうの方には商店街が続いていて、たいそう賑わっていました。
 商店街の方へは進まず、わたしは左手に歩き出しました。エスカレーターに乗って、上がってゆきます。心なしか、ほかの街よりも風が強いような気がしました。それほど高い建物は目立たないのに、ビル風という言葉を思い出させる感じの冷たい風。
 高台に出ました。そこから、さきほど降り立った駅のプラットホームが見えます。落合駅から中野駅へ向かう中途で、地下鉄東西線は地上へ出るのです。そこに立っている人たちは、誰もが人待ち顔で。電車が来ました。傍で、親子が電車の入ってくる様子を眺めていました。子どもはまだ稚く、その様子に興奮していました。ちゅうおうせん、と何度も繰り返し口にしています。
 少し歩くと、駐輪場が見えてきました。色の層を成すかのごとく整然と並んだ自転車たち。バス停も見えます。制服姿の少女、片足を引きずるようにしているおじいさん、髪の色が奇抜な若者がそこで同じ箱を待っているのです。
 わたしは鞄から箱を取り出しました。大切なものと引き換えに願いを叶えてくれるという、件の。
 風がひときわ強く吹きました。それは背中を押してくれるようにも、諌めてくれているようにも、解釈によってはどちらとも受け取れました。それでも、わたしはわざわざ見知らぬ街まで来て――ほんとうは思い出のある吉祥寺に行くつもりでしたが、そこへ行けないのも一つの運命だったのでしょう――箱をこうして手にしているのです。今さら引き返す道は選べません。
 真夏くんが好きです。愛しています。あの日、勇気を出したわたしがいてよかった。いろんな思い出を作れてよかった。
 冬はかけがえのない友達です。これから、もっともっと仲好くなりたい、そう望んでいます。
 真夏くんはわたしを大切に想ってくれていますが、もしかしたら冬に特別な感情を寄せているのかもしれません。それを確かめる手立てが一つだけありました。
 真夏くんとの思い出を差し出すから、真夏くんがほんとうに好きな人と結ばれる現在をください。未来ではなくて、現在、あるべき形に。
 ふわっと匂いがしました。香辛料の匂い。手をつないだときの温もり。白濁した湯。膨らんだ乳房。影が差した笑み。真夏くんの笑顔。わたしの赤い縁の眼鏡。
 すべての愛おしいものが掌から砂のようにこぼれていきます。そして、次に風がわたしの髪を揺らしたときには、何もかもが白く、透明になっていました。

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